第3話 二人の男の間で
ルドヴィカ皇女の日々は、優雅な印象とは掛け離れたものだった。
謁見や執務、そして公務としての晩餐会や舞踏会など自分に課されようとしている多忙なスケジュールを確認して、ユレニアは倒れそうになる。
(わぁ……こんなの無理に決まってる! 何の知識もないのにっ)
アデウスに伝えて、体調不良のためにしばらく公務は控えると通達を出させてもらった。
ユレニアが真っ先にすべきことは、皇女のことを世話しているだろうグラストン大神官に手紙を出すことだ。
その内容については、あからさまだとまずいので相当長い時間考え込んだ。
安全策を考えて、皇女のものを真似ずにあえて自分の筆跡で書いた。大神官はユレニアの筆跡を知っているから、何よりの合図になる。
教皇庁で世話になった礼と、話があるのでディズレー枢機卿と共に至急皇宮に来てもらいたい。体調のことで相談があるから、と誰が見ても差し障りのない内容でしたためる。
(……私の体は、どうなっているんだろう?)
『変わり身の秘術』を実施したのかどうかさえも、ユレニアの憶測に過ぎない。
もし、想定したことが事実だったとしてもそうでなくても、とにかく大神官に会わないことには話が始まらない。
文を至急届けてほしいと頼んで、食事を一人で摂っていると、皇女宮に客が来たと侍女が伝えてきた。
「……あら、今日は誰とも会わないって言ったじゃない?」
眉を吊り上げて、ユレニアは侍女に詰め寄った。
そもそも、皇族の謁見時間は午前中に設定されているのに、日が暮れた時間に訪問してくるなんて失礼ではないか。
『薔薇の園』の美青年たちだって、アデウスのお陰で大人しく外で待機しているというのに。
「あの……ロベルシュタイン公爵閣下でございます。視察の任務を終えて帰還したので、ぜひとも皇女殿下にお会いしたい、と……」
侍女が言いよどむ理由は、ユレニアにもわかった。
先ほど、事情を知ったアデウスから、ルドヴィカ皇女の身近にいる人物たちの説明は受けた。
その中で、ウィルフリード・フォン・ロベルシュタイン公爵は皇女の初恋の相手であり、恋人と言える存在。
皇女が『薔薇の園』というハーレムを作ったのは、かつて公爵が他の女性と浮気をした腹いせではないか、と言われていることまで。
(そんな相手と、この時間に会うなんて……)
根っからの朝型人間で夜寝るのも早いユレニアと、夜型の宮廷貴族とは時間の感覚が違うのかもしれない。
舞踏会が始まる時間には、教皇庁の聖職者たちは全員就寝しているのだ。
(……まぁ……でも、いつか会わないといけない相手よね……)
困っている様子の侍女に根負けして、ユレニアはこう命じた。
「客間でお会いするから、お茶の用意を。それと、ゲーリング卿を呼んできてちょうだい」
ウィルフリード・フォン・ロベルシュタイン公爵は、黒髪に琥珀色の瞳を持つ長身の青年だ。
印象的なのは、軍人らしい筋肉質な体躯と浅黒く日焼けした精悍な顔立ち。その凛々しい容姿は、優男が多いこの宮殿で貴婦人たちにもてはやされるのもわかる気がする。
(まぁ……私の好みではないけれど)
ユレニアは公爵と対峙しながら、心の中でそう思う。
どちらかというと、ユレニアはロベルシュタイン公爵のような女慣れした雰囲気を持つ男は苦手である。さっきも、手の甲に唇を押し当てられながら上目遣いに見られて、ゾクリとしてしまった。
仕方がない……彼女の好みは、アデウスなのだ。
けっして金髪碧眼が好きというわけではない。金髪碧眼はハーレムにたくさんいるけれど、彼らに関しては何も感じない。
(……困ったわ。アデウス様、早く来てくれないかしら?)
そんな彼女の反応を、公爵は面白そうに観察している。
「それで……ロベルシュタイン公爵。こんな時間に何のお話でしょう?」
優雅な所作で紅茶を飲んでいた公爵に、ユレニアは尋ねる。
いささか冷淡な対応になってしまうのは、公爵の自分に対する態度が馴れ馴れしい感じがするからだろう。
「……いやに冷たい対応ですね、ルドヴィカ。あなたの体調が思わしくないと聞いて、公爵邸にも戻らずに会いに来たというのに」
まるで天鵞絨のような低くなめらかな声だが、ユレニアの堅くとざされた心の扉を開けることはなかった。
(えっ、皇女様を呼び捨てにするって……さすが恋人だわ! さて、私はどうするのが正解なのかしら?)
こんな時に、アデウスがいてくれたらどんなに心強いだろう。
答えを悩んでしまっている間に、公爵がユレニアが座っているソファーの隣に移ってきていた。
「なっ……公爵、近すぎますわっ!」
慌てて体を離そうとしたが、腕を彼に捕まれてしまう。
「何を言うかと思えば……あなたを抱いていても、ひどく遠く感じる時があるというのに、この距離が近いだなんて酷いことを言う人ですね」
「……っ!」
琥珀色の眼差しがまっすぐに向けられる。
公爵がつけている悩ましい麝香の香りが鼻腔をくすぐってくる。
それに誘われるユレニアではない……むしろ、怖気立ってきてしまう。
「ああ、美しいルドヴィカ……我が愛しの皇女よ。あなたを私だけのものにできたら、どれだけいいでしょう」
公爵の吐息さえも感じられそうな至近距離で囁かれて、思わず頭の中が真っ白になっていた。
(うぁー、ダメ! 私、好きじゃない男の人の密着はダメ!!)
ユレニアは泣きそうになってしまう。
戦場でアデウスに手を握られた時は、胸がドキドキしたのに。
もっと彼の声を聞きたくて、彼の体温の心地よさを感じていたくて……現実的にはそれもできるわけがなくて、ユレニアの恋心は激しく揺れ動いた。
その時に感じたのは、心ときめくような感覚。たしかに乙女心がくすぐられるような快い感情だった。
ところが、今は……ロベルシュタイン公爵に触れられても、なぜか嫌悪感しか覚えない。
自分が彼の恋人だという演技をしなければならないのはわかるし、公爵が美男だということはユレニアも認める。しかし、それとこれは話が別だった。
アデウスとは違って、公爵からは必要以上に「欲」の匂いがしてしまうからだろうか。
「どうしたのです? 震えているなんて……意外と可愛らしいところもあるんですね。ハーレムの男たちは抜きにして、今夜は私と本音で語り合いましょう……もちろん、寝室で」
耳元に囁かれて、鳥肌が立った。
(うぁー、どうしよう! な、なんか、さっきより距離が近づいてるしーっ!)
泣きそうに嫌だけれど、ここで拒絶したらルドヴィカではないことが露呈してしまう。
その危惧から、ユレニアは公爵の手を振り払うことをためらっていた。
しかし、強い力で抱き寄せられた瞬間、ユレニアは皇女のふりをすることをすっかり忘れて悲鳴をあげていた。
「きゃーっ!!」
部屋の外にいた者がそれを聞きつけたのか、客間の扉が勢いよく開く。
「皇女殿下! 何かございましたか!?」
衛兵たちの筆頭に立っているのは、アデウスだった。
彼の顔を見て、ユレニアは安堵のあまり泣き出してしまう。
「うぁーん! ゲーリング卿ぉーっ……!」
罰が悪そうな公爵の腕を振りほどいて、ユレニアはアデウスに駆け寄った。
彼女の肩を抱き寄せて、安心させるように彼は優しく言った。
「殿下……もう大丈夫ですよ。私が参りましたから、もう誰も殿下を傷つけることはできません」
さめざめと泣く彼女にハンカチを渡すと、アデウスは公爵を睨みつけた。
「ゲーリング卿、これは心外だな。誰が皇女殿下を傷つけると言うんだ!」
アデウスの言葉に片眉を上げ、公爵もソファーから立ち上がった。
「この状況で、あなた以外に誰がいるとおっしゃるんですか?」
「なにっ!?」
「……ロベルシュタイン公爵。かつての皇女殿下の恋人であろうと、今現在、殿下があなたを避けられているのであれば、私たちはあなたを敵と見なさねばなりません。今夜のところは、お引き取りを願いましょうか」
剣の柄に手をかけそうなところを、公爵はすんでのところで踏みとどまる。
「……没落貴族の末子の分際で生意気な! 皇族の寵愛を得て、宮廷でのし上がろうとでもしているのか?」
アデウスのことをせせら笑うと、公爵はそのままその場を立ち去っていった。
残された人々は、後味が悪そうな表情をしている。無論、ユレニアも自分のせいでアデウスが馬鹿にされたことに心を痛めていた。
「……ごめんなさい、ゲーリング卿。私のせいで、嫌な思いをしたでしょう?」
ようやく泣きやんだユレニアは、厳しい表情をしながら公爵の背を見送るアデウスに声をかけた。
「お気になさらず。そう言われるのを覚悟して都に参りましたから」
「……ゲーリング卿」
安心させるように微笑む彼に、ユレニアの胸の奥は甘く疼いた。
しかし、アデウスが仕えているのはルドヴィカなのだ……けっして、ユレニアではない。
体と心が一致しない奇妙な状況は、いずれ大神官がここにやってきたら解消されるだろう。
(いいよね……今だけだもの)
ユレニアは心密かにそう思った。
田舎の聖女と首都の皇宮にいる近衛兵−−この状況でなければ関わることがない二人でもあった。
こうして皇女でいられる状況は、アデウスに想いを募らせるユレニアにとって悪いものではないように思えてきた。
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