桜の絨毯

寿甘

桜舞う道

 そろそろ春という季節にも慣れ、雨の多い季節がやってこようとする時期に、ほんの一日か二日だけ見られる風景がある。


 それがこの町の名物、桜の絨毯じゅうたんだ。


 道の両側にずらっと並んだ桜の木は、花が咲くと多くの花見客が訪れ、花が散るとこうやって道路を薄いピンクに染める。花見は数日から一週間以上できるが、この桜の絨毯はすぐに踏み潰され、風に飛ばされたり雨に流されたりして消えていく。鑑賞できる期間が短ければ短いほど、人は貴重な瞬間だと喜んで記憶に残そうとするのだ。


 俺は、この桜の絨毯が大嫌いだった。


 今年も俺は、この大嫌いな桜の絨毯を見にこの道にやってくる。


 大嫌いなのに、どうしても忘れることのできない場所。


 大嫌いだから、今年もちゃんと絨毯が出来ているか確認せずにいられない場所。


「おはよう、今年も来たね!」


 朝早く、まだ誰にも踏み荒らされていない時間を狙ってこの道にやってきた俺を、彼女は笑顔で出迎えた。


「ああ」


 人懐こい笑みを浮かべる彼女と対照的に、俺はぶっきらぼうな返事をする。


「ふふ、相変わらずだね」


「君ほどじゃない」


 そう、彼女は変わらない。変わるはずがないんだ。


――あれは、俺がまだ小学生だった頃。よく遊んでくれるお姉さんがいた。


 彼女はこの道沿いに住んでいて、俺は親に連れられて桜の花を見に来ていた。


「どうしたの? お父さんかお母さんとはぐれちゃったの?」


 その時、俺は親とはぐれて迷子になっていた。たぶん泣いていたと思う。そんな俺に気付いた彼女は、手をつないで交番に連れていってくれた。


「お名前は?」


陽向ひなた舞桜まおです!」


「いや、あなたの名前じゃなくて、この子の名前ね」


 俺の名を聞く警察官に、自分の名前を名乗る彼女がおかしくて、つい笑ってしまった。


 それから、俺は時々この道にやってきては彼女に話しかけた。彼女はよく桜の木の下で音楽を聴いていて、作曲家のことなんかをよく教えてくれた。俺はその話があまり理解できなかったが、彼女と話が出来れば何でもよかった。とても分かりやすい初恋だったと思う。


 一年の時が過ぎ、また桜の季節がやってきた。彼女は俺に桜の絨毯のことを教えてくれて、二人で見る約束をしたのだった。


「綺麗でしょー!」


 まだ人の姿もまばらな早朝に、桜の絨毯を二人で歩く。俺はピンクに染まる道の上を軽やかに歩く彼女の幻想的な美しさに見惚れて、ただ「うん」とだけしか返すことができなかった。彼女も普段と比べて言葉少なで、二人して静かに道を進む。


 しばらくして、彼女がポツリと言った。


「……ごめんね、もう一緒に音楽を聴けないんだ」


 彼女はその日に遠くへ引っ越すのだと言う。音楽の勉強をするために、遠い海の向こうへと行くのだと。


 その後のことはあまりよく覚えていない。気が付いたら、俺は彼女に貰った音楽のCDを抱えて家で泣いていた。




 あれからもう何年経っただろうか? あの頃は見上げていた彼女の姿を、俺は見下ろしている。


 そう、目の前に立つこの『陽向舞桜さん』は単なる俺の妄想の産物だ。何故かあれ以来、一年に一度だけ桜の絨毯が生まれる日にここで彼女の幻に会うことが出来るようになってしまった。我ながら気持ち悪いと思う。


 それでも、あの一年間が俺に与えてくれたものは大きい。あれから俺はフルートを始めた。音楽を始めれば彼女とまた会えると思ったわけではないが、幸せな記憶を風化させたくなかったのだ。


 彼女に貰ったCDに収録されていた曲を吹けるようになってからは、あの桜の下で毎年この日に演奏している。妄想の舞桜さんは毎年それを聞いて拍手をした後、消えていくのだ。


「いつも素敵な演奏をありがとう! でも、それも今年で終わりだね」


「えっ?」


 演奏が終わると、彼女が思いがけない言葉を発した。彼女は俺の妄想のはずなのに、なんでそんなことを言いだしたのだろうか?


「私はもう、必要ないから……ほら、あっち」


 彼女が指さす方向を見る。と、そこには俺と同じぐらいの年代の女の子がいて、俺に向かって笑顔で近づいてくる。


「素敵な曲ですね! お一人ですか?」


 そう問われ、思わず舞桜さんのいた場所を見た。だが、そこにはもう誰もいない。


「……ああ、そうだよ」


 遅れて落ちた桜の花びらが宙を舞う。


 なぜだか、大嫌いだったこの桜の絨毯を好きになれそうな予感がした。

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桜の絨毯 寿甘 @aderans

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