第21話 彼がいない日々の中で
「わーっ! もう、痛くなくなったよ。ユレニア聖女様、ありがとう!」
「これからは喧嘩しちゃダメだからね」
「はーい!」
元気に返事をして子どもたちの輪の中に戻っていく少女を見送って、ユレニアは微笑んだ。
爽やかな風が、彼女の銀色の髪をゆらゆら揺らし、西に傾きかけた木漏れ日が白い顔を柔らかに照らす。
「ここは、いいわね……」
思わず、独り言を漏らしてしまう。
緑豊かな山岳地帯が見渡せる自然豊かな場所。丘陵の麓に建つ、赤い屋根が印象的な建物には一階部分に大きなバルコニーが設置されている。
ここは、かつてユレニアが世話になった孤児院である。
子どもの頃から、バルコニーのテーブルで修道女たちが憩うのを眺めてきた。
孤児たちが遊び戯れる広い庭を見渡せるそこは、いつも子どもの安全を見守らねばならない彼女たちにとって、絶好の休憩場所だったのだろう。
聖女となったユレニアは、ここを訪ねるとバルコニーで修道女が淹れてくれたお茶を飲むのが慣例になっていた。
「お茶が入りましたよ」
声をかけてくれたのは、シスタークレア。
かつてこの孤児院にいる修道女たちの中で一番下だった彼女は、院長となってユレニアのことを歓迎してくれる。
ユレニアが常駐している教皇直轄領から近いため、以前は月に一度は訪問するようにしていたが、最近では様々なことが立て続けに起こっていたのでそれもままならなかった。
「ユレニアがここに来てくれたから、みんないつもよりはしゃいでるみたいだわ」
バルコニーに上がると、ユレニアはシスターの前の席に腰を下ろした。
テーブルに置かれたティーカップを持ち上げて、口に運ぶ。
「……久しぶりですものね」
「眠りから覚めてくれてよかったわ。ここの子どもたちは、みんな神様にあなたの無事を祈っていたのよ」
「神様が願いを聞いてくださったのかもしれません」
そう言いながら、追憶に身を委ねる。
……都からユレニアが教皇庁に戻ったのは、三ヶ月前のこと。
それは建国祭が行われる一月ほど前の話である。
教皇庁の上層部が都に行くために聖女として復帰したものの、教皇直轄領に戻って早々、治癒の仕事が山積みだった。
そのため、休暇を取り孤児院を訪ねるのが後回しになっていた。
(やっぱり、ここに来ると落ち着くのよね)
爽やかな風が、ユレニアの長い銀髪をふわりと揺らす。
それを手で直しながら、彼女は微笑みを浮かべる。
かつて孤児だった彼女に異能が発現したのは、この土地の気を感じてここの教会で祈りを捧げていたからだと思っている。
幼い頃、ずっと願っていた――怪我や病気をした子どもの手を握って、自分の生命力が相手を助けられないものか、と。
その心の声が神に届いたのか、彼女は治癒の力を授かった。
あの時の神の力が体に漲る感覚と驚き、そして高揚感を、ユレニアははっきりと覚えている。
この場所に来たいと思っていたのは、自分の原点に戻りたかったから――。
聖女としての仕事を忙しくこなし、神に与えてもらった力で傷病人を癒していても、ユレニアは自分の気持ちを癒すことはできなかった。
(婚約は……したのかしら。皇女様とアデウス様は……)
青空を見つめながら、ユレニアは浮かない気持ちで考えた。
その程度ならきっと、事情通の大神官に聞けばわかる話だ。
建国祭に参加してきた者であれば、聖職者でもその程度の情報は耳に入るだろう。
しかし、ユレニアは彼らとは建国祭の話を避けていたし、彼らも業務上の話くらいしか聖女に伝えてはこない。
ここが辺境で、都のニュースに皆が疎いのは彼女にとってありがたかった。聞きたくないと思っていることが耳に入ってくることがないからだ
(そうよ。そんなことを、私が知ってどうするっていうのよ?)
――そう思っているのに、なぜか気になってしまう。
まだ、一人でいると皇女宮にいてアデウスに恭しくかしずかれていた時間を思い出してしまう。
皇女のふりを過ごしていた緊張感は、彼の助力を得たことでいつしか楽しく心が揺さぶられるような時間に変わっていった。
すべてがアデウスのお陰だというのに……彼が素晴らしい騎士で、慕うに値する人物だからだというのに、ユレニアはつまらぬ意地を張ってきちんと別れの言葉さえも告げなかった。
逃げるように都を出発してしまったのを、今では後悔している。
(おとなげなかったわ。でも……皇女様と一緒にいるアデウス様を見たくなかったの)
紅茶のカップをソーサーに置くと、ユレニアは深いため息を漏らす。
その様子を見ていたシスターは、目を丸くした。
「ユレニアったら、どうしたっていうの? 悩みがあるなら、私でよかったら聞くわ」
まるで母のような年齢のシスターにそう心配されると、すべてを打ち明けたくなってしまう。
しかし、一生を未婚で過ごすシスターにこんな俗っぽい話をしていいものか。
悩んだ結果、やはり自分の胸の内に収めることにした。
「いえ……何でもないです」
「……そう? それならいいのだけれど」
「……ところで、最近はどうですか? 私がここに来なかった間に、何かありましたか?」
そそくさと話題を変えたユレニアに、シスターは微笑んだ。
「ここは相変わらずよ。子どもたちはやんちゃだから、日々やることは多いけど修道院で暮らすよりは楽しくて」
「そうなんですね。それは何よりですわ」
「……あぁ! そう言えば、この前、若い領主様が視察にいらっしゃったわ!」
シスタークレアは、目を輝かせて言った。
「……若い領主様? アーレンヴェルク辺境伯様のことですか?」
「そう。辺境伯様はご高齢で、お子様がいらっしゃらなかったでしょう? それを案じた皇帝陛下が、養子にお若い騎士様を推挙されたのよ」
それは初めて聞く話だった。
こちらに戻ってから、すべての情報を意図的に受け入れなかったユレニアは、教皇直轄領からすぐのところにある辺境地域の話題さえ知らなかった。
「そうなんですね。他の貴族と違って辺境伯は特殊だと聞きますから……他国と戦争になった時に砦になる役回りですもの。さぞかし勇猛な騎士様でいらっしゃるんでしょうね」
「それがね、以前、辺境騎士団にいらっしゃった方なんですって! それが皇女様に引き立てられて近衛に入って……そして、皇女様を護衛してお命を守った報奨として、この領地と辺境伯の爵位を賜ったそうよ」
興奮した様子のシスターが話を続けるうちに、ユレニアは既視感を覚えてくる。
(それって……!)
元々、辺境騎士団にいて皇女ルドヴィカに引き立てられて近衛に入隊した騎士。彼女の護衛として功績を上げて、報奨をもらうことになっていた騎士……皇宮にいたユレニアが知る限り、そんな人物は近衛兵の中では一人しかいない。
しかし、シスターが言っている若い領主とユレニアが思っている人物が同じだとは、どうしても信じられなかった。
「……あら? 噂をすれば、ご本人がいらっしゃったわ」
辺境伯が住むアーレンヴェルク城から続く街道沿いを、馬に乗った騎士たちが進んでいく。
その先陣にいるのは、藍色の軍服を身にまとった青年。
陽光に黄金の髪が眩しいほどに輝いているのを見れば、それが誰だかユレニアには否が応でもわかった。
(アデウス様……!)
あまりにもできすぎた偶然に、ユレニアは言葉を失った。
アデウスのほうも、彼女の姿を認めたようだ。
馬を降りて、部下たちに何かを伝えてから一歩一歩、孤児院のほうへと近づいてくる。
「領主様、ごきげんよう! 本日はどうされましたか?」
シスタークレアはうれしそうに、バルコニーの脇の階段を降りて彼に駆け寄った。
「ああ……焼き菓子を下町の領民からもらったので、他の品々もあわせてこちらに持って参りました。子どもたちに喜んでもらえたら」
「それは、お優しいこと! 神のご加護が領主様にありますように」
簡易な祈りを捧げるシスターの肩越しに、アデウスはユレニアのほうを見て目を眇めた。
「……ユレニア聖女様……」
アデウスが自分の名を口にすると、ユレニアの胸はドキッと高鳴った。
すらりと姿勢がいい立ち姿も、美しい顔立ちも変わっていない。
いや……むしろ、皇宮にいた頃よりも威厳が増したように思える。
彼女を真っ直ぐに見つめる青い瞳を見て、ユレニアは実感が湧いた。
(ああ……本当に、辺境伯になったんだ)
シスターの話が嘘偽りなく、自分がしていた想像が荒唐無稽なものではなかった。
この数ヶ月間、彼女の空想の中にいたアデウスが目の前にいることが、まるで夢のように思えた。
「院長先生、部下が物資を運び込みますのでどちらにお持ちすればよいか、シュミット大尉にご指示いただけますでしょうか?」
「わかりましたわ」
シスターが籠を持ったシュミット大尉たちのほうに行くのを見送って、アデウスが腰を折り、宮廷式の挨拶をしてきた。
「聖女様、お久しぶりでございます。あなたのしもべである、アデウス・フォン・アーレンヴェルクがご挨拶差し上げます」
「……アデウス様……!」
泣きそうになる気持ちを堪え、ユレニアは席を立った。
バルコニーから庭に続く階段を降りて、今も胸を占めている想い人へと一歩一歩近づいていく。
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