第42話40 魔女と王宮 2
フェリアの声には断られることを知らぬ傲慢さと、そして苦悩と疲労が感じられた。
「はい……では、失礼いたします」
二重にかけられた
それはまるで、見知らぬ異界へとザザを誘うようだった。
「……」
フェリアは大きな寝台に座り込んでいた。
寝巻きではない。真ん中にクッションが敷かれた大きな籠が置かれ、その中に黒っぽい犬が丸くなっている。犬は舌を大きく出して、苦しそうに荒い呼吸をしていた。腹部は大きく膨らみ、クッションに小さくついている黒い染みは血だ。吐血したのだろう。
ザザにはひと目でこの犬がもう長くはもたないことがわかった。
これがさっきおっしゃってたフェリア様の愛犬……かわいそうに……。
「ザザ、随分久しぶりね」
ザザが犬を見つめているとフェリアから声がかかった。こちらは特に病気ではないようだが、顔色は良くなく、目の下には隈ができている。髪も乱れていた。
「離宮のお茶会から二月くらい経つのかしら? 少しは太ったみたいね」
「はい、フェリアさま。フェリアさまにも、ますますご、ご健勝のご様子……いや、えっと?」
型どおりの挨拶をしようとしたザサは、はっと思い返す。どう見てもフェリアはご健勝には見えない。主に外見の面で。
「もう……首を傾げていうセリフじゃないでしょ。ほんとにザザは正直者ねぇ。だからあなたを呼んだんだけど……今ね、色んな事情で私とても苦しいの。原因の一つはこの子、見て頂戴! こんなになって!」
「苦しそうですね」
「アレックスと言うの。子犬の時からわたしが育てたのよ。でも、この間の襲撃で怪我をしてから、どんどん調子が悪くなって……獣医に見せたら内臓が……き、傷ついていて……もう……助からないって! うっ……」
きっと、今まで気丈に耐えていたのだろう、愛犬の様子を説明しながら、フェリアの涙腺は一気に決壊した。
「初めは気づいてやれなかったの! あ、あの事件以来、私の周りがすごくいろいろ厳しくなって、ちっとも構ってやれなくて……、二、三日して血を吐いているのを侍女が見つけて! うわぁ〜!」
フェリアはついに籠の前に突っ伏してしまった。
「私のせい、私のせいよ! アレックスは私を守ろうとして、悪い男に蹴られたの! それなのに、私は! 気づいてもやれないで! どうしたらいいの! 私のせいなのに、みんなそうじゃないとかごまかそうとするのぉ」
「……」
何を言っても今は無駄だろう。ザザはしばらくフェリアがヒステリックに泣くのに任せた。犬はその泣き声が聞こえたのか、薄く目を開ける。
「……それで、私を呼ぼうと思われたのですか?」
「ええ、だって、ザザは前に私の傷を小さくしてくれたことがあったわ。あの時は塗り薬のせいにしていたけど、それだけじゃないってこと、私なんとなくわかってた。あまりにも治りが早かったもの」
「……」
これは姫君に似合わぬ洞察だったので、ザザは思わず目を見張った。
「ザザにはきっと不思議な力があるのよ。泉で私を見つけてくれたのも、元はと言えばザザなのね。でも、ギディに尋ねても、知らないと言うし。そうこうしている内にアレックスはどんどん悪くなるし、私はもう、どうしたらいいかわからなくて、そこいらの物を投げて喚き散らしたの。そしたらやっと、みんなが動きはじめて……」
「……」
「ザザ、お願い! アレックスを助けてちょうだい!」
「それは……でもおそらく、命はもう助からないかと」
ザザは馬鹿正直に答えた。この様子では持ってあと一日くらいだろう。
フェリアは瞳を大きくしたが、なんとか堪えた。
「ええ、それは知っているの。獣医師にも散々言われたから。でも苦しみをなんとかしてあげたいのよ。できる?」
フェリアは溢れる涙を隠さずに言った。
「……やってみましょう。まず、薬を用意しないと。薬草苑へ使いを」
「ええ、そうね。すぐに取りに行かせる」
「では、フリューゲルさまに
ザザはしっかりした声で言った。
ザザの言ったことはすぐに実行された。
フリューゲルはすぐさま薬草苑に取って返し、ギディオンはフェリアの寝室から一つ離れた侍女用の控室に通された。
「やはりそんなことか」
ザザの説明を聞いたギディオンはさして驚いた風でもなく言った。
「あの犬は、内臓が傷ついていて、助からないと説得しても、フェリア様にはなかなか納得していただけなかった。幼犬の時から育てられたのだから無理もないが。やっと納得したと思ったら、今度は安らかにしてやりたいと言い出されて。獣医が薬で死なせてやろうとすると、それも拒否される。苦しみを取り除いて、それからできるだけ生かしてやりたいと言われて、俺も困っていた。良い犬だったし、あの襲撃の折には勇敢に戦ったから、俺もなんとかしてやりたかった……」
「はい」
「そしてザザのことを思い出されたのだ。殿下なりに、あの時の癒術が普通じゃないと感じたんだな」
「どうしますか?」
「仕方がない。だが、まさか殿下もザザが魔女だとは知らないだろう。俺がなんとか言いくるめてお部屋を出てもらう。ザザとアレックスだけにするから。苦しみを取り除いてやれるか?」
「やります!」
と言うわけで、ザザは今フェリアの寝室にアレックスといる。
扉の向こうには誰も入らぬように、ギディオンが控えていた。
フリューゲルに持たせた書き付けを見たウェンダルは、すぐに入用のものを用意してくれた。元から持っていた薬に薬草園で得た薬草を混ぜた、痛みを軽減する塗り薬と飲み薬である。
ザザは塗り薬を犬の腹に塗り広げ、飲み薬はミルクに混ぜて犬の舌に落とした。それから、魔法を使う為に額に意識を集める。
犬の傷んだ内臓を思い浮かべ、
え?
胸が熱い。
いや、正確には肌に直に触れている石が熱を持っていたのだ。石を取り出すと密かに光っている。こんなことは母の
あの時は夜で月光を吸い込んだせいだと思ったが、今は昼で薄暗い部屋の中だ。
これは? 魔力を使ったから?
ザザは、このところ薬草苑でずっと魔法の修養をしていた。それは母の
しかし、修養で魔力を使っても石は黙ったままだったのだ。
でも今、私の魔力はすごく高まっている。この分なら──。
ザザは胸の石を握りしめたまま、魔力を注ぎ続けた。
命はもう助からない。
でも、どうかどうか、最後にフェリアさまを救ってあげて──。
ザザの集中は深まっていく。
掌に血と水が溜まって膨らんでいた腹部が次第に縮まる様子が感じられた。皮膚を通して空気中に抜けた悪い水が昇華して消えていく。かなり長いことザザは動かなかった。
そうしているうちに苦しげだったアレックスの呼吸が落ち着いてきた。痛みがなくなってきたのだろう。
もうしばらくこうしていれば、体の傷も少しはマシになるはずだった。これで苦しみなく数日は延命できるだろう。
「アレックス?」
「本当はすっかり治してやりたいのよ。でも魔法は万能ではないの。許してね、ごめんね」
ザザの言葉がわかったのか、犬は一度だけ尻尾をぱたんと振って応えた。
「待っててね、今ご主人様を呼んでくるから」
間もなくギディオンに付き添われてフェリアが飛び込んできた。
「アレックス! アレックス!」
フェリアは犬の籠を覗き込み、愛犬がもう苦しそうにしていないことを知った。
「アレックス! 私がわかる? もう痛くないの?」
犬はそっと寄せたフェリアの手を舐めた。
「ああ! アレックス! よかった!」
「フェリアさま、あまり大きな声は。彼はこれから多分入眠すると思います。目覚めたら暖かいミルクをあげてください」
「え? ああそうね。ありがとうザザ! こんなに穏やかなアレックスは怪我の前以来よ。よっぽどお薬が効いたのね」
「そうかもしれません」
「こんなことなら、もっと早くにザザを呼んでいれば……」
「それでも結果は同じです。お腹を強い力で蹴られたのがいけなかったようです」
「……」
「賊には十分な罰を与えてあります」
ギディオンが重々しく告げる。
「知っているわ。ギディがそう言うなら、私が想像するより厳しい罰よね」
フェリアはこの少女にしては低い声で言った。
「私には知らされないことが多すぎる。今までは良い子にしていて、それでもいいと思ってきたけれど、これからは少しでも自分で考えて動きたい」
「殿下」
「ギディ、あなたにはまだ答えてもらっていないことがあるわね。でも今はいいの……ザザ」
「はい」
急に名を呼ばれて、ザザは背中を伸ばした。
「来てくれて本当にありがとう。このお礼は必ずします。それから……重ねてのお願いなんだけど、最後までアレックスのそばについていてやってはもらえないかしら?」
「そのようなことは……」
窘めるようなギディオンの声をフェリアは強く遮った。
「私はザザに頼んでいるの。でも確かに、私の頼みじゃ断れないか……ザザ、正直に言ってちょうだい、断ってくれたっていいわ。どう?」
「大丈夫です。私はアレックスの側にいます。でも、ウェンダルさまには届けを出したほうがいいかと。これからちょっと行ってきます」
真面目なザザは、休むと言うことにあまり慣れていないのだ。
「ザザはそんなことまでしているのね。偉いわねぇ。わかった、薬草苑の方には私から使いをだすわ。でも、私の名前だとよくないだろうから、手間をかけるけど、ザザ一筆書いて下さる? そこに紙とペンがあるの」
「わかりました」
「……自分が我慢することにちっとも躊躇いがないのね、ザザ、ありがとう」
部屋の一隅で、さっそく手紙を書き始めたザザの背中にフェリアは小さくつぶやいた。
アレックスはそれから五日後の夜明け前に息を引き取った。
苦しみはなく、安らかな死だった。
最後の二日、ほとんど寝ないで付き添ったフェリアは静かに涙を流し、愛犬の死を
心配したギディオンやアンヌ達が何度か様子を見に来て声をかけたが、結局フェリアの好きなようにさせ、最後はザザでさえも退室して、愛犬の最後はフェリアが一人で看取った。
彼女が初めて正面から向き合う命の終わりだった。
「お前以上の犬はいないわ。アレックス、私の友達。本当にありがとう……お前の勇気を私は無駄にしない。王女としてできることを考える」
フェリアは、涙に濡れた目でそう言った。
「お部屋から見えるところに埋葬してあげましょう」
夜明けの部屋にそっと入ったザザは、愛犬の眠る籠の前に座り込んだままのフェリアに声をかけた。
「近くにフェリアさまのお好きな樹を植えるとよいかと思います」
「そうするわ。なにからなにまでありがとう、ザザ」
「今はこれを飲んでお休みください。ほんの少し苦いですけど」
ザザは薄黄色いお茶を差し出す。それは熱くも冷たくもない薬湯だった。鎮静効果があり、眠りの質を高めるザザの調合した薬茶である。
一口飲んだフェリアは、はかない微笑みを浮かべた。
「ほんとね。ちょっと苦いわ。でも、なんだか落ち着く香りがする」
ザザの淹れたお茶を飲み干してフェリアは眠った。
ぐっすり眠った王女を、ザザとアンヌ、侍女たちが見守る。
そして、夜が明け染めた頃、静かに入ってきたのは、この国の国王と王妃、そして王太子だった。
*****
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