忘れてしまう

堕なの。

忘れてしまう

「あの、大丈夫ですか?」

 心配で堪らないといった顔で話しかけてくる彼女を見つめる。大丈夫、とは何のことだろうか。最近あったことといえば、彼氏と別れたことぐらいだ。

「大丈夫だよ。大して好きでもなかったし」

 本心からそう言えば、彼女は陰りのある表情をした。本当に好きなわけではなかったのに。なぜこんな反応をされるのか理解が出来なかった。

「また、ですか」

 また、とは一体どういうことだろうか。そういえば、親友が海外に移動した後もこんな話をした気がする。親友なんて、時と場合によって変化していくものなのだから気にしないで、と言ったはずだ。

「写真フォルダ、見返さない人でしたっけ」

 写真は取るだけ撮って満足してしまうから、見返すことは殆どない。スマホを持ってからでも、数える程だろう。

 視線で促されたので、仕方なくフォルダを開いた。そこにいたのは、元彼の隣で満面の笑みを浮かべた私だった。これは一緒にクレープを食べている写真だ。たしか、近くにいる人に頼んで撮ってもらったのだ。あのときそれを強請ったのは私だった。

 昔にスクロールしていけば、親友と変顔をしあっている写真や、今はいない妹とふざけあっている写真が出てきた。どれも幸せそうな表情をしているのに、幸せだと感じたことを心が覚えていないのだ。

「先輩、大切な人がいなくなると、その人に対する大切だという感情を忘れてしまうみたいなんです。昔から」

 嘘だ、とは思えなかった。彼女の顔は真剣で、その瞳に貫かれるような心地がしたからだろう。それに、あんな写真を見てなお、自分を正常だとは思えなかった。

「私のことも、忘れますか?」

 そんなの、離れると言っているようではないか。もうそばにはいられないと。

「癌が見つかったんです。入院になるので、辞表を出しに来ました」

 二の句が継げなくなった。目じりに涙を溜める彼女を見て、心がざわつくのを感じた。気づいたときには、叶わない約束を口にしていた。

「忘れないから。絶対に……」

 無理だと言わんばかりの視線が刺さってくる。私も、直感で無理だと思った。それでも、覚えていたいというこの気持ちも本物なのだ。

「じゃあ、お願いです。先輩は、適度に大事だから、大切だという感情を忘れてしまうんです。だから、なくしたあともまだ大切だと思えたら絶対にその気持ちを伝えてください」

 その言葉に、何を返したかは覚えていない。彼女はあまり時の経たないうちに亡くなり、私は彼女のことを大切だと思えなくなった。彼女は、あの、冬の凍てつく氷の中に消えていった。わたしは未だにそんな大切な人には出会えていない。

「あの、大丈夫ですか?」

 新しく出来た部下のその言葉に、あの日の彼女が見えた。

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忘れてしまう 堕なの。 @danano

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