BUAI-不愛-
三帖ゆうじ
第一章 「転職」 第一話
プロローグ
「退避しろ!」
間髪無く二発の銃声が渋谷の一角に轟く。
辛うじて防弾ベストに守られた男は後ずさりせず、必死で車体を掴んでいる。
本物の銃声を耳にして、千を超える多勢は身動きが取れず、その場に倒れ込む。
しかし鍛え抜かれた屈強な肉体は、数多の訓練により怯まずに動く。
イーグルの体を掴み、後方に待機していた警護車輌へ引き摺り運ぶ。
不快や騒音を聞き入れなかった分、他の喚きや叫びは恐れを成さない。
後方で三発目が鳴り、林檎が砕けたような音を拾う。
男は背中からその場に倒れた。
赤絨毯の上に血がくすみ、朱赤は深紅に滲んでいく。
難事から目を背けてきた分、鷹の目は鋭い。
愛し合った男は頭を撃ち抜かれたようだ。
まだ相手を遮ろうと右手と幾本かの指を動かすが、最早「壁」にはなっていない。
車輌へ飛び込む。四発目がフロントガラスを粉砕し、仲間の一人が全体重をかけるようにアクセルを踏む。梅雨入りを目前に、湿気た生温い暴風が襲ってくる。
逃げる。愛した男を置き去りにして、一目散に逃げる。
追ってくる。
拳銃ではなくて、右手に万華鏡を持った老婆が凄まじい形相で追ってくる。
おかしい。撃ってきたのはマスクを被った奴だったはずだ。それにこんな惨事に関わらず、薄らと笑っている。気色悪いが身に覚えのある顔だ。遂には両手を広げて駆けてくる。
それに老婆の他にも何かが向かってくる。何かを訴えてくる。強大で、強靭で、大きな朱色の何かが目の前に迫って来る。
何にしろ、逃げなければ。
イーグルを護るため、安堵の地へ逃げなければ…
※
―トン、トン―
「澤さん、起きて下さい。出動です!」
謙遜と不遜の間。悪夢の解放にはちょうどいい塩梅で右肩を小突いてきた。
「一時間半後の二時に港区の越前記念病院のお迎えです。先に下に降りて準備していますね。」
四歳年下の先輩、山下航太はダンダンと音を立て、颯爽に階段を降りていく。
「またか…」
馴染みの悪夢に溜息を吐き、洗面台で顔を拭う。残っていた缶コーヒを飲み干し、山下が待つ地下の車庫へと向かう。既に黒塗りの車輛からエンジン音が鳴り、バックドアを開けた山下は慌ただしく備品チェックを行っている。
「ちょ、ちょっと澤さん、それは大丈夫ですから…」
これもお馴染みだ。まずはガソリン残量とタイヤの空気圧の確認。そして、手差しの反射ミラーで車両の下回りを確認する。
「爆弾なんか仕掛けられるはずがないでしょう?それより早くドライアイスの準備をして下さいよ!」
これも良くある光景。銀色の保冷庫の重い蓋を開けると、滝しぶきのような白い煙が昇る。予め四等分されたドライアイスを専用の脱脂綿に包み、保冷バッグに詰める。入社時は戸惑ったが、今では包装職人並みの手さばきで準備を整える。
助手席に乗り込むと、車輛は勢い良く飛び出して、ドーナッツのような凹みを伝って坂道を上がる。そして幾分もしない内に、深夜で眠りに入った公道と別れ、首都高へと駆け上がった。
大好物だ。黒空のおかげで東京の夜景は輝きを増し、路上には警戒に値する車両もない。ナビを見る。目的の病院へは三十分もかからず到着しそうだ。
まだまだ馴染みは続く。心地よい静けさに痺れを切らし、山下が必要以上にでかい声で話しかけてくる。
「流石の元SPが寝落ちするなんて、宿直続きはしんどいですか?」
「何度も聞くな。元SPじゃない。SPはセキュリティー・ポリスの略。俺は元民間のボディーガード。簡単に言えば一般人の用心棒だ。」
「でしたね…でも元ボディーガードだった人とは中々出会えませんからね。これまで命に関わるような危険なシーンってなかったですか?」
「あっても言わない。辞めてもそれは言わない。彼女にさえな。」
「え!初耳ですよ。澤さんに彼女がいたなんて。まさか、会社の人とか?」
やってしまった。お喋り若人に恰好のネタを提供してしまった。
「それも言わん。そう決めている。」
「堅物ですね。どれだけ秘密主義なのですか。つれないな、澤さん。」
「馬鹿言え。守秘義務、秘密保持。社会人として当たり前だ。」
「入社されてからの進化は認めていますよ。どす黒い蒟蒻色の、空を飛べないぬりかべが、飛べるかどうかの所まで来たのですから。自己主張の無かった澤さんが…」
静寂は戻ってくれたが、既に病院最寄りのインターは目前だ。
「もし、相手が新卒のモモちゃんだったら、ショックで会社辞めますからね!」
そう言って、お迎えのプロフェッショナルは瞬時に表情を切り替えた。
「故人、奥田一生様。享年七十二歳。死因は肺癌。連絡者はご長女様。事前相談無しの新規顧客です。会葬規模は親族二十名、一般二~三十名を想定。菩提寺がないため無宗教葬をご希望。三田駅からアクセスが良く、尚且つ綺麗な式場をご希望。病院出入り葬儀社の対応を横柄に感じ、当社HPを見て問い合わせ。まずは故人様をご自宅に安置して、その後に詳細、見積り相談の流れです。」
相談内容を網羅し、シンプルに伝える。年下とはいえ、流石先輩だ。
「安置後、澤さんはドライアイスの処置を。僕は先に喪主予定の奥様と日程や見積りの話をしてみます。」
「ミミガー。」
「何ですか?それ。勤務続きで頭でも可笑しくなりました?」
「な訳ないだろ。了解ってことだよ。」
「あ、あと言い忘れていました。出入りの神山葬儀社。業者への態度も最悪で有名なので。変な揉め事は起こさないで下さいよ。」
慣れている山下は、迷うことなく地下一階の奥で隠れたような霊安室前に車を停める。すると約束時間の十五分前にも関わらず、噂の出入り業者スタッフは気怠そうに腕を組み、こちらを睨んでくる。
「想別社さん、誠に遅いわぁ~。遅過ぎやぁ~。もう病院の皆はんの挨拶とお参りはとっくに終わっとるで~。はよ遺体を出さんと出入り禁止にするでぇ!儂は明日も朝早いんじゃあ!」
他の故人が出発される様子はない。この男は早く家に帰りたいだけだ。自社の顧客でなくなった瞬間、遺体はお金を生まないただの生物になる。この業者が誠意ある対応をしていれば、遺族は安心して葬儀を依頼できた。時間と疲労の負担が減った。わざわざ我が社に依頼せず、いち早く自宅に帰られたはずだ。
「澤さん、行きますよ。ご遺族への挨拶と故人様のお体のご移動は、澤さん主導でお願いします。いつものやつ、気を付けて下さいよ。」
物凄い剣幕をした関西弁の前を無言で通り過ぎ、霊安室へ向かう。
分かっている。昨日も鏡を見て何度も練習した。次こそは上手く出来る。鉄板を入れたように背筋を伸ばし、力を抜いて二度ノック。霊安室の扉を慎重に開く。
「失礼致します。この度は、誠にご愁傷様でございます。葬儀会社、想別社でございます。奥田一生様のお迎えに伺いました。」
太く鋭い声が静寂を貫き、遺族から一切の視線を浴びる。まずい。一人を除く全ての顔が強張った。霊安室に似つかわしくない威圧をまた放ってしまった。しかし怯えは駄目だ。遺族の不安を軽減するためにも、堂々と振る舞わなければ。
「ご自宅までの安置を担当させて頂く澤光史と申します。こちらは山下でございます。誠心誠意、お手伝いさせて頂きます。」
すると、故人の一番近くに座っていた一人だけ冷静だった女性が反応した。
―その世界に敵わない人間、物を注視しろ―
食み出しそうな眼球、強く握られた両手、彼女だけ視線を上げて、何処か遠くを見定めている。悲しみでなく、何かと闘っている人間の様相だ。彼女だけは寒々しい霊安室には敵っていない。
「先ほどの業者よりは信頼出来そうね。まぁ、まだおたくに決めた訳ではないけど。」女性はその場に立つと、勝負を挑むかのように、こちらへ近付いてきた。
「私は故人の妻、奥田豊子。では、自宅へ帰るわよ。」
室内には連絡者の長女を含め五名の遺族がいるが、誰も口を開かない。その号令に合わせるように、ベッド周りや身の周りの整理を始め、出発準備を整える。山下と自分はご遺体をストレッチャーに移すため、先に遺族を室外へと誘導する。そして二人きりになったところで、山下が小声で呟く。
「もう、澤さん。本当に練習しましたか?表情が険し過ぎですって。僕らは刑事じゃないです!ここ、取調室ではなくて、霊安室ですよ!」
「わ、悪い…」
言い訳はしない。どんな時も、どんな相手にも。そう決めている。
簡易な白装束から見える合掌した両手、首元は骨格がはっきりと浮き上がっている。闘病で痩せ細ったのだろう。一人でも抱えられる軽さだが、山下と慎重にご遺体をストレッチャーへ移動する。予め敷いて、広げておいた真っ白いシーツをかけて、移動中にご遺体が動かないようにベルトを締める。
「奥田一生様、ご出発でございます。」
故人の後ろに五人の遺族を引き連れて、弱弱しい蛍光灯が鳴く薄暗い廊下を伝って表に出る。そしてブツブツ言いながら、足を踏み鳴らす出入り葬儀社を通り越す。彼だけの侘びしい見送りになるかと思ったが、出発間際に主治医であろう男性医師と数名の看護師が姿を見せた。
予め開いたバックドアに、慎重に、丁寧に故人が載ったストレッチャーを寝台車の荷台に押し込み、落ちないように頑丈なロックをかける。会社の車庫で何千回と練習したから大丈夫だ。筋力だって申し分ない。力士であろうと二メーターオーバーの大男であろうと問題ない。そしてバックドアを閉め、心を込めて合掌、一礼する。
長女や親族は病院側から幾ばくかの労いの言葉を受け、幾度もお辞儀をするが、豊子は寝台車の後部座席に直行した。まるで医療ミスなど、病院側に恨みを持つような鬼形相でミラー越しに睨んでくる。
他の遺族は病院で解散。先に長女だけがタクシーに乗り自宅へ向かった。玄関の解錠や、安置をするための布団を準備するためだ。自宅までの距離はおおよそ十キロ。深夜だから十五分もあれば到着する。
「早く出しなさい。」
急かす豊子を歓迎するかのように、赤信号に一度も捕まらずに自宅へ到着する。そして移動中に一度も口を開かなかった豊子が大声で話す。
「一階の和室に安置して。新しい布団を用意してあるから。」
それ以上は言わず、足早に自宅へと入った。
「気の強そうな奥さんですね。こりゃあ、打ち合わせが難航しそうです。」
「導線を確認してくる。」
俯く山下を車に残し、「失礼致します」と声をかけ、玄関の奥へと進む。廊下の幅は問題ない。右手にあった和室の入口も十分に広い。これなら玄関先から和室まで担架でご遺体を運べる。和室には豊子の言う通り、新調された布団が綺麗に敷かれている。しかし、その他の家具は無く、無機質で生活感のない空間だ。
「これから故人様をお部屋へ安置させて頂きます。」
声をかけたが豊子からの返事が無い。自室で着替えでもしているのだろうか?
しばらくすると長女が申し訳なさそうに奥のリビングから姿を現した。
「すみません。母は二階にいるはずですが、気にせずに安置して下さい。」
玄関扉のドアストッパーを止め、寝台車に戻り、山下へ自宅内の様子を報告する。
「担架で安置可能だ。布団も準備済み。ただ喪主の奥様が二階にいるらしい。」
「え、疲れて寝てしまったとか…それでは相談も何も出来ないじゃないですか。」
「取り敢えずご長女が対応してくれる。故人様を安置しよう。」
車からストレッチャーを降ろし、荷台のロックを解除して担架を外す。地面の傾斜や段差、四方に注意して遺体を運ぶ。落とすことなど許されない。大きな揺れでご遺体が動くと体液が漏れることがあるため、山下と二人で丁寧に、慎重に移動する。
ご遺体を敷布団の上に安置すると、長女が故人の傍に正座した。声掛けをし、ドライアイスの処置を始める。故人の体格、年齢、そして死因などによりアイスをあてる位置と量は異なる。首後ろ、胸、下腹部まで万遍なくアイスをあて、長女と一緒に掛布団をかける。
直射日光を避けるためカーテンを閉めたままにすること。ご遺体の腐敗を防ぐため、二十度以下の温度で冷房をかけ続けて頂くよう長女に伝える。
すると、後方からの視線が背に突き刺さった。誰かは容易に想像がついた。
「澤さん、だったわね?」
寝巻に着替え、化粧を落とした豊子が和室の入口に立っている。
「はい。」
ーあなたは私の味方になってくれる?ー
予想しなかった言葉に驚いたが、家族を失って情緒不安定になるのは当たり前だ。遺族の心を守るのも、葬儀社としての役割と考えれば躊躇う必要は何もない。
「ご遺族が故人様としっかりお別れが出来るように、誠心誠意お手伝いさせて頂きます。」
豊子は薄っすらと笑みを浮かべた表情を初めて見せた。
「喪主様、それでは今後の相談を。」
玄関前で待機していた山下が、受注をもぎ取ろうと資料を抱えている。
「私、今日はもうへとへとなの。打ち合わせは明日にしましょう。」
「え。ですが、時間が経つと式場や火葬場が埋まる可能性がありますし、まだ弊社でお手伝いさせて頂くかの相談も…」
「明日、午後一時に来てちょうだい。ただ担当が澤さんなら、おたくにお願いするわ。だから明日は澤さんが一人で来てくれればそれでいいわ。」
全く予想しなかった展開に山下と目を合わせる。
「私はもう寝るわ。さあ、花恋ちゃん。葬儀屋さんをお外までお見送りして。」
いつも、普段とは違う。どんなことでもいい。違和感を見逃すな。それ等は有事が起こる重要なサインになる可能性がある。
Sの言葉が蘇る。豊子の言動は違和感だらけだ。ただの葬儀には収まらない。そう直感した。
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