第2話 聖女の戸惑い2
アデウスとの庭園散策で得られた情報は、記憶の欠落の大半を埋めてくれた。
ラスター王国との戦争は、三ヶ月前に終わったらしい。兵士たちはもちろんのこと、後方支援の異能者たちが倒れる激戦を懸念したヴェルグ帝国は、皇女ルドヴィカが敵国との停戦交渉に赴き、国境沿いの領地を一部割譲しラスター王国からの輸入品を増やすことや、関税を引き下げることなど大幅な譲歩をすることになった。
……要は、ヴェルグ帝国は戦争に負けたのだ。
「そうなのですね……」
美しい庭園を歩きながら、ユレニアは戦地の惨状を思い出した。
負けてよかったのかもしれない。
領地の割譲など、この広大で肥沃な土地を持つヴェルグ帝国には大したことではないだろう。あれ以上の犠牲を払って、戦争を長引かせる意味がユレニアにはわからない。
異能者が倒れたことへの危機感が戦争を終結させるきっかけになったのなら、喜ばしいことだと思う。
ヴェルグ帝国の皇族は、神聖力を持つと言われている。ルドヴィカ皇女も、ユレニアと同じような異能を持つ。
万が一、教皇庁に十分な数の異能者がいなくなれば、何かあった場合にはヴェルグ帝国の皇族が力を貸さねばならない取り決めがあるはず。
しかし、国を治める役割を持つ皇族が倒れるわけにはいかないから、不利な戦争には見切りをつけたほうがいい。
そう思ったとしたら、ずいぶんと勝手なものだと思う。
いずれにせよ、あれ以上の被害があれば兵士だけではなく一般市民や女子供が犠牲になる。前線の兵士が亡くなるのは悲劇だが、彼らは自分の家族たちを守るために命をかけて戦っているのだ。
だから、国内に残っている彼らの家族が犠牲になることは避けねばならない。
(そもそも、戦争なんてしなければよかったのに……)
そう苛立つ様子を見せるユレニアを、アデウスは心配そうに見つめた。
「……その停戦協議後にお命を狙われたことについても、お忘れでいらっしゃいますか?」
「命を狙われた……わたくしが?」
ユレニアの驚きを見て、彼は説明を付け加えてくる。
「やはり……大神官様と枢機卿様が全力を尽くして、お体の回復はされたようですが、もしかしたら記憶に障害が残るかもしれないと言っていました」
「枢機卿様って……ディズレー枢機卿様かしら?」
「ええ、その通りです。よくご存じでいらっしゃいますね」
感嘆するようなアデウスに、ユレニアはゆっくりと頷いた。
大体の経緯はわかった。
ルドヴィカ皇女は、瀕死の重傷を負った。その怪我を治したディズレー枢機卿を、ユレニアは知っている。
かつて、ユレニアに神聖力の使い方を教えてくれたのが彼だったからだ。
ディズレー枢機卿は、教皇庁の中で最も古代の秘儀に詳しいとされている。
聖女であるユレニアが意識を失ったのが一年前、神聖力を持つルドヴィカが三ヶ月前に重症を負ったことで考えられることは一つ。
それは、「変わり身の秘術」を使うことだ。
意識不明の人間が二人いた場合にのみ使える術式で、互いの肉体と精神を一時期交換することで二人とも命を助ける、限られた者しか行えない秘術である。
条件として互いに神聖力があること、そしてそのレベルが同等でなければむずかしいため、過去に行われた事例は数少ない。
ユレニアも、聖女教育の一環で古い書物で読んだだけだ。
しかし、こうしてルドヴィカの体にユレニアの心が入っているなら、枢機卿が秘術を用いて二人を交換させのではないかと推測できる。
(……ってことは、皇女様がいま私の体に入り込んでいるの?)
そう考えると、あちらも戸惑っているだろうと想像できる。彼女が教皇庁にいて大神官や枢機卿が近くにいるのであれば、早く何とかしろと怒っているに違いない。
自分はどうするべきなのか、ユレニアは思い悩んだ。
さっきまで、この場所から逃げて辺境に戻ることばかり考えていたが、相手が動いてくるのを待つほうが無難かもしれない。
皇女という立場がある人間が、首都からいなくなるのはいかがなものか。それを考慮すると、しばらくはこのまま静かにしているのが一番だ。
助けが来るまで時間をやり過ごすためには、一人だけでも心強い味方を作らねばならない。そして、それに適した人物は、いま目の前にいる。
(……そうよ。アデウス様しか、私にはいないんだわ!)
頬を赤らめながら、ユレニアは両手を握りしめた。
聖女は修道女とは違う。恋愛も結婚も禁止されているわけではない。
家族のぬくもりを知らないユレニアは、一生独身でいいと思っていた。しかし、戦場でアデウスに出会った時に、ほんのりと甘い気持ちを知ってしまったのだ。
(もしかして、これが恋っていうものなのかしら?)
そう思ったのが、まるでつい昨日のことのよう−−。
老人に病人……職業柄、生気がない人に力を与える役割をしてきたユレニアは、戦場での治癒を担務するようになって驚いたことがある。
それまで、死はゆっくりやってくるもので、ユレニアの治癒力で生命力を蘇らせることは容易にできるものと思っていた。
しかし、戦争は若者の命をたやすく奪っていく。
急速に失われる命の灯を消さないようにするには、膨大な量の神聖力が必要になる。
比較的軽い傷の手当は修道女たちに任せ、神官たちと手分けして救命活動をしていたが、ユレニアは周りに気を遣わせないように無理をしていた。
顔色を隠すために薄い色のヴェールを被って休憩をしている時だった……アデウスがやってきたのは。
「すみません、彼を診てやってもらえませんか?」
彼が肩を貸している黒髪の青年は頭から血を流し、顔にはまったく生気がない。
誰がどう見ても、死神に魅入られている人間の姿である。
待合を抜けて、治療のためのエリアに割り込んできた彼らに、下級の神官が声を荒げた。
「聖女様は、異能を発揮できるよう休憩されているのだ! 順番を待てないっていうのか!?」
怒りを露わにする神官に、アデウスは頭を下げる。
「申し訳ない……しかし、優秀な部下を見殺しにするわけにはいかないのだ」
「死にそうなのは、みな同じだ!」
たしかに、神官の言うことにも一理ある。
ただ、ユレニアにはアデウスの気持ちが痛いほど伝わってきた。彼が連れてきた部下は、まだ少年とも言えるような年代に見えた。
辺境騎士団の制服を着ているから、将来を嘱望された騎士なのだろう。
すでに何人もの重傷を負った兵士を助け、体力は限界を越えていた。しかし、多少の無理をしてでも助けねばならないと思った。
「わかりました、私が診ましょう……その方を、そちらに寝かせてください」
「ありがとうございます、聖女様!」
ほっとした様子のアデウスを見て、ユレニアはヴェールの奥の頬を火照らせた。
なぜだかわからない……初めて会った男性に、こんなに心を揺さぶられる理由は。
アデウスが金髪碧眼の美男子で、部下を思う心も好ましいと思ったからなのか。それとも、ただ聖女として傷ついた者を放っておけないだけなのか。
いずれにしても、神の力を分け与えられている自分が、神を信じる者たちを助けるのは当然のことだった。
ユレニアは目を閉じて、右手を黒髪の青年の傷口に翳す。
金色の光が彼を包み込み、体中から流れ出ていた血が止まった。そして、見る見る間に土気色だった顔色に血色が戻ってくる。
「……これでいいでしょう。あとは安静にしていれば、きっと回復していくはずです」
「ありがとうございます……! このご恩は、一生忘れません! 平和になったら、ぜひ改めてお礼をさせてください」
がっしりと手を取られて、じっと顔を見つめられる。
ただ美しいと思っていた彼の顔が、顎のラインが意外としっかりしていることや、まっすぐに向けられる瞳が深い青緑色だということ……そんな些細な発見が、ユレニアの心臓の鼓動を速くさせる。
「あ、あの……手を……」
頬を赤く染めて彼女が恥じらいを見せると、アデウスは頭を下げた。
「申し訳ございません、聖女様!」
「……お気になさらないで。お礼でしたら、結構ですわ。私たちは皇室からの要請で動いているだけ。傷ついた方を助けるのは、異能を授かった者の義務ですもの」
「いえ、それでは自分の気が収まりません。私は、アデウス・フォン・ゲーリング少佐。辺境騎士団の第二連隊長です」
「アデウス様……」
その名を口にするだけで、ユレニアは幸せな気持ちになった。
そんな彼女を見て、アデウスもうれしそうに微笑みかけた。
「はい。もし今後、聖女様に助けが必要になったら、全力でお助けいたします! この戦いが終わったら、私にその機会をいただけたら光栄です」
「……ありがとうございます。アデウス様」
礼を言いながら、涙ぐみそうになる。
今後、そんなことがあるなど、ユレニアは思っていなかったが、彼の気持ちはこの上なくうれしいものだった。
貴族出身の軍人と、孤児の聖女が今後関わり合うことがないとしても−−。
そう……あの時のユレニアは、そう思っていたのだ。
(もしかして、今が助けてもらうチャンスじゃない……?)
不意に、ユレニアはそう思った。
自分の中の生存本能が、アデウスに縋れと忠告している気がする。この宮殿の中で唯一の知り合いに協力を求めずに、この危機をやり過ごすことはできない、と。
男性に免疫がない彼女が『薔薇の園』とかいう謎のハーレムに居続けたり、皇女のふりをし続けたりすることは土台無理な話である。
(とりあえず、寝るときに裸の男がベッドの中にいる状態はどうにかしないと!)
今朝の衝撃的な目覚めを思い出す。あれが毎日続いたら、せっかく長い眠りから覚めたというのに安眠を妨げられるだろう。
辺境に戻るにも聖女としての任務を遂行するにも、体力と精神力は必要だ。とにかく、皇女という立場を利用して十分に休養をとり、時機に備えなければならない。
その一心で、ユレニアはアデウスに向き直った。
「あの……お願いがあるんですが……!」
「何でございましょう? 何か『薔薇の園』の兵士たちに問題でもございましたか?」
護衛騎士とあって、さすがに勘が鋭い。
「……寝室に男性がいるのは落ち着かなくて……護衛が目的でしたら、衛兵の配置は寝室の外でお願いできないものでしょうか?」
困惑した様子のユレニアに、アデウスは目を丸くした。
「記憶喪失になると、ここまで人が変わるものなのか……」
そう独り言を漏らすほどだった。
それを聞いて、ユレニアは慌てふためく。
(あら、不自然だった!? だって、ふつうに考えて落ち着かないじゃない!)
そんな彼女の狼狽を眺めながら、アデウスは咳払いをした。
「いえ……あれは以前、殿下が作られた規則でして……」
「規則?」
「『薔薇の園』の兵士は、宿直時には殿下の閨に侍る、という……」
「……!!」
「もし、あの規則を撤回されるのでしたら、今夜からはご命令通りに外で待機させるようにいたします。ご安心ください」
顔を真っ赤にして俯くユレニアに、彼は頷いた。
「……よかったわ。これからも、ご相談いたします、アデウス様」
ほっとした面持ちでそう言うと、なぜかアデウスは苦笑いしている。
「恐れながら、皇女殿下。私からもお願いがございます」
「何でしょう?」
「その……私のことは、様づけで呼ぶのはお止めください。呼び捨てだと慣れ慣れしいとおっしゃるのであれば、公式行事の時のようにゲーリング卿とでも呼んでいただけましたらありがたいのですが」
「あ、そうなの!? じ、じゃあ、これからはゲーリング卿とお呼びするわ!」
「ありがとうございます」
陽光を浴びて爽やかに微笑む彼の金髪はきらきらと輝いて、その面立ちは神々しいまでに美しかった。
(皇女様も、彼を気に入ってここに呼んだのよね……もしかして、彼も皇女様の寝台に侍ったりしたのかしら……?)
なぜか想像するだけで、胸がチクチクと痛くなる。
自分らしくない心の揺れに、ユレニアは戸惑いを覚えていた。
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