環端のピケット ——警視庁呪詛犯罪対策班——

和響

序章 咒

咒隠の村


 果無はてなし山脈。熊野の山々は稜線が幾重にも重なりあい、深山幽谷しんざんゆうこくそのものであった。樹木が深く生い茂る山道は、江戸時代の地誌『五畿内志ごきないし』に「谷幽かにして嶺遠し、因りて無果という」と記されている。


 果て無く山道が続く。それは俗世から隔離された常世へ続く道のようでもあった。大小様々な渓谷に、険しい崖や滝。奇怪な岩や怪石が原始のままに残り、常緑照葉樹のシイやカシの巨木が頭上で葉を揺らす。


 あたりは苔むした湿度の高い濃密な森だった。生命力が漲り魂が再生されるような森だった。薄暗く、人ならざるものが潜む森だった。


 獣道の下草を登山靴で踏み締めると、葉の隙間に積もった枯れ葉が音を立て、小枝がぱきりと折れた。車を降り、歩くこと約二時間。そろそろだとまもるは思った。視線を辺りに巡らす。と、見慣れた建造物を見つけた。灰色がかった古い木の鳥居。探していた廃村の入り口だ。


 鳥居のそばまで足を進め、「やっべ、マジみつけたわ」と、守は鳥居を見上げた。少し傾いた古い鳥居。その真下には丸い石が四つ埋められていた。が、守はそれには気づかなかった。


 鳥居の向こうには少し開けた土地があり、そこに草は一本たりとも生えてはいない。薄茶けた土の上に木漏れ日が差し込み、木の葉の影が揺れている。その奥に、住居跡らしきものも見える。


 吉川守よしかわまもるは機材の入ったリュックを背負い直し、片手に持っている小型のビデオカメラで辺りを撮影しはじめた。「えー、こちらが今回紹介する廃村です」と、動画配信用に作られた緊迫感のある声でビデオカメラにナレーションを吹き込む。


 ヤラセ番組かと思うようなタイミングで強い風が吹き、こうべを揺らして森が鳴く。キィー、キィー、と、甲高い鳥のような声がどこかから聞こえ、獣肉が腐ったような匂いが辺りに漂った。


 守は肩をすくめる。嫌な感じだ。風が腐臭を運んできた。ということは、どこかで獣が死んでるのだろうか。守は鼻に皺を寄せ、辺りをカメラで撮影するが、見える範囲に獣の屍体は見当たらなかった。


 熊にだけは遭遇したくない。


 ここは禁忌の村。決して立ち入っては行けない場所。守はそれを知っていた。昔々、いまは亡き曽祖母ひいばばから聞いたことがある。年老いた曽祖母は、中学生だった守に集落から奥に進む獣道を指差して、「あそこから先には行ったらあかん」と、言った。「なんでや? 熊でも出るんか?」と聞く守に、曽祖母は、「恐ろしいとこなんや」と、言った。


 その先にあるのは、この世から隔離された村。周辺に住む村々の人々は、そこに行くことはもちろん、その土地の名、一族の名を口にすることさえも禁忌としていた。


 老婆曰く、その村の一族のことを皆は総じて“咒隠じゅおん”と呼んでいた。咒隠と呼ばれた一族は、いつの頃からか二つに分かれ、元は同じだった互いの血筋を呪い合い、殺し合った。大切な家族を殺されたという怨みの連鎖は、咒隠の中で誰かが死ぬたびに増幅し、最後の一人が消えるまで殺戮は繰り返されたという。


 そして、咒隠の人々は、誰一人、いなくなった。

 だが、しかし——。


 その地には、咒隠の霊魂が鎖に繋がれたように残り、一族を根絶やしにした恐ろしい呪いが、巨木の根のようにあちらこちらに這っている。幾重にも重なる呪いの根は、今でも村中に蔓延っている。立ち入れば穢れを受け、祓うのは容易では無い、と。


 だから決してあの獣道に足を進めてはいけないと、曽祖母は守に警告したつもりだった。曽祖母は、その後すぐに亡くなった。もう、十年以上前のことである。


 享年九十八歳。

 大往生であった。


 だから、曽祖母が死んだのは、呪いのせいではない。しかし守は、呪われた一族とこの廃村、そして曽祖母の死を結びつけた怪談話を捏造しようと思っていた。曽祖母が住んでいたのは、いまいる場所から二時間ほど山道を下った先の、小さな集落だった。山奥にあった曽祖母の村も、もういまは廃村と化し、誰も近寄りはしない。守は今日、そこに車を停めて動画を撮りながら山道を歩いてきた。


 怪談系の動画配信者は吐いて捨てるほどいる。廃村や廃墟探訪の動画配信者も同じだ。カメラひとつ、いや、スマホひとつで動画配信者として成り上がることのできる時代。一発当たれば、普通に働くよりも割がいい。「買ってみた企画」で高級腕時計を購入しても、「泊まってみた企画」で高級ホテルに宿泊しても、経費で落ちるという。こんなに美味しい仕事はない。


 信憑性のある、それでいて誰もが恐れ慄くような怖い話。怖い話を好んで見るような人々は『禁忌』というフレーズが大好物のはずだ。それと、『実体験』という言葉も。今回ここにやってきたのは、そんな動画を作るためだった。


 守はリュックを足元に下ろし、一息吐いた。肩を何度かぐるぐるまわす。そのあとで、カメラのレンズを自分に向けると、本体から飛び出た画面を反転させて、自分の顔を映し出した。画面には、録画を知らせる赤い『Rec』の文字。余計なシーンは編集でカットすればいい。それとも余計なシーンも臨場感があっていいだろうか。ひとりの夜はきっと暇を持て余す。だからもちろんノートパソコンも持ってきている。


 登山ハットをブランドロゴが映るようにかぶり直し、右に左に顎を動かして、画面に映る自分の顔を確認した。映りは悪くない。自分は見栄えのする顔だと守は思っていた。


 眉を潜め、守は声のトーンを下げた。


「実はですね、ここは僕が昔々、ひぃばあちゃんの家に泊まった時に、迷い込んでしまった、謂くつきの場所なんです。ひぃばあちゃんは、僕に、この村がなぜ恐ろしいのか話をしてくれました。地元の人はこの場所を禁忌としてて、その話をすることもタブーだそうです。だからなのか、この村の話を僕にしたせいで、ひいばあちゃん、その後すぐに亡くなってしまったんですよねー。今回は、そんな僕の家族にまつわる、謂くつきな廃村を散策していきます」


 守の脳裏に、曽祖母の死顔が浮かぶ。松の表皮のように深く刻まれた皺。うっすら開いた口元には皺をなぞるように白い髭が生えていた。その口が動き、しわがれた声が聞こえた気がした。守は変な妄想を振り切るように「えー」と長く声を出した。


「今回僕は、昔の記憶を頼りにGoogle マップで場所を調べ、ひぃばあちゃんの家があった集落まで車できて、そっから歩いてきたわけなんですが」


 辺りの空気がピシッと割れた気がした。パラパラパラパラと、頭上から木のこずえが落ちていく音が聞こえた。守の喉仏がゆっくりと動く。「なんか、すでにやばい感じが漂ってます」と小声で話しを続け、そこで息を呑んだ。


 太陽が雲に隠れたのか、鳥居の向こう側が少し陰った気がした。影はゆっくり動き、徐々にこちらに向かってやってくる。


 守はぶるっと身震いをした。急に背筋が寒くなった気がするのは、太陽が雲に隠れたからだ。十月半ば。ここ最近の異常気象で、和歌山市内の気温は二十五度を超えていた。この場所の正確な気温は分からないけれど、熊野古道で検索した最低気温は十六度だった。夜でも十六度ならば、そう寒い日ではない。それに、今日は怪我防止のために防水仕様の長袖長ズボンだ。だから、寒いはずはない。


 薄暗くなった足元に目をやって、はやく廃村の撮影を終えて、テントを張らなくてはいけないと、守は思った。


「今日はここで一泊するつもりです」守は足元に置いたリュックにカメラを向ける。そのまま肩紐に手を伸ばし掴み上げると、「よいしょッ」と、リュックを背負った。一度肩から下ろしたせいか、リュックは酷く重たい。肉に食い込む肩紐を少しずらし、小さなビデオカメラを構え直す。


「それじゃあ早速。地名を言うことも禁忌だったという廃村に、いまから潜入してみたいと思います」


 守は、朽ち果てそうな古い鳥居を石につまづきながら、くぐった。


 




 



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