きみが竜に戻るまで

碧衣 奈美

第1話 傷付いた竜

 春もそろそろ終わろうか、という晴れた日。

 真っ青な空に、雲はほとんど見当たらない。時間は、人々が昼食の用意を始めている頃、だろうか。

 ルシーダは、ポプロの森上空をのんびりと飛行していた。

 白銀の、竜としてはまだそんなに大きくない身体が、太陽の光を受けてきらめく。

 その風竜は、森の上を流れる風に身をまかせていた。目的地がある訳ではないので、こうして暖かくゆったりとした風と一つになるのも自由だ。

 この森から感じる空気は気持ちがいい。だから、森の上を流れる風も、こんなに気持ちよく感じるのだろう。

 見上げれば青。見下ろせば緑。

 濃い緑がきれい。ちょっと森の中へ降りてみよっかなー。木漏れ日の中をのんびり歩くのも、気分が変わっていいかもね。

 そう考えた時だった。

 何かがキラリと光った気がする。それが自分のいる方向へと飛んで来た……と気付いた。

 ルシーダは、無意識のうちにそれを避けようとして身体をそらす。だが、完全にはそらし切れず、左腕……肩に近い辺りに、熱さと痛みが走った。

 いったーい。な、何? 今の、矢だったの? 魔法の攻撃じゃなかったみたいだけど。

 すでにはるか遠くへ飛び去り、自分を傷付けた正体を見極めることはもうできない。

 今の、どこから? あ、木がまばらな所がある。あの辺りから?

 のんびり飛行していて、周囲をまるで警戒していなかった。完全に隙を突かれた形だ。まさか、森の中から矢を放たれるとは思っていなかった。

 離れなきゃ。さっきの場所から、少しでも遠くへ。

 森の獣を狩っていて、何をどうやったのか、たまたま矢が空へ飛んでしまった……というのならいい。

 だが、意図的に狙われたのであれば、矢を放った相手は必ず追って来ようとするはずだ。

 ……今の矢を放った「人間」が近くにいる。

 ルシーダは矢を受けた場所から急いで離れようとするが、片腕に負った傷のためにバランスを崩す。身体に受ける風がアンバランスになり、どんどん降下しだした。

 今までに経験したことのない形での落下は、やけにスピードが速く、恐怖を感じる。

 体勢を立て直そうにも、森の木々がすぐそこまで迫っていた。

 もう少し高度があれば何とかなったが、今の位置では宙でもがくことによって木々を傷付けてしまう。たとえ上の枝葉部分だけであっても、木にとっては大きなダメージとなりかねない。

 自分の身体が枝で貫かれることはないだろうが、当たり具合や場所によっては無傷では済まないだろう。

 すぐに「このままでは駄目だ」と判断したルシーダは、落ちながら人の姿になった。

 これなら、木を折ったとしても枝数本で済むはず。木そのものを倒してしまうことはないだろう。

 竜のままでは、落ちた場所をはっきり知らしめてしまう。

 矢を放った人間に。

 落ちた時の音が小さくなれば、竜のままでいるよりは見付かりにくくなるはずだ。

 具体的にそう考えた訳ではないが、ルシーダは「とにかく竜のままでは危険だ」と本能的に姿を変えていた。その後のことは、それからだ。

 少女の姿になったルシーダの身体を木々達が枝で止めてくれたおかげで、地面と激突することは避けられた。

 それでも、この姿での墜落は、本性が竜であっても堪える。

 人間の姿になることで自然に現れる服は、襟が少し大きめの白いシャツに膝下まである薄茶色のスカート。

 こういう格好なら、素朴な村娘風に見えて目立たないと教えられたが、左腕の部分が見ている間に赤く染まった。

 格好がどうでも、この状態は絶対目立ってしまう。長いプラチナブロンドの髪で隠そうとしても、限界があった。

 とにかく、少しでも遠くへ……ここから離れなきゃ。

 ルシーダは痛みに顔をしかめながら何とか立ち上がると、矢が飛んで来たと思われる方とは逆の方へと歩き出す。

 さっきの、ドラゴンハンターって奴の仕業かしら。本当にいたんだ……。それにしたって、どうしてここで遭遇しちゃうのよぉ、もうっ。

 魔力が強く、大きな身体の竜を多くの人間は敬愛している。その姿を、生き物の中で一番美しい、と賞賛する人間もいるようだ。

 一方で、竜を付け狙う「ドラゴンハンター」と呼ばれる人間がいることも事実。

 竜の身体……肉、血、皮、骨、牙、爪、瞳など、人間はそれぞれの部位を高値で取り引きするらしい。

 もちろん、そういうことをするのは、ほんの一握りの人間だ。数はそんなに多くないらしい。ドラゴンハンターをきどる「もどき」な人間がほとんど。

 しかし、ルシーダはこの旅に出る前、そういう人間がいるから気を付けるように、と言われた。

 成長した竜は、身体も魔力も強くなるのでほとんど狙われないが、子どもは心身ともに未熟なので狙われやすい。

 幼ければ近くに親がいるので安全だが、おとなでもなく、子どもでもない竜が一番危ないのだ。

 保護者となる強い竜が近くにおらず、強さが足りないのに単身で行動しているルシーダのような竜が特に。

 それでも、ドラゴンハンターに遭遇する確率は低い。そう聞いていたのに。

「いっ……たい……」

 鉄は苦手だ。職人の腕や鍛え方によっては、おとなの竜だって鉄の凶器で傷付けられる。まして、ルシーダはまだ成長途中で弱い。

 さっきの矢はかすった程度に思えたが、それでも強い痛みが左の腕と肩に広がっていた。

 一旦立ち止まって傷をふさごうとするが、うまくいかない。

 治癒魔法は苦手ではなかったが、あまり使うことがないから慣れてなかった。そのせいで、できないのだろうか。

「あ……れ?」

 目の前がくらくらする。客観的に自分を見られた訳ではないが、よたよたした歩き方をしている、という自覚は何となくあった。

 こんなふうになる程、血を流したはずはない。今歩いて来た方を振り返ったが、血の跡はなかった。かろうじて、服に染み込んでいる程度でとどまっている。したたるまでには至らない。

 それを見てほっとしたものの、今度こそ力が抜けてしまい、ルシーダはその場に座り込んでしまう。

 やだ、立てない。どうしよう。この姿だからドラゴンハンターに見付かったとしても、いきなり殺されるってことはないだろうけど……竜ってばれたら、それまでよね。

 気持ちは焦るが、身体は動いてくれない。

 うそでしょお。あたし、まだ旅に出てから半年くらいしか経ってないのに……。

 泣きたい気持ちになりながら、ルシーダはそのまま倒れてしまった。

☆☆☆

 グラージオは、小鳥達の鳴き方に少し不安を覚えていた。

 森へ入れば、小鳥をはじめとした小動物がいるのはごく普通のことだろう。

 現れた人間を警戒し、仲間に危険を知らせるために鳴くことだってあるかも知れない。

 でも、この辺りは人間が通れるように、一本の道が通っている。ちゃんとした舗装はされていないものの、森を抜けて街や村へ行けるようになっているのだ。

 つまり、彼らにとって人間はそうそう珍しいものではないはず。

 グラージオが猟師の格好をしているなら、狩りの対象にされると警戒されても仕方ないが、彼は弓などの凶器となりえる物は持っていない。

 伸縮性のある、少し汚れた白のシャツにやや濃いベージュのベスト。同じく伸縮性のある丈夫な黒のズボンという、ごくごくありふれた旅装束である。

 マントもあるが、今は荷物の中だ。春もそろそろ終わろうか、という季節なので、これくらいの格好が今はちょうどいい。鳥達に警戒される姿ではない……はず。

 ものすごーく騒いでいるように聞こえるけど、もしかしてこの辺りの鳥はこういう鳴き方をするのかな。それとも……人間を狙った魔物が、近くに来ているとか。

 魔物がいるなら、その異様な空気に反応して鳥が騒ぐ、というのもわかる。

 だが、それならそれで、こちらもそれなりに警戒しなければならない。

 グラージオは新人レベルだが魔法使いなので、魔物が現れれば普通の人よりまともな対処はできる。

 でも、現れないに越したことはない。

 余計なやりとりはしたくないし、命の危険に直面したくないのは、魔法使いも同じ。

 魔物が現れるのは、森の中でももっと奥の方、という場合が多いが、何にでも例外はあるもの。と言うか、人間を狙って現れる魔物は、森でなくてもたくさんいる。

 ここで現れるにしても、力自慢な魔物でないことを祈るばかりだ。お互いの平和のために。

 グラージオがそちらを向いたのは、偶然だった。

 もしかしたら、何かが彼を呼んだのかも知れないが、本人は本当に何となくで首を動かした。

「え……あ、大変だ」

 グラージオの目に飛び込んできたのは、倒れている人だった。

 プラチナブロンドの髪は長いし、その顔や身体付きからして女性。服の模様でなければ、赤いものは血だ。左の二の腕が染まっている。

 やはり魔物が現れたのだろうか。彼女が襲われ、だから鳥達が騒いでいたのか。手足はあるようだし、喰われたようには見えないが、まだ生きているだろうか。

 そんなことを考えながら、グラージオは急いでそちらへ走った。

 そばまで来ると、仰向けに倒れている女性の口元に手をかざす。かすかに息が当たるし、見ていると胸元もかすかに上下しているのがわかった。

「よかった……生きてる。きみ、しっかりして」

 グラージオは女性の頬を軽くぴたぴたと叩くが、相手は意識を失ったままだ。

 赤く見えたのは、やはり血。近付くと、臭いでわかった。ぬれているのは、出血が始まって時間が経っていないのか、出血が止まらないからか。

 とにかく、傷があって出血しているなら、まずはそれを治すべきだろう。

 グラージオは意識のない女性に「勝手なことするけど、ごめんね」と謝ってから、左の袖を魔法で燃やした。

 そのままでは治療がしにくいし、かと言って意識のない女性の服を脱がせる訳にはいかない。

 服を切れるような刃物は荷物の中に紛れているし、それなら魔法でやった方が取り出すより早くて確実。

「……魔物じゃないのか」

 血で汚れた傷口を見る限り、魔物の噛み跡ではない。木の枝で傷付けた訳でもなさそうだ。

 となると、刃物のたぐいだろうか。とにかく、自然についたものではない。

 左腕にある傷以外にも、小さな傷は手や足にたくさんあった。それは何かでひっかいたような傷。わずかに血がにじんでいるが、大きな傷はその左腕のものだけだ。

 とにかく、事情は後で聞けばいい。

 グラージオは治癒魔法の呪文を唱え、その傷をふさいだ。

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