20

《赤ちゃんですってっ?!》


 イヤホンの向こうで愛の声が裏返る。真矢はその声の大きさに一瞬目を閉じ、「そうです」と状況を端的に報告する。


「今さっき、黒マントの人が白い布に包まれた赤ちゃんを抱いて入ってきて——」

《——あぁ、もうっなんてことっ。そんなのまるでサバトじゃない》

「サバト?」

《説明してる時間はないっ。もしもサバトなら、その赤ちゃんは殺されて食べられちゃうってことよっ!》


 愛の話を聞いて真矢の血の気が引いていく。それが本当ならば今すぐ飛んで行き、赤ん坊を救出しなければいけない。


 黒マントは白布に包まれた赤ん坊を祭壇に向かって掲げている。まるで、シュラの姫にこれから献上するかのようだ。


「す、すぐに止めに行きます」一歩足を踏み出す真矢に《待てっ!》と山場先生がストップをかける。


《もし仮にサバトだとしてもすぐには殺さないだろう。落ち着いてゆっくりと前方に移動するのだ。デカブツと二人、最前列へ行きチャンスを窺え。安田警部補と棚橋はすでに動き出している。突入まで時間はそうはかからないはずだ》


 やけに冷静な声で山場先生はそう言うと、《ここからが見物だ》と可愛く鼻で嗤った。


《アラ〜ン、聞いたか? 酒のつまみにちょうどいい大捕物だぞっ。警察密着シリーズでも見られない状況だっ》

「先生なんてお気楽な……」

《ワシは日本の警察の優秀さを知ってるからな。何にも心配などしておらんっ。カルトなら公安も動いてるだろうしな。それよりもお前達、抜かりなくやれよ。撮影した動画も重要な証拠品だからな》


 真矢とカイリは「分かりました」と答えると、ゆっくりと前方に向かって足を進める。呪呪ノ助も〈あぁ〜、はやく助けてあげないとぉ〜〉とおろおろしながら真矢達の後ろをついてきた。


 カイリを先頭にして、手を繋いだまま、真矢は黒マントの信者の間を縫うように前へ前へと進んでいく。


 最後列から最前列まではまだ程遠い。


 山場先生は《すぐには殺さないだろう》と言ったけど、それはあくまで憶測だ。赤ん坊は今も火がついたように泣いている。早く助け出してあげたい。そして、お母さんの元へ返してあげたい。そこまで考えて、真矢の脳内でさっき聞いた話が弾けた。


 ——それこそ金次第だよ。人間だって簡単に手に入るさ。


 まさかと思う。でもありえる話かもしれないと真矢は思う。闇サイトで知り合って、強盗や殺人を請け負う人もいる時代なのだ。金、金、金。全ては金のため。きっと闇サイトはそんな利己的な輩で溢れている。


 ここにいる人達も同類だ。


 調和の印を結んでいるせいで、さっきからずっと真矢の頭の中に悪意の声が流れ込んでくる。


 ——殺せ。

 ——殺せ。

 ——残虐に、殺せ。

 ——惨たらしい殺し方で俺を楽しませてくれ。


 こいつら全員、悪魔だ。


 真矢は顔をあげ、壇上の林原を見る。林原から発生した瘴気の塊が大口を開けて嗤っているのが見えた。信者の悪意を吸い込んでさらに大きくなっている。あれが悪魔の大元だ。


 赤ん坊は祭壇の上に置かれている。白い布は剥ぎ取られ、裸のようだった。小さな手で虚空を掴み、泣き叫んでいる。白く吐き出された息を見て、真矢は心が引き裂かれそうだ。


 早く。一刻も早く。


 信者も前に前にと移動し始めている。なかなか前に進めず、気ばかり焦る。それに、前に行けば行くほど、殺意を持った興奮と熱狂が全身にぶつかってくる。見えない悪意が痛い。まるでガラス片でも投げつけられているかのように、心に痛い。


 こいつら全員悪魔だ。絶対に許してなるものか。真矢がそう思った時だった。


 不意に真矢の鼻先を甘い香りが掠めた。どこかで嗅いだことのある、官能的で甘い香り。記憶が真矢の脳内を駆け巡り、この香りは加賀美の香水だと断定するのに時間はかからなかった。


 真矢は匂いの元を辿るように鼻腔に意識を集中する。犬のように鼻を動かし、すぐ目の前の黒マントかもしれないと思う。顔を近づけ、すんっと勢いよく匂いを嗅ぐと、間違いなく前の黒マントから漂う匂いだった。


 見つけた。絶対に逃がさない。


 反射的に真矢は前の黒マントに手を伸ばす。マントの布を握りしめたその刹那、《あっ》とイヤホンから声がして、握っていたカイリの手がどこかへ消えた。周りを見ても、黒マントだらけで、どれがカイリか分からない。それに、加賀美は前へ前へと進んでいる。


《真矢ちゃんごめん、誰かに押されちゃって》

「私は大丈夫。カイリ君は瘴気にやられないように気を付けて。私はこのまま前へ行く」

《分かった。僕もこのまま進むよ》


 通信手段があって良かった。それにカイリの声も普通だった。


 真矢は加賀美のマントを握る手に力を込める。最前列まではもう少し。あと数歩の距離にいる。加賀美も最前列を目指しているのだと思うと吐き気がした。


 ——子供の肉は初めてだ。


 マントを握る手から、加賀美の思考が流れ込み、真矢の心が怒りに支配されていく。


 加賀美は長谷川いずみを殺し、髪の毛を奪い取り、さらにその肉を食べたのか。内臓という内臓に鉛を詰め込まれたような嫌悪感が湧き上がり、真矢は呼吸を止めた。こんな奴、もはや人間なんかじゃない。地獄に落ちろと本気で思う。


 ため込んだ空気を一気に吐き出すと、真矢は信者を押し除けて最前列に割り込んだ。隣には加賀美がいる。でも、まずは祭壇の赤ん坊の救出が最優先だ。


 祭壇の上、泣き続ける赤ん坊の声は掠れている。手足を動かす力は弱々しい。


 シュラの姫は相変わらず無表情で微動だにせず椅子に座っている。『呪祷会』代表の林原は祭壇の奥に歩みを進め、こちらを向くと「それでは皆様」と腕を広げた。瘴気の塊はもう真矢には見えない。でも、あの悪魔の顔は大きな口を釣り上げて、牙を覗かせ嗤っているに違いない。


「これより、咒羅様へご奉納の儀を始めます」


 林原が祭壇横に手を伸ばす。いつの間にかそばに来ていた呪呪ノ助が〈もう止めなきゃまずいですよぉ〜〉と声を震わせた。真矢もそう思う。でも、片手は加賀美のマントを握っている。今この手を離したら加賀美を見失ってしまう。


〈赤ちゃんがぁ、罪もない赤ちゃんがぁ〜〉


 林原は祝詞のような、しかし聞いたことのないような薄気味悪い呪文を唱え始めた。両の掌を上に向け、その上には長い刃物が置かれている。


 これから行われることを想像する。

 警察はまだ来ない。

 もう、限界かも知れない。

 最優先は赤ん坊だ。


 真矢は呪呪ノ助を指で呼ぶと、「この男から目を離さないで」と短く伝え、加賀美のマントから手を離した。


 ——殺せ。

 ——殺せ。

 ——もっとも残忍な方法で殺してしまえ。


 部屋中から昂奮こうふん気味な声がする。いや、頭の中に直接流れ込んでくる。


 真矢は歯を思いっきり食いしばると、い、く、ぞ、と太腿を数度拳で叩き、祭壇に向かって駆け出した。邪魔なお面は剥ぎ取って投げ捨てる。勢い余ってイヤホンも耳から弾け飛んだ。でも構わない。祭壇までは距離にして数メートル。背後で声がしたけれど真矢の耳には入らない。


 あと少し、もう少し。真矢は必死に足を動かす。


 祝詞を唱え続ける林原はまだ真矢には気付いていない。真矢は林原に視線を縫いとめると、一気に壇上を駆け上がった。頭に被ったマントが脱げ、真矢の顔が露わになる。林原は真矢の方に顔を向けると「誰だお前は」と刃物を片手に持ち直した。


 ここまで来て逃げられない。祭壇まであと少し。手を伸ばせば赤ん坊に届く距離まであと少しだ。


 林原は真矢に向かって「邪魔は処刑に値する」と刃物を大きく振り上げる。


 真矢は勢いよく床を蹴ると、祭壇の上の赤ん坊に手を伸ばし、その小さくて柔らかい身体を引き寄せ壇上に転がった。真矢の全身に激痛が走る。でもそんなことはどうでも良かった。


「もう大丈夫だよ」


 真矢は氷のように冷え切った小さな身体を抱きしめて、その場で蹲る。刹那、すぐ近くで「真矢ちゃん危ないっ!」と、カイリの声がした。と同時に、どたーんっ! と床に衝撃が走った。


 何か硬い物が転がる音と、一瞬の静寂。


 真矢はマントで赤ん坊を包みながら恐る恐る顔をあげる。壇上では林原が仰向けに倒れ、小柄な警察官に制圧されていた。お面が外れた林原の顔は、驚愕に満ちてぽかんと口を開けている。なんというか、林原の顔は飛び出た前歯が特徴的で——、


「ハダカデバネズミに似てますね」

「そうそれなっ!」


 言った後で真矢は「え?」と目を見開く。林原の腹部に膝を乗せた人物は真矢に顔を向け「遅くなりましたっ!」と敬礼をした。


「美穂さんが林原を倒したってこと?!」

「はいっ! 全国警察柔道選手権大会優勝経験ありのワタクシならこんなくらい朝飯前ですっ! それに見てくださいっ、全員確保できましたよっ!」


 真矢が部屋を見渡すと、警察官と信者達があちこちで言い争っていた。加賀美は——、と真矢は視線を這わせると、呪呪ノ助が〈ここですよぉーっ!〉と真矢に向かって手を振っている。どうやら加賀美はヤスさんに確保されたようだ。


 安田美穂に制圧された林原が「なんの罪で逮捕なんだ」と苦しそうに声を絞り出す。


「ほ、法に触れることなんて、俺たちは何もしてないぞっ」

「銃刀法違反、幼児虐待に殺人未遂です」

「そ、それはだな、ただのパフォーマンスで、ほ、本当に殺すわけがないだろっ……」

「こんな寒さの中、赤ちゃんを裸にした時点でアウトなんだよっ。このボケがっ!」


 安田美穂恐るべし。安田美穂はみぞおちに乗せた膝をさらに奥に押し込むと、林原は「ぐぅっ……」と呻いて白目を剥いた。


「あとは警察に任せてくださいっ!」安田美穂は立ち上がる。真矢は「ありがとう」と頷いて、マントに包まれた赤ん坊の顔を見た。ぐったりして唇が紫色に変色しているし、泣き腫らした目が腫れぼったい。


「まずはこの子を温めてあげないと」

「大丈夫です。救急車も待機してますよ」

「良かった……」


 真矢は心底ほっとして息を吐いた。


「それじゃあカイリ君——」真矢は壇上を見渡す。が、声がしたはずのカイリの姿はどこにもない。


「ねえ美穂さん、カイリ君は——」その続きを言いかけて真矢は口を閉じる。安田美穂は耳に指を当て、「はい、はい」と、誰かと通信していた。


 真矢は部屋の方に視線を向ける。警察官とお面を外した黒マントの信者、ヤスさんに棚橋さん、そして冴えないおじさん幽霊の呪呪ノ助。でも、カイリの姿はどこにも見当たらない。


 瘴気にやられてどこかで倒れているのかもしれない。探しに行かなきゃ。真矢がそう思った時だった。


「二階堂さん大変です。今、鬼角さんから連絡があり、シュラの姫を追いかけて行った木崎さんが、現在行方不明だそうです」


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