あなたに出逢うまで僕は暗黒物質を食む星彩(仮題)

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序章 所有権の委譲

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 生きていた。


 三六五×一九+(十六÷四)+……=およそ六九六〇日間。まだ七〇〇〇と見るのか、もう七〇〇〇と見るのか。登った山の中腹に立ち、過程を見下ろすか目的地を見上げるかのようだった。今、こうしている間にも強制された山登りは後戻りが効かない。その長く険しい傾斜の頂に何が待ち受けているのか、知らないという顔をしているだけで、万人でもぼんやりと知っているだろう。


 そう言えば、高い所から飛び降りるのはなぜだか怖くなかった。もう歩かなくていい。何も考えなくていい。すべての責めから解放されて、自由になれる。そう、これは本物の自由と呼んで差し支えない境地への転落だった。あと何メートルすれば、この体はそこに到達するのか、刻む秒数の値をおかしくさせたデジタル時計の逆転みたいに思い浮かぶ。


 その時、やりかけた仕事を投げ出す無責任を、問い質すための後悔がとっさに働いた。他にやるべきことがあったのではないか。ああ、家の玄関の鍵を閉め忘れてきた。戻って施錠しなければならなかったのだ。こういう、真に差し障りのない日常の義務感しか残されていなかった事に、前例がないほど笑った。以後、一切笑えなくなるほど笑い尽くした。心配しなくても、以後も以前もそろそろ消え失せる。


 記憶は儚い。あれも。これも。あと少しすれば全部がなかったことになる。そして、新しく加わることもない。陶器の貯金箱を勢いよく叩き割る瞬間に似ている。だけど、有益なものは何一つだって、この体から飛び出す道理はない。ポトリ、ポトリ、と滴る赤だけが、事切れる寸前に、硬い地面へと提供された。


 最後の社会貢献ができた。




 その晩、ある高層ビルの一階付近に拡がった染みを作っていた遺体の処理は複数のドローンによって行われた。街の景観を損ねていた異物は通常、排除される。


 巨大な自走する臼の形のドローンが、格納されていた長いホースで水溜まりを吸い上げて、車輪を兼ねた特殊なブラシで路面を元より過剰に磨きを加えて、一帯は不自然なくらい綺麗になった。すっかり綿のなくなったペラペラのぬいぐるみのように横たわっていたそれは、また別の機械から伸ばされたクレーンのツメに上手く摘ままれて、もう一台の円柱形のドローンが天に口を開けたフタの奥へ放り込まれた。


 ドローンは政府の持ち物であり、「万が一」があればその地域を統括する管理者に伝わる。たとえ、それが廃棄物を処理場に運ぶ途中の何気ない個体であっても。


 その日、どういうわけか定常作業を終えた三機が、事業所に戻ることはなかった。

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 運ばれるはずの遺体は跡形もなく取り除かれてはいたものの、数日後、帰ってきたドローンに傷等はなく、行方不明だった間の出来事を示す形跡もない。機械が人を管理するこの時代に、最先端の機器を誘拐し、何事もなかったように送り返せる個人は実在しなかった。


 時を遡り、人の寄り付かない保全ビル群が建ち並ぶ某所。そこには紛失していた三機が「適切に」停止して置かれていた。辺りは風通しのよくない一室になっている。吊るされた電球の薄暗い明かりが照らすのは寝台に縛り付けられた人体だった。その胸部と腹部、脚部の三点が、横切るゴム製の三本のベルトに固定されている。


 たちまち、台の左右から伸びていたベルトの片側が切り離され、音を立てて拘束が解かれる。寝かされていたのは、ドローンが回収してきた、無惨に飛び散っていた死者の元通りの姿だった。


 その真新しい肢体はゆっくり起き上がり、まぶたが開かれた。




 目が覚めた。視覚情報が少ないせいか、自分の置かれた状況はここに寝かされていたことしか判らない。空気には臭いがせず、服を着ていない体からも生物らしい営みによる名残もなかった。確かだったのは、五感が正常に機能する意識を取り戻して、七〇〇〇日にも満たなかった命の閉鎖を失敗した事実だった。


 耳に痛い静寂は前触れなく切り裂かれ、音の連なりが振動させた。男の太くて低い声がこだまする。


「諸君は選ばれたのだ」


 前置きすらなく、声は一方的に要件を述べて伝えた。


 どうやら、退場をしくじったのは自分だけじゃないことを始め、これから帰されるのは以前と変わりない地続きの世界だという現実。その理由はただ一つ、「再生の代償」ということ。そして、吹き返された命を改めて、手ずから捨てる事も可能だということ。


 むろん、特別な悔いのない自分は再び死に直すつもりだった。それを聞かされるまでは。


「だれでも一人、特定の個人を支配する権限を与えよう」


 支配。甘美な響きだと思った。事と次第によると、果たし得なかった出来事も実現できるかもしれない。しかし、それをちゃんとした後悔と名付けるのはおこがましかった。玄関の鍵の閉め忘れと同程度くらいの些事だった。それでも、僕をこの世界に繋ぎ止めるにはもっともらしい口実だったから、指示に従う気になった。


 得られた権利が期待に値しなければ、その時、消えればいい。

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 あの部屋の音声の説明によると、老いも若きも女も男もだれを指定しても個人であれば、その日の終わり、つまり二三時五九分を過ぎると、その肉体も感情も任意に操作する権限が譲渡されるということだった。


 体を拘束されていた部屋を出る直前、隣室の明かりで全体をうかがえたが、やはり殺風景な場所だった。例の説明が終わると、僕は移動した。そこは奇妙な緑色の照明が染み込む壁側に一台のテーブルが添えられており、その上には無数のモニタが横並びに置かれている。それぞれの画面には複数の枠が引かれ、更に細かい四角がいくつも規則正しい比率で、網目のように表示されている。どこか外の世界を映している。


「着替えをお持ちしました」


 日中の街中を監視しているみたいなデスクで待ち受けていたのは人型ロボットだった。頭部には、人の髪を模した黒い被り物が付いている。質感は髪の毛ではなく、一目で部品だと判る。楕円の球形の顔は硬質なプラスチックのような素材で凹凸がなく、内部の基盤や両目の位置にあるレンズが透き通っている。光沢のある繊維でできた衣類を貢ぎ物のように両手を天井に向けて差し出している。


 渡された衣類は全身を覆うツナギになっており、目立つ位置にある前部の留め具を上下させることで着脱可能になっている。普段着にしては無個性だけれど、構わなかった。


 それよりも妙だった。すぐそこの画面に映っているのは、どれも僕の知っている人物だった。バイト先の人だったり、何度か擦れ違っていただけの顔しか知らない人だったり、家族だったり、系統毎にきちんと整列して表示されていた。


「その人物は“カグラヲチ”」


 それは、僕の視線の先の少女の名前らしかった。モニタ最上部には、時刻が秒単位まで表されている。午前九時三分。この時間、学生服に身を包んでいる彼女は学校に居なければならないはずだった。


「座標はD431ブロックに含まれる物件BQ20071P。二十三年前に廃棄済み。現在は無人の廃墟です。対象人物の指定地点への訪問回数は二三三回目」


 聞いてもいないことをひとりでに教えて寄越した。興味がないわけではなかった。取り分け、近所の高校に通っている彼女とは毎朝、遭遇していたからだ。長い前髪で眉を隠し、幸の薄そうな眼差しが虚空を見つめている様子を思い出す。


「BQ20071P近辺、北緯40.1111112°、東経143.2333455°に転送可能です。転送しますか?」


 返事は口にしなかった。




 けれど、次の瞬間、僕はもう草の茂みの上に立っていた。差し込む日の光に目を細める。これが答えだった。


「粒子航行完了。誤差±312m。計算中……、……、……、目的地BQ20071Pまで徒歩およそ3分です。現在地から北東方向です」

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