昔の知り合い
七折ナオト
第1話
毎日のように乗っていてその通学時間に辟易としていたはずの路線だったが、久しぶりに乗ると妙に気持ちが高ぶった。椅子の硬さ、吊り革の形、広告の質、そのどれもが懐かしくて嬉しくなる。車内は空いていたが窓際に立ち、あの頃は気にも留めなかった流れる景色を眺める。冬の澄んだ空気が懐かしい風景をより鮮明に映してくれる。忙しい毎日に忙殺され思い出すことすらなかった学生時代の記憶が、田舎の人気のない湧水のようにどこからともなく湧き上がってくる。
久しぶりの集まりだった。大学を卒業してから早五年が経とうとしていた。社会人に成りたての頃は最低でも月に一度は開かれていたこの集まりも、徐々に頻度はまばらになってきていて、半年に一度程度に減ってきていた。いつもなら都内のターミナル駅で簡単に済ます飲み会も、今回は翔太の「たまには我らが大学の近くで飲もう」という提案により休日にわざわざ遠出する羽目になった。急行すら止まらない辺鄙な駅。その駅前に数軒しかないチェーンの居酒屋が今日の待ち合わせ場所だった。
集まりが決まった時は懐かしさよりも面倒臭さが勝っていたが、いざ向かってみれば片道一時間の車内の時間を想像以上に楽しんでいる自分がいた。途中、聞き慣れない駅名が耳に飛び込んできた。どうやら知らぬ間に駅名が変わっていたらしい。元々降りたことすらない駅で、愛着のない駅ではあったが、カタカナの混じった新しい駅名は耳に馴染まず、少しだけ寂しさが募った。
大学の最寄り駅では休日にも関わらず学生らしき若者が数人一緒に降りた。そして同じ位の数の若者が電車に乗り込んでいった。なんてことのないごく当たり前な景色なはずのに、自分もあの風景を構成する一部だったのだなと驚くほどセンチメンタルな気分になった。
改札を抜けると冷たい風が構内へ目掛けて吹きすさんできた。駅前の小さなパン屋、牛丼チェーン店、建物は古いがいつも賑わっているパチンコ屋、数年ぶりでも一切変わらない景色が広がっていた。
居酒屋に着くと翔太も浩平も既に一杯目を始めていた。
「おつかれー。生でいい?」
浩平が手際よくおしぼりとビールを頼んでくれる。元々気の利く奴ではあったが、社会人になってからの息をするようなスマートさは年々増してきている感じがする。
「見て、懐かしくて駅前でパン買っちゃったよ」
翔太は嬉しそうに紙袋を掲げる。紙袋には学生時代によく行ったパン屋のロゴが印刷されていた。気持ちはわかるがこれから飲み会で一体そのパンをどうするつもりなのか。思わず吹き出してしまう。マフラーを外し、コートを背もたれに掛けたところで、お通しとビールがもう到着した。
「それで、最近仕事はどうよ」
改めて乾杯をしてそれぞれ思い思いにビールを
「まあ、漫然と」
浩平からふふ、と失笑が漏れて「出た漫然と」と翔太が声を張り上げる。
いつだったか浩平が仕事に対して「最近は面白味もやり甲斐も何にもない。ただ漫然と仕事してる」と表現してから、僕らの中で「漫然と」が流行していた。
「ほんと漫然とやるしかないよな」
お互いに仕事に対して軽く愚痴をこぼす。社会人になりたての頃はお互いの仕事に対して熱心に興味を示し、仕事論を交わしたりもしていた。ただ最近は込み入った話などしない。それぞれ職種も違っているため、細かい話は共感できないし、そんな深い仕事上の悩みを打ち明けるよりも、仕事が面白くないのは自分だけではないというちっぽけな安心感が欲しい。そのためにお金と時間を遣ってここに来てるのだから。そんな傷を舐め合うように僕らは会うたびに「漫然と」を繰り返した。
「そういえばさ、ジュンが捕まったのって知ってる?」
なんの話の流れでその話になったのか、その前後は思い出せない。
「え、まったく知らない。ジュンってあのジュンだよね」
翔太が答える。僕は逮捕という、身近な人間とは今まで結びついてこなかった単語にうまく脳の処理が追いついていなかった。
「亮は?ジュンと仲良かったじゃん。連絡とってないの」
「いや、卒業以来、連絡とってすらない」
質問の矛先が自分に向き、一瞬うろたえて歯切れが悪くなってしまった。連絡どころか、ジュンの存在を思い出したのも卒業以来かもしれない。
「え、それでなんで逮捕されたの?」
翔太が横やりを入れて、自分もその理由を知りたかったことに気づく。
「俺も詳しくは知らないんだけどさ、どうやら万引きだったっぽい」
「万引き?」
逮捕という仰々しい単語から、万引きというどこか間の抜けた響きを持った理由との落差に拍子抜けして、つい大きい声を出してしまう。内容が内容だけに周りに聞こえたかもしれないと、慌てて周囲の様子を伺うも全国どこでも代わり映えのしないチェーン居酒屋の店内の騒音は凄まじく、誰も僕らの会話になど気づいてすらいなかった。いや、気づいていたとしてもテレビの中では日々赤の他人が逮捕されている訳だから、取り立てて興味を引くこともないのかも知れない。赤の他人であれば。
「まあでも初犯だからって執行猶予がついて、今は普通に暮らしてはいるらしいけどね」
執行猶予、また聞き慣れない仰々しい単語が飛び出してきた。
「なんでまた万引きなんか、そういうことする奴じゃなかったのにね」
翔太からの同意を求める視線に頷き、浩平の目を見る。
「お金に困ってたらしいよ。ほらジュンって家庭環境よくなかったじゃん。それで家族にもお金借りられなくてって感じらしくてさ。吉沢って覚えてる?ジュンと同じサークルだった。逮捕の話も吉沢から聞いたんだけどさ、吉沢のところに金貸して欲しいって連絡来たらしいよ」
「それ、いつよ」
翔太の相槌に甘えて、黙りこくったまま話を聞く。
「結構前だったと思うけど。俺が吉沢に会ったのも二ヶ月以上前だし」
「そうなんだ、じゃあジュンが今何してるのかっていうのも」
「知らないっぽかったな。俺が聞いた話はこれで全部」
「そっか」
賑やかな店内の中、ぽっかりと空いた穴のような沈黙がテーブルの上に訪れる。聞きたいことはあるはずなのに、うまく質問が浮かんでこない。聞いたとしても浩平もこれ以上情報は持っていないのだから、聞くだけ無駄ではあるのだけれども。
「空いているお皿失礼しますね」
まるで沈黙を埋めに来ましたといった絶妙なタイミングで店員のお姉さんが手際よく皿を積み上げる。それに合わせて翔太がまだ半分はあったであろうビールを飲み干し、レモンサワーを頼んだ。
「あ、俺も同じの」
浩平からの注文を受け、お姉さんはこちらにも目を向ける。大丈夫ですと右手を軽く上げると、お姉さんは空いた左手に二つのグラスを持ち足早に去っていった。金色が混じった髪をアップにした背中では、見慣れた店名がでかでかと主張していた。
「まあ無事なら何よりだね」という翔太のあっけらかんとしたまとめを最後に、話題はそれていった。これ以上の情報は誰も持っていない。五年前の旧友の逮捕という衝撃は大衆居酒屋の近況報告の中に紛れて、僕の前を通り過ぎて行った。
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