おくすり手帳

@d-van69

おくすり手帳

 恒夫が病院の待合室で座っていると、入り口から見知った男が入ってきた。彼はその顔を見て内心舌打ちをしたが、相手が自分のことに気づいたと悟ると満面の笑みを浮かべて手をあげた。

 近づいてきたのは武だった。小学生のころからの付き合いだが、正直恒夫はこの男が嫌いだった。武は子供のときから身体も態度も大きく、周りの子供たちをまるで家来のように扱っていた。逆らえばいじめられるから、みんなしぶしぶ武に付き合っていた。大人になってもその関係性は続き、それがさらに武を増長させた結果、70歳を超えた今になってもその不遜な振る舞いは治まらない。

「よう、ひさしぶりだな」

 軽い挨拶のつもりだろうが、力いっぱい肩を叩かれた。それでも痛いとは言えず、恒夫は苦笑を浮かべたまま、

「ああ、久しぶりだね」

「お前もこの病院だったのか。会うの、初めてだな」

「そうなんだよ。君もここだとは知らなかったよ」

 武は自分の肩をもみながら首をぐるりと回してみせつつ、

「まあな。この歳になると、あちこち悪くなるってもんよ」

「でも、見た目は元気そうだけどね」

「いやいや、こう見えて、血圧も血糖値も、コレステロール値も尿酸値も、なにもかも高いんだぞ」

 そこで武は恒夫の身体を眺める。

「お前はどうなんだ?お前こそ病院に来るようには見えないけどな」

「実は僕も糖尿なんだよ」

「は?お前痩せてるじゃないか」

「太ってるから糖尿とは限らないよ。糖尿にはⅠ型とⅡ型があってね……」

「ああ、もうそう言う難しい話はいらないんだよ。ようは糖尿なんだろ?」

「うん。そうだよ」

「それだけか?」

「いや、軽い不整脈もあるし、胃の調子も悪いんだ。だから薬を飲むのも大変で」

「わかるわ。飲む薬の種類が多いと、間違えたり飲み忘れたりするんだろ?」

「そうなんだよ。じゃあ君も?」

 武はそれには何も答えず、意味ありげな笑みをうかべながら、肩から提げたバッグの中から冊子のようなものを取り出した。

「俺は大丈夫だ。これがあるからな」

「それは?」

「おくすり手帳だよ」

「え?それなら僕だって持ってるけど」

「お前の手帳と俺の手帳はちょっと違うんだよ」

 恒夫は自分のものと武が手にしたものを見比べる。外観は表紙のデザインが少し違うくらいでサイズも厚みも同じようなものだ。

「どう違うんだい?」

 その問いに武は自慢げにぱらぱらと手帳をめくりながら、

「これは不思議なおくすり手帳でさ。この世に一冊しかないんだぜ。ほら、野木がやってる店、知ってるだろ?」

 野木とは彼らの同級生だ。

「ああ、羅衛門堂とかいう骨董品屋だね」

「そう。そこで手に入れたんだ。これに自分が飲む薬の用法用量を書き込んでおけば、絶対に忘れないんだぜ」

 羅衛門堂は表向き骨董品屋だが、実際にはそうは見えない不思議な品が幾つも並んでいる。どこから仕入れているのはわからないが、恒夫もそこで便利な道具を買い役立った覚えがあった。あの店なら、そんな手帳が置いてあっても不思議はない。自分もたくさんの薬を飲む身なので、俄然その手帳がほしくなった。だが、武はこの世に一冊しかないと言っていた。それなら、彼から奪い取るほかないが……。と、思案したところで恒夫にあるアイデアが浮かんだ。

「そうだ武君。君、まだカラオケやってるの?」

「おう。もちろんだ。俺は歌を愛しているからな」

「だったら久しぶりに聴かせてほしいな。武君の美声を」

 実のところ武は聞くに堪えないほどの音痴だった。だが本人は全く気づいておらず、それどころか人に聞かせるのが大好きだった。そのために家にカラオケスタジオを作ったほどだ。本音を言えば彼の歌など絶対に聴きたくはなかったが、武が持つ手帳を手に入れるため、恒夫はどうしても彼の家に上がりこむ必要があった。

 そうとは知らない武はうれしそうに胸を張る。

「もちろんいいぞ。それなら早速このあとどうだ?晩飯に寿司の出前でもとってやるから、それまでゆっくり俺の歌を聴いていけ」

 そこへ看護士が恒夫を呼ぶ声が聞こえた。彼は武と約束を交わし、診察室へと急いだ。



 武はカラオケ機材のセッティングに忙しそうだった。うまい具合に彼のバッグがソファの上に置かれたままになっていた。

 恒夫は彼の目を盗み、バッグの中からおくすり手帳を抜き出した。それを開き、書かれた内容を確認する。案の定、夕食後に血糖値を下げる薬を飲むことになっていた。彼はペンを取り出し、1錠と書かれた文字の間に0を書き足し、10錠にした。手帳を元通りバッグに収めた直後、耳を聾するほどの爆音が流れ始めた。

 それからの2時間は地獄のようだった。唯一の救いは年齢のせいか、武の声量が以前よりも落ちていることだった。そのぶん昔に比べて聞きやすくなっていたが、音程の外れ方は少しも変わりがなかった。

 聞きほれているようなしぐさを見せては褒めちぎり、感動したと言っては拍手をするうち、ようやく出前の寿司が届いた。

 握りをつまみながらも武はマイクを離そうとしないものだから、食事を終えるのにさらに2時間を要した。ぐったりと疲れた恒夫とは対照的に、武は飄々とした態度で、

「さて、食後の薬を飲まなきゃな……」

 鼻歌混じりに今日病院から持ち帰ったばかりの袋を取り出し、入っていた錠剤をテーブルの上に並べ始めた。降圧剤、尿酸値やコレステロールを下げる薬は一錠ずつだが、血糖を下げる薬は10錠だった。彼は疑念を抱く様子もなく、それを端から順に口に放り込み、水で流し込んでいく。

 全ての錠剤を飲み終えた武は再びマイクを手に取り、小さなステージに立った。数曲歌い終えたところで彼の様子に異変が現れた。暑くもないのに異常に汗をかき始めたのだ。そうするうちに全身が震えだし、まともに歌えなくなった。やがて白目をむいて昏倒し、意識を失った。

 恒夫は恐る恐る武に近づいた。耳を済ませると、呼吸はしているものの浅く、徐々に回数も少なくなり、そのうちにぴくりとも動かなくなった。

 武の手首に指を添え、脈がなくなっていることを確認すると、恒夫は119番に電話をかけた。知人が意識を失った。どうやら薬を飲み間違えたようだと告げた。

 救急車の到着を待つ間、彼は武のバッグから再びおくすり手帳を抜き出した。これでこの手帳は僕のものだ。そう思った直後、

「そうだ。僕も薬を飲まなくちゃ」

 つぶやきながら恒夫は病院でもらったばかりの薬をテーブルの上に広げると、なんの違和感も覚えぬまま、血糖を下げる薬を10錠飲み下した。

 救急車が到着したとき、小さなカラオケスタジオには、薬の用量を間違え低血糖で死亡したと思しき二人の老人が横たわっていた。

 恒夫は知るよしもなかった。所有者が移っても、おくすり手帳に記された内容はそのまま引き継がれることを。 

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