ありえない現実


 目覚まし時計のけたたましい音に飛び起き、ぼんやりと視線を彷徨さまよわせた。

 朝か。朝だよな。起きなきゃ。ほら、早く。

 わかっていてもまぶたが落ちていく。眠い、眠くてたまらない。このままずっと寝ていたい。


 なんだろう。何かがおかしい。えっと、えっと。

 剛史は眉間に皺を寄せて、首をぐるりと回す。

 重い。頭が重い。身体が怠い。喉も痛い。熱っぽいような。

 休みたいからそう感じるわけじゃない。これはきっと風邪だ。インフルエンザって可能性もある。それとも別の病気か。

 なんであろうと、これは休めってことだろう。よし、寝よう。ブルッと身体を震わせて布団に潜り込む。


『ああ、うるさい。目覚まし時計、黙れ』


 何度も鳴るんじゃない。起きればいいんだろう。

 剛史はゆっくり起き上がり目覚まし時計のスイッチを押さえつけ、肩を落とす。


『やっぱり、だるい』


 倒れるようにしてベッドに横になり、天井をみつめた。

 仕事に行きたくない。もう働きたくない。ずっとここで寝ていたい。

 行きたくない病にでもかかったか。そうかもしれない。会社に行ってもまた上司に何か言われるだけだ。プレッシャーに押しつぶされてしまう。このままじゃ絶対にダメだ。

 体調が悪いのは事実だ。断じて仮病ではない。今日は日曜日だし、休んだって問題ないはず。


 そうだ、そうだ、そうだ。

 そうと決まれば休みの連絡を入れよう。

 立ち上がったところで、フラフラとよろけてしまう。なんだか節々も痛む。この感じは結構熱が高いってことか。

 とりあえず、体温を測ってみよう。


 体温計を取り出して脇の下に挟み、ほんの少し待つと測定終了のピピピのサイン。

 三十八度六分か。なんだか余計に具合が悪くなってきた。

 やっぱり会社に行くのは無理だ。


 あれ、ここは自分の部屋だよな。空が見える。屋根はどこへいった。

 目を閉じて頭を振り、深呼吸をする。

 ゆっくり目を開くと、やはり自分の部屋だった。なんだか変だ。一瞬だけ幽体離脱したのか。そんなまさか。頭がおかしくなっちまったか。こりゃ重症だ。


 ベッド脇に置いたスマホを取り、電話をかけようとして動きを止めた。まだ誰も会社に来ていないか。それなら少し休もう。電話はそのあとで十分だ。スマホを置き、ベッドに倒れ込む。


「ああ、だるい」


 あれ、いまそこに誰かいたような。って、何言っているんだか。いるわけないだろう。



***



 ハッ。何時だ。

 ほんの少しだけ眠るつもりが思ったよりも眠ってしまった。これはまずい。出勤時間を過ぎている。

 時計を睨み、『時間よ、戻れ』と願った。叶うはずもなく項垂れる。

 上司の顔が一瞬過り、頭を降った。高林部長はあっちへ行け。


『ああ、もう。なんてこった』


 やってしまった。どうしたらいい。馬鹿野郎。どうもこうもない。早く電話をしないと。

 剛史は、スマホを取ろうとして手が滑り床に落としてしまった。

 何をしている。慌てるな。落ち着け。いや、これは熱のせいか。手に力が入らない。


 ぼんやりした頭を軽く振り、電話をかける。コール音がどうにも心拍数を上げさせる。緊張のせいか熱のせいか気持ち悪さが込み上げてくる。

 三回目のコールで会社名を告げる相手の声が届き、寒気がした。

 高林部長の声だ。最悪だ。いやいや、そんな場合じゃない。


「おはようございます。河野です。あの」

「なんだ寝坊か。何をしてる。さっさと会社に来い」


 突然の罵声ばせいにキュッと心臓が縮こまる。やっぱりこうなるよな。こっちの話など聞く気がないらしい。どうしたらいい。違う、違う。どうしたらじゃない。とにかく体調が悪いことを話さなくては。


「あの、部長。そうではなくて」

「給料減給するからな」

「あの、ちょっと待ってください」

「なんだ、文句でもあるのか」


 ああもう。話を聞いてくれ。話をするのも辛いっていうのに。


「いえ、違います。あの、熱が三十八度六分ありまして体調が悪いんです。休ませてください」

「熱だと、まったく自己管理もできないのか。体調なんか集中して働けば治る。いいから会社に来い」


 まさかの返答だった。

 えっ、なに。いま、幼い女の子の笑い声が。いやいや、気のせいだ。会社で誰かが笑っただけだ。きっと。

 そんなことよりも休めないのか。

 そんなことってあるのか。まさか、嘘をついていると思っているのか。ダメだ。諦めるしかない。高林部長には逆らえない。


 結局、出勤すると言ってしまった。

 くそっ、くそっ、くそったれ。なんでこうなるんだ。

 剛史は握り拳で額を軽く叩き、項垂れた。頭が痛む。

 高林部長はまったく信用してくれなかった。これも自分が悪いのか。日頃の行いが悪いっていうのか。

 しかたがないか。行くしかない。我儘わがまま言ってはいけない。いや、これは我儘じゃない。そうだろう。


 ああ、身体が重い。気持ちが悪い。もしかしたら、さっきよりも熱が上がっているかもしいれない。咳まで出てきた。

 こんなんで会社に行けるのか。

 スーツに着替え一旦ベッドに座り込む。高林部長の睨みつける顔が思い出されて、立ち上がりかばんを手にする。

 行けばいいんだろう。どうにでもなれ。

 鼻水がツーと垂れてきて、ティッシュで拭き取った。


『俺の人生、最悪だ』



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