青春ド素人魔術師、王子様にじわじわ囲われて逃げられない

蓮水 涼

第1章 亡き妹の願い

第一話


 アリーチェの一日は、だいたい同じ怒声から始まる。

「アリーチェ!! アリーチェ来て! 早く!」

 今日も癇癪を起こしたように呼ばれたアリーチェは、待機していた廊下からこっそりと中を覗くように部屋の扉を開けた。

「そんなところで何してるの! さっさと来なさいよ愚図!」

「は、はいっ。すみません、お嬢様」

 ほぼ毎日アリーチェを朝早くから呼び出す彼女は、この屋敷の主人であるヴィッテ侯爵の娘だ。

 夢見る乙女のようにふわふわの金髪は妖精のようだと褒めそやされ、桃色の瞳は彼女の愛くるしさを一層輝かせる宝石のよう。

 アリーチェから見ても可愛らしい彼女は、アリーチェの妹と同じ一つ年下のお嬢様。

 けれど、アリーチェは彼女――ナタリー・ヴィッテを恐ろしく思っている。

「絨毯に紅茶が零れたわ。染みになっちゃったから消しておいて」

「は、はい」

「ああでも、あなたのならこれくらい簡単よね? ふふ、どうしようかしら」

 せっかくのかわいい顔も台無しなほど、ナタリーが意地悪く口端を歪める。

 悪い予感しかしないので、どうもしないでほしいと内心でびくびくしていたら、新しく淹れ直された紅茶のカップをナタリーがひゅっと投げてきた。

 目の前で盛大に飛び散りながら、アリーチェの腕にも黄金色の熱い液体がかかる。

「っ」

「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ」

 ナタリーは心底愉しげだ。こういうことは日常茶飯事で、むしろ頭から熱い紅茶をかけられなかっただけマシなほうだろう。

 この場にいるメイドは見て見ぬふりをしている。主人と一緒になって嗤うことはないけれど、助けてくれることもない。

 とりあえず、まずは絨毯の汚れを綺麗にしようと思って記憶している青の魔導書グリモワールに刻まれた魔術式を詠唱しようとした。

 が、今度はソーサーを投げられて阻まれる。

「だめよ。魔術でやってしまったら面白くないでしょ。だから魔術を使わずに、今日中にこの染みを全部綺麗にしておいてちょうだい」

「えっ、で、ですが、今日は旦那様に」

「口答えするならもっとぶちまけてやってもいいのよ?」

「っ……わかり、ました」

 諦めたアリーチェは、どこまで飛び散ったかわからない染みを思って泣きたくなった。

 それでもグッと堪えて、染み抜き用の掃除道具を持ってこようと立ち上がる。

 ナタリーはだいたい昼間は出掛けているので、彼女のいない間に魔術を使って染みを抜くことはできる。ただし、見張りのメイドがいなければ、の話だ。


 アリーチェは、魔術の腕を買われて侯爵家に連れて来られた孤児である。

 魔術で侯爵家の役に立つようにと、ヴィッテ侯爵には厳命されていた。

 代わりに病弱な妹を入院させてもらっていて、その費用や薬代も侯爵が支払ってくれている。

 たった一人の、大事な妹。

 だからこそ、ここでどんな扱いを受けたとしても、以前のようなスラム街での生活に戻るわけにはいかないのだ。

 それにあの頃は、ドジなアリーチェでは一日分の食料も確保できないほど大変だったけれど、今は一日に二回、固いパンをもらえる。妹は屋根のある場所で眠れるし、治療に専念できる環境の中にいる。

『わたしね、早く元気になって、そしたら今度は、わたしがお姉ちゃんのことを守るの!』

 そんな妹の声を思い出して、震える膝に力を入れた。

 スラム街にいた頃より食べられているはずなのに、パン二つではまかなえないほどの仕事量だからか、アリーチェの足取りはいつも危うい。それが気に入らないナタリーは、追い打ちをかけるようにアリーチェの背中に「早くして!」と怒鳴ってきた。

 急いで部屋を出て、我知らずため息をこぼす。

 侯爵には魔術の腕を買われてこの屋敷にやって来たのに、その娘であるナタリーは魔術を嫌っているのか、結局こうして使わせない。

 魔術の使えない自分なんて、道端の石ころよりも何もできないというのに。

『そんなことない。お姉ちゃんは、すごいんだよ。だってわたし、あの本になんて書いてあるか全然読めないもん。魔力だけあっても、魔術は使えないんでしょ? 頭が良くて、文字も読めなきゃだめなんだって、トーマスおじさんが言ってた。だからお姉ちゃんは、すっごいの!』

(リーシャ……)

 落ち込んだとき、いつもアリーチェを助けてくれるのは妹の言葉だ。

 絶望を背負ったような姉とは違い、妹は希望を背負ったように絶えず明るかった。

 妹のほうが病気で苦しいはずなのに――いや、アリーチェに隠れて泣いていたほど辛いはずなのに――アリーチェの前ではいつもそうやって励ましてくれた。

 大好きな妹。大切で、絶対に死なせたくない存在。

 侯爵が許してくれなくて、もう半年も会えていないけれど。

(それでも頑張らなきゃ。リーシャのために)

 心を奮い立たせて、踏みしめるように足を動かす。本当は走りたいのに、走れないこの足がもどかしい。

「アリーチェ、そこで何をしている。今日は鉱山に行くと言ってあるだろう。早く準備しなさい」

「あ……すみません、旦那様」

「まったく、魔術以外は本当にとろい子どもだ」

 頭を下げたまま、侯爵が去るのを待つ。

 反抗しても余計な体力を使うだけだとわかってからは、口を閉ざすようになった。

(鉱山だから、今日は宝石を見つけろって言われるのかな。それとも金? 銀?)

 この世界の魔術は、全て五種類の魔導書に刻まれていると言われている。

 黒、白、青、緑、赤の魔導書。

 色によって特性があり、赤は炎系、緑は風や土系、青は水や氷系で、白は光や癒やし系と大別される。

 黒が一番解読の難易度が高く、順に白、青、緑、赤と続く。難易度が高いものほど威力の強い魔術が刻まれているともいう。

 ただ、黒の魔導書に至っては、まだ誰もそこから魔術を発見できていない。けれど他の色の魔導書と違って、おそらく不吉な魔術式が刻まれているのではないかと囁かれているらしい。

 なぜ孤児のアリーチェがここまで詳しく、また魔導書なんて手に入らないはずの環境で魔術が使えるのかというと、全てはトーマスおじさんのおかげだった。

 彼は昔魔術師だったらしく、同じスラムで暮らすよしみで、よくアリーチェたちに魔術のことを教えてくれた。トーマスおじさんが若い頃に買ったというボロボロの魔導書を見せてもらいながら、一緒に色んな魔術の練習をしたものだ。

 そのトーマスおじさんも、ある日の朝、冷たい身体のまま永遠の眠りについてしまったが。

(とりあえず、先に旦那様の命令を聞いたほうがいいよね)

 魔術はなんでもできる神業ではない。たとえ全ての魔術式を解読し、それを行使できる人間がいたとしても、やはりできないことはある。

 鉱山は侯爵に依頼される中で最も危険な仕事だ。

 一度地盤が崩れて生き埋めにされそうになったこともある。

(今朝のパン、ポケットに入れていこ)

 過去の教訓から、アリーチェは朝と夕方に配給されるパンをいつも数回に分けて食べている。まだ今朝の分が残っているので、万が一を考えて、それを非常食にしようと考えた。

 屋根裏にある自室へ戻り準備をする。そのとき、窓に反射した自分の姿が視界に映って、手入れなんてできていない真っ黒でパサパサな髪が目に入った。

 けれど、アリーチェのもともとの髪色はストロベリーブロンドだ。初めて侯爵家に連れて来られた日、アリーチェの髪色を見たナタリーが急にいきり立つと、孤児が自分の瞳と同じ色を持つなんて許さないと暴れた。彼女の怒りのままに長かった髪は肩よりも短く切られてしまい、嫌がるアリーチェを押さえて黒の染料で髪色を変えさせられたのだ。

 そろそろ根元のピンク色が目立ってきたなと、重い息を吐く。

 そうして、いつものように玄関ホールで侯爵が来るのを待っていたけれど、いつまで経っても待ち人が現れない。時間に人一倍うるさい侯爵にしては珍しいことだ。

 不思議に思ったアリーチェは、侯爵の執務室に足を向ける。

 重厚な扉を前にして、恐る恐るドアノブに手をかけようとしたとき、部屋の中から微かに声が聞こえてきた。その中に妹の名前が含まれていたため、反射的に手を止める。

 頭で考えるより先に、口は緑の魔導書の魔術式を小声で詠唱していた。

 風に乗って、中の声が鮮明に聞こえてくる。

「旦那様、もう誤魔化すのは難しいのでは」

「そこをどうにかするのがおまえの仕事だろう。なんのための執事だ」

「ですが、彼女は頭のいい子です。たとえ満足に食事を与えず体力と思考力を奪ったところで、いずれ不審に思うでしょう。そうなればバレるのも時間の問題かと。――本当はもう、彼女の妹が亡くなっているなんて」

 ――…………え?

 ドアノブに伸ばしていた手が力なく垂れ下がる。

 その拍子に人差し指が扉に当たってしまい、室内の二人が気づいたように声を潜めた。

(今、なんて……?)

 勢いよく扉が開き、中から屋敷の老執事が焦ったように出てくる。彼はアリーチェの姿を認めた途端、瞳がこぼれ落ちそうなほど目を瞠った。

 罪悪感に塗れたその顔を見て、アリーチェの心臓が重く跳ねた。

「なっ、アリーチェ! おまえ、盗み聞きしてたのか!?」

 動かない執事の代わりに侯爵が大股でやって来て、アリーチェを部屋の中に引っ張り入れる。

「だ、旦那様。今、妹が……リーシャが、なんて……」

 侯爵が盛大に舌打ちした。

「これだから卑しい身分の奴は嫌いだ。勝手に盗み聞きをして謝りもしないのか!」

「で、でも、リーシャがっ……」

 嘘だ。違う。そんはずはない。鼓動がどんどん嫌な音を立てて加速していく。

 だって、昨日執事に妹の様子を訊ねたとき、彼は「徐々に回復していますよ」と答えたのだ。「薬が効いているようです」と、そこにいる老齢の執事は、はっきりと答えたのだ。

「なんで……そんな、はず……」

「ふん、バレたならもういい。そうだ、おまえの妹は死んでるよ。とっくにな!」

「と、くに……?」

 開き直ったように侯爵が嗤う。

「ああ、もう二か月も前にな」

「にかっ……。でも、薬で、元気になってるって……っ」

「馬鹿か。孤児なんかのために、貴族である私が高価な薬を本当に手配すると思ったのか? おめでたい奴だな、まったく」

 違う。違う。違う。

 これは何かの間違いだ。だって妹は、リーシャは、最後に会ったとき、あんなに元気そうに笑っていたのに――。

 そこでハッと気づく。

 妹とはもう半年も会っていない。もっと治療に専念するためだと言って、侯爵が違う病院へ移動させた。

 そこは貴族御用達の病院で、平民が行くことは許されないと聞いた。侯爵の口利きで特別に入院することができたけれど、アリーチェが行けば秘密が公になり、追い出されてしまうかもしれない。病状が快方へ向かえば、また一般の病院に移すから、そのときまでは我慢しなさいと言われたのだ。

 妹が頑張っているのだから、おまえも頑張れと。

 ――でもそれが、もし、嘘だったら?

 妹の病状が悪化して、それをアリーチェに知られないよう隠していたのだとしたら?

『わたしね、早く元気になって、そしたら今度は、わたしがお姉ちゃんのことを守るの!』

 妹の声が脳裏に蘇る。

『お姉ちゃんは、すごいんだよ』

 ううん。違う。何もすごくなんてない。

 妹が苦しんでいるとき、そばにもいてあげられなかった。

「ああ、そういえばおまえの妹、最期に言ってたらしいぞ。お姉ちゃんごめんねって。ははっ、なんの救いにもならない美しい姉妹愛だな!」

 違う。嘘だ。どうして。

 どうして、あんなに優しい子が、こんな奴に嗤われなければならないのだ。

 なんであんなに優しい子が、姉のせいで、死ななければならないのか。

「あ、ああっ、あああああっーー!!」

 もう、どうでもいい。

 何もかもがどうでもいい。

 何を我慢していたのだろう。なぜこんな奴らに仕えていたのだろう。

 もう、頑張る理由も、耐える理由もない。

「ごめんなさっ、リーシャ……っ」





 ――トリス歴1213年。10月1日カレンダエ




 この日、人類は初めて黒の魔導書グリモワールの波動を観測した。

 死者は出なかったものの、のちにこの出来事は歴史の中でも類を見ないほどの人災に認定される。





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「――ああ、怖いねぇ。恐ろしいねぇ。まさかたった十五歳の少女が、前人未踏の黒の魔導書を解読し、あげく行使までするなんて。世も末だねぇ」

 円卓に両肘をつきながら、ローブのフードで顔を隠す男がのんびりと言った。

「面白がるな、三番目。これは深刻な事態だぞ」

「わかってるってぇ。だからこうして宮廷魔術師様が揃ってるんだろぉ? 八番ちゃんが来るなんて、天変地異の前触れかと思っちゃったも〜ん。――あ、でも実際似たようなもんか。あはっ」

「てめぇ、俺に喧嘩売ってんのか」

「やめろ、二人とも。そもそも八番目おまえが久しぶりってのは事実だろうが。そんな嫌みでキレるくらいなら会合にちゃんと参加しろ」

「チッ」

 円卓を囲む十二人の面々は、誰もが揃いの白いローブを羽織っていた。

 そして、誰もが顔を隠すようにフードを目深に被っている。

 それまでずっと黙っていた内の一人が、この言い合いを止めるように咳払いをした。

「では、これ以上話していても埒が明かないので、多数決で決めましょう」

 それが一番早いと、同意するように全員が頷く。

「今回『黒の魔導書』を行使し、建造物の破壊及び怪我人を発生させたアリーチェについて、彼女を我々宮廷魔術師の仲間として迎え入れることに賛成の者は挙手を」

 すっと、三分の二以上の手が上がる。

「よろしい。では、宮廷魔術師〝一番目の魔女〟の名において、アリーチェを特例の〝十三番目の魔女〟として迎え入れることを宣言します」


 ずっと空席だった、十三番目。

 かつて当時の王を裏切り、以来不吉な席として空いていた席が、数百年ぶりに埋まった。

 はたしてそれが吉と出るのか、凶と出るのか。

 それぞれの思惑を抱えて、十二人の魔術師たちは円卓を後にした。



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