僕が転移したこの世界はとても居心地が良くて、そして異質だった

七紺

第1話

夢の舞台は映画館で僕は観客だった。ぽつりと僕だけがそこにいた。映像は静かに流れていた。流れるのは映像だけで音量はなかった。

 一流ピアニストの演奏のようなかろやかさで映像は流れている。主人公の一人称で進んでいる。主人公は駐輪場に自転車を止めて校舎に入った。そして一人の先生と鉢合わせて声をかけた。やっぱり音量はなくて何を話しているのか聞こえない。主人公はきょろきょろと辺りを見回しながら先生の背中を追った。ここで待っていなさいと合図し、先生は教室に入った。主人公は自分の胸に手を当てた。やがて声を聞いたのだろう主人公は教室に入った。クラスメイトたちをぐるりと見回すと、視線が一点を捉えて止まった。一人の女の子がいた。主人公の視点で進んでいたこともあり涙で画面はぐちゃぐちゃになった。夢はここで途切れた。



*************************

 

 家で愛用している目覚まし時計のけたたましい音によるものではなく、感覚や神経が普段との異なりを察知したようで意識は飛び跳ねるように覚醒した。覚醒した意識は辺りの情報を次々と認めていった。匂いはキャンプ場の小屋のような感じがした。茶と黒が下手くそに混濁した木製の天井の中心には電球が張り付けられていた。馴染みのない情報が多々ある状況だった。僕は自分が落ち着きを取り戻すまで一分ほど茫然とした。

 これは夢だ、と落ち着きを取り戻した僕は目を閉じようとした。目を瞑る寸前だった。視界を遮断させる僕を叱咤するが如く朝の陽ざしが差し込んできた。ありがお菓子を虫食いするみたいに暗がりの部屋に明かりが広がった。

「どうだっていい。夢も現実も」

 あることを思い出して苛立ちを覚えた僕は寝返りを打った。すると視線の先には女の子がいた。布団の上で体をぐにゃぐにゃさせていた。布団の上に全身で乗っかってむにゃむにゃと言っていた。この状況は一体なんなのだろうか。今の僕はどうして自分の顔が真っ赤なことに気付けるほどに動揺しているのだろうか。僕は自分の情緒の起伏の原因に戸惑った。状況の理解にも戸惑った。夢だというのなら理解が追い付かないでいいはずだった。だというのにどうして理解しようとしているのだろうか。わからなかった。

 野太く、厳格な雰囲気を漂わせる声が閉ざされたドアを通り抜けてきた。「二人とも学校遅れるぞ」

 声質から強面であることを想像してしまった。自分が焦っていることに僕はまた気付いた。これは夢であると僕は自分に暗示をかけるように心の中で反芻した。これは夢だと何度も繰り返した。しかし一切の催眠効果に浸れなかった僕は覚悟を決めた。そして風に運ばれる紙のようにふにゃふにゃな声で返事をした。裏返った声音での返事は空気に溶け込みそうなくらいに弱弱しくなった。自分のことながら情けなかった。

 気が進まないながらも体を起き上がらせようとした。すると女の子が枕をまいたままごろごろとそれはもうタイヤみたいに転がってきた。顎にまで垂れている涎は糸のような跡を残していた。それを上に辿っていくと、唇がもにょもにょと開閉しながら甘い声を漏らしたり漏らさなかったりしていた。

 今更になりようやく女の子をちゃんと視野に入れたが、彼女の長くて美しい金髪は絹のようにさらさらそうだった。傍目にもそう感じさせるだろう。見た限りだが僕よりもほんの少し短身なのを鑑みれば、立ち上がったときに、その金髪は腰くらいまで流れてくるだろう。童顔なので、可愛タイプの金髪の女の子になるだろうと僕は気付けば想像を巡らせていた。

 落ち着きを取り戻すために胸に手を当てた。そのまま深呼吸をして立ち上がった。

 部屋を出ようと考えたがこのまま女の子に何もしないのは夢なのだし名残惜しいと思い、女の子の頬を人差し指でつつき、僕は部屋を跡にした。


 父親は僕が予想していた通りで厳めしい顔つきの人物だった。厳めしい顔つきをした父親は机の上に朝食を並べながら僕の方を向いた。

「とっとと食べて学校に行け」

「は、はい」と僕はたじろぎながら返事をした。

 表情で感情を読むのがとても難しいことがこの一連のやりとりだけで分かった。予想通り厳めしい顔つきだったが事あるごとに怒鳴りつけるタイプではなく、僕が何をしても静かに見守ってくれるような父親を連想させた。現実での僕の父親は常に明るく優しさに溢れた人だった。お節介を焼いてくるが僕のやりたくないことは強制させない一種の理想の父親と言っても過言ではなかっだろう。今はよくない感情を抱くばかりだが。

「ロア、ユリナはまだ寝ているのか」

「は、はい」

 咄嗟に、さっき隣で眠っていた少女のことだと解釈した僕は慌て気味に頷いた。ついつい動揺を露にしてしまう僕の瞳には水面でも広がっているのだろうか。悠々と魚でも泳いでいるのだろうか。奥底に隠れる本質の欠片に手を届かせるみたいに僕の瞳を除く目の前の男性から眼差しを逸らした。男性からもこちらと視線を外す気配を感じ取れた。

 この緊張感はなんなのだろうと僕は現状に違和感を抱いた。全てを夢だと理解しているはずにもかかわらず何が僕の神経を逆立てているのだろうか。

「起こしてこよう」と父さんが言った。

「うん……」と僕は答えた。敬語は使わなかった。この父親の子供であることを演じた方がいい気がした。

冷静になれ僕、と催眠をかけるように僕は心の中で繰り返した。自我がなくなり僕の知らないもう一人の僕が出てきてくれればいいのにと益体のない妄想を膨らませざるを得なかった。

 肝を冷やす僕を置いて、父さんは閉ざされた扉に手を伸ばした。同じタイミングで扉は向こう側から開かれた。扉の向こう側にいる当人の心理をそのまま表現したかのようにゆっくりと開かれた。現れたのは僕の隣ですやすや眠っていた女の子だった。環境に上手く溶け込むと決めたばかりなので僕は父親を父さんと呼ぼうと思った。

「ユリナ、だらしがないぞ。顔を洗ってこい」

 父さんは先程もその名前を口に出したがそれが女の子の名前のようだ。たしか僕はロアと呼ばれていた。僕の名前はロアと呼ぶのだろう。

 僕はこの部屋にたどり着くまでに別の部屋の中に入った。その部屋に設置されていた鏡を見て気付いたのだが、今ここにいる僕と現実の僕の顔は全く異なるものだった。雰囲気は酷似していたが明らかに別人だった。一番特筆したいのは髪の色だった。わけがわからないくらいの金色だった。自賛するわけではないがよく似合っていた。姉だか妹だか判然としないが寝ぼけ眼で顔を洗いに行った少女も僕と一緒で金髪だった。普通に考えれば家族なのだろうし当然だろうと僕は思った。オレンジなのが疑問だがそう思った。もしかすれば母親の髪はオレンジをかき消すくらいに濃密な金色だったのかもしれなと僕は思い浮かべた。そして母親はいないのだろうかと思った。

「ぱぱぁ」と開いた扉の外からふにゃけた声が聞こえてきた。声を発した本人だったユリナは部屋に戻ってきた。「洗面所ってどこだっけえ」

「部屋を出て右。突き当りの扉を開け」

「はぁい」                      

 とぼとぼと緩慢な足取りで少女は部屋を出て行った。寝ぼけるにも限度があるだろうと僕は思った。そう思ったがほんの数分前まであれだけ気持ちよさそうに熟睡していたので起きてきただけでも褒め称えるべきな気もした。

「なあ、ロア。学校は楽しいか?」

 父さんの何気ない一言によってさーっと思考回路を走った電流が心臓を脅かした。嫌なことを訊いてくるなと僕は苛立ちを覚えた。僕は感情を表面上に出すのを堪えながら、まあ親として平常な質問だろうと思い直した。それに夢で通っている学校についてなのだし現実とは無縁ではないかと考え直した。そして僕は愛想笑いを浮かべた。

「楽しいよ」と僕は取り繕った笑みで言った。

 そして言葉を付けたそうとしたところで姉か妹か不明だが家族であるのは明確であるユリナが戻ってきた。寝癖は相変わらず跳ねているが大きく見開かれたまんまるとした瞳はぱちぱちと瞬いており、その時間が目の前の状況を解釈するのに要する時間だとばかりに少女は僕と対面する席に腰かけた。

「いただきます」とユリナは言った。

 ユリナはやたら真剣な顔で手を合わせ朝食に手をつけていった。パンを齧り、スープを飲むことを繰り返しながら物凄い速度で橋を進めていった。その光景を少しの間眺めていた父さんもすぐにユリナの隣の席について朝食を食べ始めた。

 無言での食事がしばらく続き静寂が続いた。

「美味しい味がするから幸せになれる。味を感じられるだけで幸せな人生だよね」とユリナが言った。

 独り言だろうか。それとも僕か父さんのどちらかに言ったのだろうか。

「美味いなら何よりだ」と父さんは言った。

 むしゃむしゃとユリナは橋を進めていた。その様子を観察しつつ食事を終えて僕はごちそうさまと言った。早めに食べ始めたせいで手持ち無沙汰になってしまった僕はどうしていいかわからず二人を眺めるくらいしかできなかった。何をしていいのかも分からなかった。

どうしようかと思っているとユリナが具材を乗せたスプーンを僕に近づけてきた。「弟くん、あーん」

「弟じゃなくて兄だろう」と父さんが言った。

「それがわかっていても姉になりたいんだよ」

 僕はどうすればいいのだろう。黙りこくった父に助けを求める意味で視線を向けるが食べるのに集中していた。具材が乗ったスプーンを口元に持ってこられた僕はどうしていいのか本当に分からなった。

「いつも二人でニヤニヤしながら食べさせあっているだろ」と父さんが爆弾のような発言をした。

 助け舟なのかそうでないのか解釈に困る父の言葉に背中を押された僕はそうなのかと強くツッコミたい衝動を抑えて、ぱくりとスプーンを口に入れた。

「美味しい? 美味しいよね」

 ユリナと視線がぶつかり恥ずかしくなった僕は頷くので精一杯だった。ほんの数分前に違和感なく接すると誓ったばかりだろうと僕は再度腹を括った。

 そう覚悟を決めた僕の胸中を見透かしたように父さんは言った。「いつものお前らしくもないな。大丈夫か」

「だって? 大丈夫になるためにも、ほら、あ~ん」

「——まああと半年で世界も滅びるわけだからな」

 ぱくり、と羞恥心はあれ態度に出さずに任務を完遂した僕は固まってしまった。口に含んだ具材を咀嚼できないまま固まった。

 世界が滅びると先程父さんは言った。夢の中での登場人物の妄言だというのになぜ一瞬だけ全身が総毛立ったのだろうか。鳥肌がたち、心臓が脈打ったのだろうか。動揺しているのだろうか。気づけば色んな思考が物凄い速度で大量の情報を生み出していた。混乱しかけていた僕をユリナが覗き込んでいた。

「世界が滅びるのがお兄ちゃんは辛いの?」とユリナが訊いた。

「え……?」としか僕は言えなかった。

「だって辛そうだったから。今もそんな顔してる」

「君は辛くないの? 君は……ユリナは嫌じゃないの?」

「うん。嫌じゃないよ。だって、世界が滅びるっていうことは誰もが一緒に死ぬってことだよ。嫌なわけないよ。ちょっと嬉しいくらいかも」

 僕は、現実で死にたいと本気で思っていた。心の底からそう思っていたはずだった。確かにそう思っていたはずだったが世界が滅びるという提言を否定したい気持ちでいっぱいだった。

 この、恍惚な笑みすら浮かべている妹にその顔だってやめてほしかった。そもそも父はネジが外れた自分の娘に咎めるなりしないのだろうか。常識の歯車が幾らかずれているような異常が食卓を囲む僕らを閉じ込めていた。充満した形容しがたい色のモヤが僕を抱き、世界に抱かれているような気さえした。

「お兄ちゃん、大丈夫だよ、そんな青ざめた顔しなくても。別にいいじゃんか、大好きな私と一緒に死ねるんだからさ。パパからも何か言ってあげてよ~」

「早く着替えて準備しろ。迎えが来るぞ」

「うん! ごちそうさまパパ。お兄ちゃん、ほら準備しないと! 沢山楽しい思い出を作って死ななきゃ! そのためには一秒も無駄にはできないよ⁉」

 鼻息荒く、餌を与えられた野生動物みたいに顔を近づけてくるユリナは純粋さの塊のようだった。明らかに異質な純ではあるが、それをこの世界が正しい純であると肯定してかのようだった。

「おい、もう来たぞ」と父さんが言った。

「お兄ちゃんがもたもたしてるからだよ!」

 僕の体は思考の海でたゆたうようだった。そんな僕の手を誰かが掴んだ。ユリナだった。思考の風向きとは別の方向に僕の体は向かって行った。壊れたロボットみたいに連れていかれながら僕は思った。ただこれだけの時間を過ごしただけにも拘らず世界が支配されているように思ってしまった。世界は支配されていて、神が全てをコントロールしているように思ってしまった。偏った常識や偏見は刷り込まれたものではないのかと思い僕は怖くなった。


                      


 二階に食卓があることを珍しく思っていた。こうして玄関の前に佇む僕は今でこそ合点がいったのだが、どうやら我が家は一階で飲食店を営んでいるようだった。食べたり寝たりのプライベートな時間は二階でということらしかった。

 不安ゆえに情報収集をしながらとにかく頭と体を動かさないとどうにかなりそうな僕は、玄関のドアノブに手をかけた。そのとき、湯水のようにどっと湧き上がる感情が一つあった。恐怖だった。本当にそれだけだった。色彩豊かなあらゆる感情が湧いてくるのではなくそれだけだった。心が侵食されていくのを感じた。次第に動悸もしてきた。はあはあと、荒い息が唇の隙間から漏れ始める始末だった。

 ユリナの声を初め、賑やかな喧騒が扉の向こうから聞こえてきた。聞こえてくる賑やかさとは裏腹に僕は全身に悪寒が走るのを感じた。

「おい」と父さんの声が僕の背中を叩いた。「大丈夫か?」

 漠然とした闇の中へと引きづられそうな意識を父さんの声が引き戻してくれた。はっとして僕は振り返った。

「平気だよ、父さん」と僕は答えた。

 少しだけ気持ちが楽になった僕は下手くそかもしれないが出来る限りの笑顔を返した。ドアノブを握る手はいつしか震えがなくなっていた。僕は大丈夫と自分に強く言い聞かせた。

「それじゃ、行ってきます」

 僕はぎゅっとドアノブを握る力を強くして勢いよく扉を開いた。なぜ夢にも拘わらず学校に行こうとしているのかわからないままに。

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