2話 スープの香りに誘われて

 国王の崩御を知って震撼した日から、5年が経った。


 20歳になったクラーラは、今も城下町の修道院にいて、見習いシスターとして院長ドリスに師事している。


 以前と少し違うのは、修道院の敷地内に孤児院が併設されたことだった。


 


「院長先生、この数年でずいぶんと、城下町の様子が変わってしまいましたね」




 以前はにぎやかで景気のよい町だったが、今では失業者や孤児が増え、治安も悪くなっている。


 その原因となったのは、正妃ダイアナだった。


 国王が亡くなって、王太子であるクラーラの兄ベンジャミンが即位するまで、短い期間ではあったがダイアナが政務を代行した。


 慣れないダイアナを慮って、多くの大臣が手助けを申し出たが、ダイアナはそれらをすべて跳ね除けてしまう。


 そして面白半分で重税をかけたせいで、民間事業の倒産が相次ぎ、少なくない働き手が職を失ったのだ。


 国王となった若きベンジャミンは、その失策を挽回するために奔走しているという。


 肩を落とすクラーラの隣で、玉ねぎの皮を剥いていたドリスも溜め息をつく。


 


「孤児院を建てた当初は、こんなに孤児の数が増えるとは、思ってもいなかったわ」




 小さな孤児院で面倒を見られるのは、せいぜい五、六人といったところだ。


 しかし、不況のせいで親に捨てられたり、一家離散したりと、城下町に孤児は増え続けた。


 今では修道院の建屋もつかって、なんとか十人の子どもたちの面倒を見ている。


 もちろんドリスの手だけでは足りず、元王女だったクラーラもしっかり働いていた。




「クラーラがいてくれて、本当に助かっているわ。あの日、あなたがスープの作り方を教えて欲しいと願ったのは、天啓だったわね」


「包丁の扱いに慣れるまで、かなり時間がかかりましたが……院長先生が辛抱強く、指導してくれたおかげです」




 刃物で手指を切ったり、火の扱いを間違えたり、クラーラがやらかした失敗は多い。


 すっかり水仕事に慣れた手は、白魚のようだった昔と様変わりしていた。


 


「それでも、今ではクラーラの作るスープが一番おいしいと、子どもたちに認められているでしょう。あなたは成長し、立派に役目を担っているわ」




 王女という存在意義をなくしたクラーラにとって、ドリスや子どもたちからの承認は嬉しいものだ。


 それがたとえ、一杯のスープだったとしても。




「今日も頑張ります」


「楽しみにしているわね」




 ドリスは手を拭き、台所から出て行く。


 今から子どもたちに文字を教えるのだ。


 残されたクラーラは、エプロンを身につける。


 ここからはクラーラの腕の見せ所だ。




 ◇◆◇◆




「なあ? この辺りに、レストランなんてあったか?」


「ありませんよ。食堂のある通りは、さっき過ぎたでしょう」


「でも、いい香りがする」




 クンクンと鼻を鳴らすのは、黒髪で長身の精悍な青年だ。


 日に焼けた肌をしているが、まとっている服は上等で、とても庶民には見えない。




「そうしていると、犬みたいですね」




 銀縁メガネをかけた細身の男性が、青年を茶化す。


 こちらも、黒髪の青年と同じく、しぐさに育ちの良さがにじみ出ていた。


 ふたりとも、治安の良くない城下町を歩くには、やや品があり過ぎる。




「フリッツ、こっちだ。間違いない」


「そんなにお腹が空いているんですか?」




 やれやれと言いたげなフリッツを引っ張り、黒髪の青年は奥まった道を進む。


 そしてその先にあったのは――。




「これは……孤児院か?」


「おそらく、もとからあった修道院に、後から併設されたのでしょうね」


 


 並び立つ建物の古さが、明らかに違う。


 前庭で駆けまわって遊ぶ子どもたちは楽しそうで、ここの経営がうまくいっているのが伺えた。




「この匂いは、子どもたちの食事を用意しているせいか」


「ああ、なるほど、確かにこれはおいしそうですね」




 ここまで近づけば、フリッツにも分かる。


 しかし、だからこそ首を傾げた。




「こんないい香りが、孤児院からするのは変じゃないですか?」


「だからさっき、レストランがあるのかと聞いたんだ」




 まるで一流の料理人が手掛けたような、食欲をそそる芳しい香りが、今も漂ってきている。


 舌の肥えた二人だからこそ不思議でならない、頭をひねる謎だった。


 敷地の前に突っ立って、ああだこうだと言い合っていると、数人の子どもたちがそれに気づいて近寄ってきた。




「お兄ちゃんたち、どうしたの?」


「院長先生に用事?」


「僕、呼んでこようか?」




 怪しむことを知らぬ、純真ないい子ばかりだった。




「うまい食事をしていれば、みんな天使みたいに育つんだな」


「馬鹿ですか、あなたは……」




 黒目をキラキラさせて感動している青年に、フリッツは呆れる。


 


「なあ、君たちの食事を作っているのは、院長先生かい?」


「違うよ」


「シスターだよ」


「正確には、見習いシスターのクラーラお姉ちゃんさ」




 一番年かさの男の子が、えっへんと胸を張って教えてくれた。


 そこで、黒髪の青年はしゃがみ込み、その男の子に目線を合わせる。




「クラーラお姉ちゃんはいい人だろうか? もし俺がお腹を空かせていると言ったら、食事を分けてくれるだろうか?」


「ちょ、ちょっと! 子どもたちの食事を、横取りする気ですか!?」




 慌てるフリッツを余所に、黒髪の青年は真剣だ。


 子どもたちは、それぞれの顔を見合わせる。


 


「多分、大丈夫だと思うよ」


「パンの数は決まっているけど」


「スープだったら、お代わり自由だから」




 スープと言われてピンとくる。


 この芳しい香りの元は、きっとそれだ。


 きちんと丁寧にだしを取ったスープにしか、この存在感は醸し出せない。




「俺は、エアハルトと言う。海の向こうから来た旅行者だ。まだこちらの国の習慣がよく分かっていないが、良かったら君たちと一緒に食事をさせてもらいたい」




 エアハルトが手を合わせてお願いをしていると、子どもたちよりも上から声が降ってきた。




「ようこそ、旅のお方。修道院は困っている者を見捨てません。どうぞ、中へお入りください」




 子どもたちの背後に、姿勢よく立っていたのは院長のドリスだった。


 見上げたエアハルトは、思わずドリスの短い白髪に眼を留める。




「短い髪が、珍しいですか?」


「いや、失礼。我が国では、修道院の者はベールをかぶっていたので……不躾だった」




 頭を下げて謝るエアハルトに、ドリスは微笑む。




「若干、国によって教えが異なるのですよ」


「どうか気を悪くしないで欲しい。驚いただけなんだ」


「オルコット王国では、短い髪に別の意味があります。今後は女性の髪を見つめる際、気を付けられるといいでしょう」


 


 食堂へ案内します、とドリスは促す。


 エアハルトに続き、フリッツもついていく。


 子どもたちは突然の来客に、心なしか嬉しそうだ。




「ハル、一体どうしたというんです? 孤児院で食事をしたいなんて言い出して。この後に戻るホテルでも、きっと昼食は用意されていますよ?」




 小声でフリッツに話しかけられたエアハルトだったが、自分自身も不思議でならなかった。




「どうしてだろうな。このスープの香りに、心が引き寄せられてしまうんだ。フリッツは何も感じないか?」


「おいしそうだという以外には、特に……」


「25歳にもなって俺は年甲斐もなく、胸がドキドキしている。こんなことは生まれて初めてだ」




 心臓を押さえるエアハルトに、フリッツは驚きを隠せない。


 うっすらと頬を紅潮させる姿など、これまでに見たことがないからだ。


 フリッツはエアハルトの付き人として旅のお供をしているが、少年時代からの幼馴染でもある。


 そんなフリッツの長年の経験則が、これを異常事態だと告げていた。




(この顔つきは、初恋でもしたみたいじゃないですか。まさか本当に? スープの香りに?)




 そして香りが漂う食堂に入り、エアハルトは運命と出会うのだった。

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