べとべとさんの足跡

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べとべとさんの足跡

 街の喧騒が落ち着きを見せ始め、静寂が店の周りに広がっていた。

 黒い空の下に、コンビニの看板は淡い光を放ちどこか寂しく見えるのは、人通りが少なくなっていく時間帯だからだろうか。

 そんなコンビニに一人の少女が、店内へと入って行く。

 ショートヘアの少女。

 気さくなボーイッシュな雰囲気は、さわやかな印象がある。

 青空を見上げ時に感じる、その快いさまは清々しく、それが明度となって輝いている。

 見方によっては童心を持った男の子のような様子もあるが、イタズラっぽく笑った時に覗く八重歯は、子猫のような愛らしさがある。

 やんちゃで元気な様子が魅力的な少女であった。

 名前を日下くさか由貴ゆきと言った。

 ハーフパンツにTシャツのラフな出で立ちだ。

 由貴は店内に入ってすぐに、コピー機の近くに少年が居ることに気づいた。

 やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。

 小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。

 これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ……でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 名前を佐京さきょう光希こうきと言った。

 カーゴパンツにシャツジャケットを羽織り、どこか野暮ったい恰好。

 性格も外見も、地味で真面目そうな少年だった。

「「あ」」

 それは、二人が同時に漏れた声。

 お互いに目があって、お互いの存在を認識した。

 光希は、視線を反らして苦手意識が表情に出るのを防いだつもりだが、由貴は喜々として近づいていく。

「光希やないか。こんなとこで何しとるんや?」

 嬉しそうに近づき、親しげに声をかけ何をしているのかとコピー機を覗き込んで続ける。

「あれか。エッチな雑誌をコピーしとるんか」

 そして、由貴は光希をからかうように微笑む。

「中学生は、そんなもの買えないよ。これは、授業ノートのコピー」

 光希は、親しげに話しかけてくる由貴のデリカシーの無さに、苛立ちを感じたが、言葉遣いを直すために深呼吸をして気持ちを整えた。

 由貴とはクラスメイトであり友人ではあるが、彼女のテンションの高さに光希は、疲れていた。

「なんや。てっきり、水着グラビアをコピーしとると思っとったのに」

 由貴は残念そうに肩を落とす。

 光希は、ため息が出るのを堪えた。

「そういう由貴は、こんな時間に何しに来たんだい?」

 光希はコピーしたノートを手提げ袋にしまいながら、由貴に訊く。

 由貴は待ってましたとばかりに表情を明るくし、答える。

「ウチか。お好み焼き作っとたら、ソースが足らんくなってな。コンビニまで買い出しに来たんや」

 由貴は答えると、食品棚へと行きお好み焼きソースを手にして会計を済ませた。

 奇妙な縁に、光希は微笑んでしまう。彼は帰り支度を始め、店から出ようとした。

 すると、由貴がいいタイミングで追いつく。

「水臭いな。途中まで、一緒に帰ろうや」

 由貴は光希を引き止めるようなセリフを言う。

「僕の家は、由貴の家とは反対方向だよ」

 光希は、やんわり断る。

 由貴はつまらなさそうに頬を膨らませて、不機嫌な表情になり訴えるように言葉を返す。それは不満を訴える子供の表情のようでもあった。

「ええやないか。それでも途中まで道は一緒や。ウチら友達やろ」

 由貴の無邪気な抗議に、光希は諦めて微笑んでしまった。

 そして、頷くしかなかった。

「分かった」

 光希は、由貴の言葉に素直に喜んだ。


 ◆


 帰り道の二人。

 光希は右側に由貴の存在を置いて、由貴は左側に光希を置く形で歩く。

 相変わらず空は重い色を広げ、人のいない通りを街灯が寂しく照らしている。

 そんな淋しい景色の中にあって、明るく華やかで気さくな由貴の存在は気持ちが和み前向きになるような気がしていた。

 実際、まんざらでもない気分になっている自分自身がいると光希は感じている。

「ところで、光希は、なんでこんな所でコピーしとったんや?」

 由貴は訊いた。

「近くのコンビニでのコピー機が故障中だったんだよ」

 光希は理由を簡素に説明した。

 由貴は、そんな答えにつまらなさそうな顔を浮かべた。

「何や。偶然を装った必然かと思ったわ」

「なぜ」

 光希は、げんなりした気持ちで言葉を出す。

 由貴は、予想した通りの反応を受け、楽しそうに微笑んだ。

「ウチに会いとうて」

 それに光希は呆れてしまうが、こんな冗談を言えて由貴と笑い合える関係を嬉しく思っていた。

 二人は門派(流派)こそ違えど、武術ウーシュー(中国武術)を通した縁がある。互いに組手をして修行をする仲でもあった。

 武術ウーシューをしているだけあってか、考え方や好みなども似ているところがあったりするのでよく話が弾むのだ。

 普通の人なら歯牙にもかけないようなやり取りを、二人は気楽に楽しんでいた。

 そんな会話を楽しんでいるうちに由貴は、妙な噂話を口にし始めた。

「知っとるか光希。最近、この辺でらしいで」

 由貴は、まるで怪談話を語るように話す。

 しかし光希には、その話の趣旨が分からず首を傾げる。

「出る?」

 その反応を見て、由貴は話を続けた。

 聞き上手な光希を気遣って、語りたい由貴の感情が先に出てしまっているようだ。

 どこか早口で興奮気味だ。

「決まっとるやないか、変質者や。変質者がおるんや」

 由貴は、一段と興奮気味になる。

「一人暮らしのOLが、残業で疲れて帰宅していると、後ろから足音がするんやて……」

 由貴は身振り手振りを混ぜながら話すので、思わず光希も想像してしまう。

 落ち着いた口調だがどこかコミカルな動作を見せることで、よりイメージが具体的になり臨場感が増してくる。

それは恐怖心を煽っていた。

「変質者って。まさか……」

 光希は周囲を見る。

 住宅地から少し離れた小道は、夜になると静まり返り、街灯の明かりがその周りを柔らかく照らしていた。ここには住宅の静寂とは異なる雰囲気が漂っており、壁には落書きが見られた。

 暗闇の中、路地の壁面には様々な色のスプレーペイントで描かれた文字や絵が乱雑に広がっていた。一部は派手なアーティスティックな落書きがあった。

 景観を壊す落書きは、見過ごせないものがある。それは現実に、人の心の暗さを形にしたような不穏さを感じさせた。

 の存在を示唆するような不気味な気配があるのだ。

 そんな殺伐とした雰囲気を感じてしまうと、光希は不安な気持ちに襲われてしまうのだった。

 光希の表情を見て由貴は満足げに笑う。

「変質者、上等やないか。遠慮せんでギッタンギッタンにできるやんか」

 そして、由貴は力強く掌に拳を打ち付ける。

 常日頃から武術ウーシューの鍛錬をしているからこそ、その本領を発揮できるチャンスに興奮しているのだ。

 光希は、その勢いと意気込みを見て、元気だなと思った。

「危険に遭遇するよりも、遭遇しないで済む方がいいよ」

 光希は穏やかに答えると、由貴は残念そうにがっかりする。そんな彼に由貴は詰め寄る。

「あんな光希。なんで武術ウーシューしとるねん。強くなる為やろ。その為には。使わな意味ないやん」

 由貴の指摘は、的を射ていた。

 その勢いに光希は押されながら苦笑いしてしまうが、彼女の気持ちに共感する部分もあった。

 武術ウーシューをしているからこそ分かる感覚の共有だ。

 筋力も体力もない人は、暴力に対して救えないという現実があるからだ。眼の前にある危機に際して、六法全書は役立たずであり、警察を呼んだところですぐに駆けつけてくれる訳でない。

 危機的状況に陥った時、助ける身となるのは自分自身しかいない。不当な暴力に対し弱者を守る力となるのが武術だ。本を読み、鍛錬を積んで知識だけ蓄積しても、それはただの机上論でしかない。

 実際に戦えない武術では何もできない。

 だからこそ、実戦の経験こそ大切だと二人は知っているのだ。

 そして、実戦でしか掴めない感覚。

 戦うことで、生き残るために必要な術が磨かれていくことも知っている。

 だから由貴は、実戦での勘や感覚が鋭くなっていた。

 光希も、その考え方には同意できるものがある。それに自分自身もまた、戦うことで身に付くものを感じているからだ。

 由貴は、光希に同意を求めるように詰め寄った。

「ウチらには《力》があるんや。こんな時こそ使わな」

 由貴は嬉しそうに不敵な笑みを浮かべていた。

「そうだね。人を困らせる存在がいるなら……」

 光希は、そこで言葉を止め、足を止める。

 言葉を途中で切られたことで、由貴も足を止め首を傾げて光希を見つめた。

「なんや?」

 光希は、複雑そうな表情を浮かべていた。そんな彼の表情を見て由貴は不思議に思い尋ねる。

 それに対し光希は、人差し指を口の前で立てる。

 静かに。

 というジェスチャーをした。

 耳を澄ますと、後ろの暗闇から妙な音が聞こえてきた。

 それは何かを踏む音だった。

 アスファルトを踏むスニーカーや革靴といった乾いた音ではない。まるで、ずぶ濡れの雑巾を踏み潰すような湿った音だ。

 耳に神経を集中させると、その音は不規則なリズムで繰り返し鳴り響いていることが分かる。

 不気味な空気を肌で感じるように、二人は背筋に冷たいものを感じていた。

「な、なんや。これ?」

 由貴は、声を震わせて言った。

 光希は肩越しに背後の道を覗く。

 暗夜と闇に覆われた道は、異界への入口のようでもあった。そこに、がいる。

 それが二人にとっては恐怖となって襲いかかる。

 しかし、光希は、その影の正体を捉えていた。の放つ異質な空気を感じとっていたからだ。

「……由貴。あれは人間でもなければ、変質者でもないよ」

 光希は、影の正体を口にした。

「何やねん。怪異か?」

 由貴は、すがるように光希に訊いた。

 光希の口調から察するに、ただの存在ではないようだ。

 そう感じたからこそ由貴も真剣に尋ねるのだ。彼女の心中には怪異に対する恐怖もあるだろうが、それとは別に光希が、あの影の正体を知っているのではないか。という好奇心もあった。

「べとべとさん、だよ」

 光希は答えた。


【べとべとさん】

 夜道を歩く人間の後をつけてくる妖怪。

 奈良県宇陀郡では暗い夜道で遭うといい、静岡県では小山を降りてくるときに遭うという。

 《共歩き》とも称される、音だけの存在で姿は見えないと言われている。

 夜道を歩く人間の後ろを「べとっ、べとっ」と濡れたような足音を響かせながら尾けてくる。

 足音が常に後ろから聞こえてきて不気味に感じるが、べとべとさんは後を尾行してくるだけで、直接危害を加えてくる事はない。

 足音を不気味に感じるときには道の端に寄り、「べとべとさん、お先にお越し(奈良県)」「お先にお越し(静岡県)」「お先にどうぞ(静岡県)」と唱えると、ついてきた人間から離れるという。


「な、何や。大人しい怪異やんか」

 由貴は、あっさりとした対応に拍子抜けしてしまう。

「そうだね。争うことはないよ。伝承通りに、道の端に寄って、べとべとさんに道を譲ろう」

 光希の提案に、二人は足を止めるとは、べとべとさんに道を譲ろうと道の右側に外れる。

 光希は囁く。

「僕が先に唱えるから、由貴も唱えて。……べとべとさん、お先にお越し」

「べ、べとべとさん、お先にお越し」

 光希と由貴は唱えた。

 不気味な足音が時と共に、はっきりと聞こえてくる。足音から禍々しい気配が感じられる。後をつけているのが間違いないという、絶対的な自信を持っているような音が響いていた。

 音が近づく度にプレッシャーが強くなっていく気がする。

 そして、ついに音は光希たちの背後から聞こえてきた。

 水滴が、こぼれ落ちる音が聞こえる。

 アスファルトを踏みしめる音が続いた。


 べとっ


 という音。

 居るのが分かる。

 それを証明するように重たく濡れた音が響いた。

 自分の後ろから聞こえた音に、由貴は身を震わせて振り返ることもできずにいた。

「大丈夫」

 そんな由貴の背中を軽く叩いて光希はなだめた。恐怖に支配されそうになっている彼女に声をかける。

「び、ビビってへんわ」

 由貴は左横に居る光希に顔を向け、動揺を隠しきれない震えた声で強がった。光希は、そんな強がりに口元を緩ませる。

 由貴の頼もしい姿に安堵したのも事実だ。

 次の瞬間に背後の影が完全に追いつく。二人の身体は硬直し、緊張してしまう。


 べとっ


 それは地の底から響いてくるような音だ。

 光希の左横で、濡れた足で地面を踏みしめる音が重く響く。

 そこで由貴は見た。

 それは見上げるようなスイカか瓜を思わせる大きな丸い物体だ。その怪異には、二本の足はあるが、腕や首といった箇所は見あたらない。

 目も鼻も存在しない。 

 まるで巨大なぬらぬらした濡れた肉の塊に、大きく裂けた口だけがついたような外見をしている。

 歯は大きな石臼のような形状で、不揃いに並ぶそれはぬめりと湿った光沢を放ちながら、不気味な輝きを放つ。

 大きな口からは粘り気のある涎が垂れ、巨大な肉を凝縮したような舌が唇を舐めずりまわしていた。

 光希は、直感的に察した。

 それは意志を持って捕食するものの動きだ。

「由貴!」

 光希は、反射的に由貴の腕を握って引く。彼女は光希の行動に、とっさに、べとべとさんの方を見る。べとべとさんは大きく口を開けて、襲いかからんばかりに迫っている。

 しかし、光希は冷静さを保っていた。

 すかさず蹴りを前へと放つ。

 それは前蹴りではあるが、ダメージを目的とした攻撃というよりもキックボクシングで使われるように、相手との距離を離す動作だった。

 べとべとさんと、二人の間に距離――間合いが生まれる。

「どこが、大人しい怪異や。めっちゃ襲ってくるやないか」

 由貴は、虚勢を張りながら拳を上げて構える。

 全身。特に肩と腕の力を抜いた、その構えは捫門勢らもんぜいと呼ばれる翻子拳で用いられる構えだ。

 光希は伝承通りではなかったことに、考えを巡らせる。伝承では、道を譲れば立ち去る怪異となっているのだ。

(なぜ……)

 考えを巡らせる光希に、べとべとさんが襲いかかってきた。

 大きな体が、ゆっくりと地響きを鳴らしながら近づいてきている。

 その巨体は、圧迫感を与えてくるものだ。巨大な肉の塊が迫ってくるのは恐怖でしかない。

 そこに由貴が横から割入るように、べとべとさんへ素早く一歩近づき、右拳を打ち込んだ。

 べとべとさんは顔面を殴られた勢いで、よろめくものの倒れない。

「大丈夫か光希」

 由貴は、べとべとさんに気を配りながら光希を心配した。

 光希は心に《虚》があったのを《実》に取り戻す。心に《虚》がある場合は、思考がマイナス方向に引っ張られてしまう。

 そんな時は、先ずは息を整えることから始めるべきだ。光希は深呼吸するように息を吐き出して意識を落ち着かせる。

 光希の目に光が戻ったのを由貴は確認する。

 二人は頷き合うと、二人は左右に分かれる。

 それは互いに意識をし合っていった訳ではない。ただ単純に互いの立ち位置が、たまたま左右に分かれたのではあるが、結果的には、べとべとさんの攻撃対象となる存在が完全に二手に別れたことを意味した。

 正面に立つ、べとべとさんに対し、右に由貴、左に光希が位置取りする。

 それに対し、べとべとさんが光希たちの動きを窺う。それを見て、二人は作戦を手早く練ることにした。

「さて。どないする?」

 由貴は訊く。

「逃げるのが最善だけど。放置しておいたら、他の誰かが被害に遭う可能性がある」

 光希は答える。

 そこまで考えると、すぐに結論が出た。

「なら答えは、決まっとるやないか。ちゅう訳で、突きを食らわせたウチの感想やけど、少々の打撃じゃ効いてないみたいやで」

 由貴は、光希に自分の推測を話す。

 実際に攻撃を仕掛けた由貴ならではの意見だった。相手が人間でない以上、身体の構造も急所も異なる。

 となれば、強力な打撃によるダメージが最も現実的だ。

 だが、どの手段で攻撃するのか。それが問題である。

 光希の視線が、べとべとさんの足元に行く。巨大な顔に足が生えているだけの姿をした怪異だが、唯一人体パーツに似たところであった。

 光希の視線から由貴は、彼の考えていることを理解した。自然とイタズラっぽい笑みが零れた。

「ええ作戦やないか。乗ったで!」

 そして、由貴が動いたのを合図に、光希も、べとべとさんめがけ走る。

 まずは由貴が、べとべとさんの懐に入る。

 捫門勢らもんぜいからの、反撃を許さない拳による連続攻撃を加える。力を込めた状態で拳を突き出すと、威力は期待できるが、その分スピードが遅くなる。

 翻子拳では、拳の連打を攻撃の主体とする拳法のため、技の出だしが重要となってくる。

 由貴は左右の拳を早く激しい連撃を繰り出し、べとべとさんの反撃の余地を奪う。

 べとべとさんの意識が由貴に向く。

 その瞬間を狙って、光希が拳を放つ。

 軽く膝を曲げ前に出した右の軸足をそのままにし、左の後ろ逆脚を前へと運んでいく。左脚を前に出すと同時に突きを放つ際に、右軸足を伸ばすことで勁を生み出しているのだ。

 そして、その勁で加速させた右拳を、べとべとさんの身体を捉える。さらに腰をひねり下半身の筋肉をバネに、突き破るような一撃が炸裂した。

 三皇炮捶拳では、重心を安定させ乱れが起きないようにする。立ち方は《両足は土を掘るようだ》、足の踏み方は《金の鈎が地に入る》ようだと形容される。

 突きの威力の2/3は下半身からの力だ。下半身だけでなく、地という支えから生み出される力が、拳に乗る。

 その一撃には筋力だけではない、鍛錬による威力が込められていた。

 格闘技において、KO率の高いパンチは視覚の外から飛んでくるフックとされるが、今の光希の攻撃は、べとべとさんにとって、それであった。

 光希の突きが、べとべとさんに入る。

 べとべとさん膝が力が抜けたように折れた。

「今や!」

 由貴は身を沈める。

「ああ」

 ほぼ、同時に光希も身を沈める。

 由貴は左脚を軸足に、光希は右脚を軸足にして、もう一方の脚を地を払うような動きで、二人は同時に、べとべとさんの両足の踵を払い蹴った。


掃腿そうたい

 素早くしゃがんで相手の足を引っ掛けるように蹴る。

北派拳術の代表的な蹴技。

 突然低くしゃがむと、膝を強く傷めてしまうため難度の高い動作となる。全身をダイナミックに使うため、掃腿の威力は高く、時としてアキレス腱を切断することがある。


 掃腿そうたいを受けた、べとべとさんの体が重力を失ったように浮く。

 そして、背中からアスファルトに落ちる。

 倒れ込むと、重い音と衝撃だけが響く。蹴りであると同時に、その攻撃は地に叩きつける投技の要素を合わせ持っていた。

「やったか……」

 光希は呟く。

 二人が一度身を引いた瞬間、由貴の視線の先で、仰向けになったままのべとべとさんの身体が動いた。

 巨体が転がるように動くが、べとべとさんはこちらに向かって来るのではなく、近くの壁に向かうように動く。

「逃げる気か?」

 由貴が様子を伺う。

 しかし、光希は冷静に見ていた。

 べとべとさんは壁に辿り着くと、頭を壁に叩きつける。二度三度と頭を叩きつけ、それから壁に齧りつく。

「何しとるんや?」

 由貴が疑問に思っていると、光希はあることに気づく。

「……もしかして、落書きを消しているのか」

 その言葉に、由貴も気付く。

 べとべとさんの姿はまるで、駄々をこねる子供のようだった。

 光希は、べとべとさんに近づく。彼の行動に由貴は驚く。

「光希、危ないで」

 由貴は止めようとする。

 しかし、光希は足を止めない。

 光希は、べとべとさんの側に立つと壁の落書きと、べとべとさんを見比べた。

「殴って、ごめん。僕らも君が怖かったんだ。落書きは僕が消すよ。だから、安心していいよ」

 光希は、語りかける。

 その瞬間に、べとべとさんが、びくりと震えた。

動きを止めたのだ。

 それに答えるように、べとべとさんの姿がまるで淡雪のように消えていった。

 後に残ったのは、光希と由貴だけだ。

「……どういうことや?」

 由貴は光希の近くに寄ると訊いた。

「べとべとさんは、道に出現する怪異だ。だから道を汚す落書きが許せなかったんだと思う」

 光希は答える。

 その言葉に由貴は、落書きのある道を歩いていた時に抱いた不快感を思い出した。

あの気持は、べとべとさんも同様に感じ取っていたのだろう。

 そこに人間が居た。

 べとべとさんから見れば、光希と由貴は道を汚した存在にしか見えなかったことだろう。

 だから、べとべとさんは二人を排除しようとした。

 本当の意味で、べとべとさんの行動は分からない。

 しかし、光希は詫びた。

 すると、べとべとさんは姿を消した。

 理解を示してくれた。だから消えたのだ。

 静けさを取り戻した道に、あの足音は無い。

 月明かりが夜の街を照らす。

 そこに残っているのは、光希と由貴だけだ。

 静寂の中、虫の音が微かに聞こえていた。夜風に乗って運ばれてくる涼しい風、頬を撫でる空気が心地良かった。


 ◆


 翌日。

 道沿いにある落書きを消している光希の姿があった。落書き消しのスプレーを使い丁寧に、それを消していく。

 書くのは簡単だが、それを消すのは、根気のいる作業である。

 光希が落書きを消していると、そこに一人の少女がやってきた。

「光希」

 少女に名前を呼ばれた。

 由貴だ。

「何しに来たの?」

 光希は丁寧に落書きを消していた手を止めた。

「心外やな友達やろ。ウチがおるんやから、光希一人にさせる訳にはいかんやろ」

 由貴は誇らしげに胸を張って言った。

 それを聞いて光希は小さく笑う。

 彼女は本当に、お人好しだ。

 いや、元々優しい性格であるから、当たり前の反応なのかも知れない。

「ありがとう」

 光希は素直に感謝を口にした。

 その後、二人で落書きを消していった。

 だが、その数は到底二人で消せるものではなかったが、二人の中学生が起こした行動は、周囲と地域に少しずつ影響を与えていった。

 呼びかけもしないのに、クラスメイトが手伝いにきてくれた。

 クラスの誰かが落書きを消すという行為が、それを真似る者を増やすきっかけとなり、名前の知らない地域の人々まで広がっていく。

 時と共に落書きは減っていき、最終的にはなくなることになる。

 そして、落書きのない道に、べとべとさんの足音が響くのだが、それはどこか楽しげな足音だったという。

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