第2話

 共通テスト1、2ヶ月前までは二次試験対策の勉強をするのが主流だ。

 難易度の高い問題をただひたすら解き続け、問題のパターンを覚えられるかが勝負の鍵。大学の入試試験は他の大学の入試試験で出題された問題をアレンジして取り入れることがある。だから自分の志望している大学よりも偏差値の高い大学の過去問も解いていく。


「こんにちは〜」


 高校が夏休みに入るまでは予備校の開校時間は昼からだ。

 朝に問題集をひたすら解き、午後一番に予備校に行って講義を受ける。それが私の日課だった。


「こんにちは。流石は香恋、今日も早いね」


 受付に行くと誠が私へと挨拶をする。予備校生証をカードリーダーにかざす。入室と退室の際には、これをすることを義務付けられている。なんでも出席数を把握するためだとか。


「誠も早いね。大学生って案外暇なんだ」


 私は皮肉を込めて言う。誠は担当である火、金、日は毎日のように開校から私が帰る時間まで受付に座っている。あまりにも長居しているからか担当の生徒以外にも勉強を教えていた。整った顔をしているため女性人気が高い。昼休憩でランチを食べていると、誠の噂をする女性たちの話をよく耳にする。


「まあね。火、金は比較的講義が少ないから」

「あっそ」

「そういえば、模試の結果見たけどすごい良かったよ。香恋の志望校を第一志望にしている予備校生たちのうち3位。申し分ない結果だね」


 予備校では共通テスト前まで2ヶ月おきに共通テスト形式の模試が開催される。

 二次試験対策の勉強を行っている時は、共通テストの勉強は模試を復習するという形で行っていく。6月に開催された模試の結果は数学と生物が9割、それ以外が8割だった。6月開催だからか本番よりも難易度は低かったので、まずまずの結果と見ていいだろう。


 この調子をキープすることができれば、合格ラインに入ることができるだろう。

 だが、浪人生には越えなければいけない壁がある。それが『2・6・2』の法則。浪人生のうち成績が上がるのは2割、成績が変わらないのは6割、成績が下がるのは2割になると言われている。


 現役時代に猛勉強しても志望校に受かることができなかった私は、上の2割に入るにはかなりの苦難を強いられるはずだ。でも、合格するためには上の2割に入る必要が出てくる。なんとしてでも入るしかないのだ。


「浮かれてばかりはいられない。現役生は夏休み終わりから成績を上げてくるだろうから」

「そうだね。今から模試について面談しても良い? 得点分布も出ているから香恋の得意不得意をチェックして、そこから今後のスケジュールを組み立てていこう」


 誠は棚に置かれた私のファイルをすぐに取り出し、受付横のカウンターに置く。

 抜けているところはあるが、彼は真面目にチューターの仕事に取り組んでいた。担当している生徒全員のファイルの場所を暗記しているかと思うくらい行動が早かったのだ。


「よろしくお願いします」


 私は担当である誠に敬意を表する形で、面談に臨んだ。


 ****


 夏休みになると現役生を交えた大勢の生徒が予備校へ来ていた。

 今まで暗黙のルールのように一席ずつ開けて座っていた席は、そのルールを破らざる終えないかの如く隙間なく埋め尽くされていた。中には、席を取ることができず、仕方なく自習室を使って勉強する子もいた。


 開校と同時に来ていた私は意気揚々とお気に入りの1番端の席で受講をしていた。両方を人で挟まれることがないので、勉強がしやすいのだ。夏になった頃には一通り全ての受講を終え、2周目に入っていた。最初に問題を解き、分からなかったところだけを再生して再受講する。


 12時を告げるチャイムが流れると、受講室に漂っていた緊張感が途切れ、ほんわかとした空気が流れる。私は予めコンビニで買っておいたサンドウィッチとカフェオレを手に取り、受講室を出ると休憩室に足を運んだ。


 3つの椅子に囲まれた丸いテーブルが数セット乱雑に並べられており、その中の一つを使用する。勉強に集中するためにオフにしていたスマホの電源を入れる。画面が現れると同時にオフにしていた間に届いた通知が一気に流れる。


 その中に、高校時代のグループに送られてきたメッセージがあった。

 どうやら県外に出ていた同級生が帰郷したようで、遊んでくれる人を募集する旨のメッセージを送っていた。


 久々に帰ってきて懐かしい気持ちになったのはわかるが、キャンパスライフを楽しんでいる人だけじゃないことに気を遣って欲しい限りだ。私はメッセージに応答することなく再びスマホの電源を落とした。


「かーれん、横に座っていい?」


 スマホをポケットにしまおうとすると横から声をかけられる。見ると誠の姿があった。彼は私の返事を待たずして空いてる席に座る。休憩室の電子レンジで温めた弁当を置き、両手を合わせて「いただきます」と言う。


「まだ承諾してないんだけど?」

「気にしない、気にしない」

「はぁ〜、それで何の用?」

「特にこれといって用はないよ。久々に2人でいるのもアリかと思ってね」

「ついこの間、2人で話したでしょ?」

「それはチューターと生徒の関係、これは高校時代の俺たちの関係さ」

「……好きにすれば」


 私としては気の乗らない限りだが、それを言っても誠は聞いてくれないだろう。とっととランチを食べて自分の席に戻ろう。私は目の前に置かれたサンドウィッチの袋を開ける。


「そういえば高校時代のクラスチャットにメッセージ飛んで来てたの知ってる?」

「さっき見た。本当に嫌になっちゃうよね。人が頑張ってるっていうのに、あんな大学生を見せつけるかのような文章送って。身内だけでやれっての」

「はははっ。確かに香恋の言うとおりかもしれないね。俺もあれはないなって思った」


 自分を棚にあげてよく言ったものだ。私の志望校に受かったやつが目の前にいる状況が1番ないなと思ってしまう。おこがましいため声に出すことはしないが。


「誠はどうなのよ。夏休みは大学の友達とどっか行ったりしないの?」

「俺は特に何もないな。夏休みはただただバイトしてお金を貯めようかと思って」

「そっ。何か欲しいものでもあるの?」

「うーん、内緒。合格したら教えてあげる」

「うわ……面倒くせぇ」

「はははっ。香恋は合格したら何かしたいことある?」

「そんなこと知らないわよ。今はただただ受かるために勉強するだけ」

「真面目だね。そうだ。今のうちにこれあげておくよ」


 誠はそう言うと自分のバッグから一冊の参考書を取り出した。現役時代に彼が使っていた参考書だ。表面が綺麗なため新しく買ったのだと思われる。


「こんなんにお金使っていいの?」

「こんなんだからだよ。俺だって香恋には合格して欲しいと思っているんだ。チューターとして、同じクラスだったものとしてね」

「ふーん、ありがとう」

「というわけで、俺は先に戻るね。この後、難関大の入試問題の解説をしないといけないから一度解いておこうと思って」

「はいはい。とっとと行きな」


 あしらうように手を前後に振る。誠は私にハニカムとゴミ箱に弁当容器を入れて、休憩室を後にする。取り残された私は彼がプレゼントしてくれた参考書を見ていた。高校時代に彼が使っていたため逆張りして使わなかった参考書。


 これで勉強すれば、私も誠と一緒になれるだろうか。

 こう言うところがあるから、私は彼を嫌いになろうと思っても、嫌いになれない。

 サンドウィッチを食べ終え、同じゴミ箱に入れると私もまた参考書を胸に抱えて休憩室を去った。


 ****


 順調そのものだった受験勉強だが、秋の半ばを迎えたあたりで私は一つの壁に当たった。

 

「前回よりも成績が落ちてしまったね」


 向かい側に座る誠が重い雰囲気で話し始める。カウンターを挟んでの会話。私たちの間には10月に行われた模試の結果が置かれていた。二次試験を意識して作られた記述テスト。そこで私の成績は合格ギリギリのラインだった。


 これだけ見ればそんなに落ち込むことはない。

 しかし、夏頃に行われた同じ模試では私は合格圏内上位という余裕を持った成績だった。それがここ2ヶ月間で合格ギリギリになったのだ。


 理由は明白。夏を経ての現役生の飛躍的成績の向上。それから私の成績衰退。

 2回目の受験に対するプレッシャーは相当なものだった。良い結果が残せなければ、また地獄の日々を繰り返さなければならないという不安に気を取られて思うように解くことができなかった。


 本番まで残り4ヶ月。共通テストの勉強があるため二次の勉強は実質2ヶ月くらいだろう。それまでに悪い部分を克服して、成績の衰退を防がなければならない。


「でも、前の模試で悪かったところはちゃんとできている。この調子で克服していこう」


 誠は私を勇気づけるように励ましてくれた。

 だが、問題はそこではない。そして、それは誠も気付いているはずだ。そこに目を背けたことが私としては許し難かった。


「なにが『克服していこう』よ。今回成績が悪かった場所は前回まで成績が良かった場所なの。こんなのどれだけ頑張ってもキリがないじゃない」


 まるで老朽化した排水溝のように水漏れを修復していたら、別のところで水漏れが発生するみたいな感覚だった。修復しても修復してもこぼれていく記憶という名の水に、どう対処して良いか分からなかった。


「キリはあるよ。全て克服してしまえば、いつかは必ず良い結果を残せる」

「いつかっていつよ。残り4ヶ月だよ。もし、今年勉強したところをまた取りこぼしたら一生かけても克服できないじゃない」


 表面張力の限界まで注がれた感情の容器に、大きな不安が侵食して溢れていく。溢れ出る感情が抑えきれず、呼吸が乱れていくのを感じた。


「大体、あんたが私にくれた参考書が悪いの。あれで勉強していたから成績が落ちたんだ」


 当たりたくないものに当たってしまう。自分のせいにしてしまっては気持ちが保たないと思ったのだ。誠は私を哀しげな目で見つめる。それが私を一層苛立たせた。


「高みの見物のつもり。一緒に頑張って受かろうって約束して、あんただけ受かって。待ってるみたいな風を装って私を蔑んでいるんでしょ!」


 荒れ狂う自分の中で俯瞰している自分がいる。私は最低な人間だ。人の善意を悪意だと決めつけて八つ当たりしている。こんなことしてなにになるんだって話なのに。


「あんたよりも私の方がずっとずっと強い思いで頑張ってきたんだ。それを『私が受けるなら、俺も受ける』っていう軽い気持ちで受けて、受かって。得意げに私を応援するなんて言って。ほんとーに、最低!!」


 最後の最後に頭に浮かんだ最悪な言葉。頭ではどうにかして押さえ込みたかった。一時の感情に任せて発してはいけない言葉だったのだ。でも、抑えきれない思いの揺れが、感情の海を波立たせ、容器から溢れさせる。


「あんたなんかと『恋人』にならなければ良かった……」


 私はそう言って目尻に溜まった涙を流すと、なにも持たぬまま勢いに任せて受講室から出ていった。

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