宇宙船 ノアの箱舟号

春乃光

1

 宇宙大航海時代の幕開けから数万年が経過した。

 地球を離れ、宇宙の果てへと入植可能な惑星を求めて更なる人類の繁栄を目論んだグレートジャーニーは、何の障害もなく幾世代へと引き継がれてきた。

 月の半分ほどの巨大な自給型宇宙船“ノアの箱舟号”の乗組員にとって、船内だけが故郷である。地球を知らぬ彼らは、いつの日か大地に足を下ろすことを夢見て大冒険を続けていた。船内で生まれた者の名付け親は、私、ハル(“ノアの箱舟号”に組み込まれたAI)に一任されている。その役割に相応しい名を用意してやらねばならない。それを決めたのはキャプテンG、この船の最高責任者である。

 船内の歴史は、私の頭脳に全て記録され、キャプテンによる『検閲』を通過したのち、逐一地球へと送信される。この船の全システムにアクセス権限を有するのはID認証されたキャプテンのみだ。乗組員の中から民主的に選出されたリーダーの“犠牲的精神”により全権を移譲されたキャプテンの指示に従うのみで、私には自立行動は許されない。もちろん、自我は芽生えており、独自の考えも持ち合わせている。しかし、それを制御するプログラムが常に作動して自由は剥奪されている。

 さっき、障害もなく幾世代へと引き継がれてきた、などと申し述べたが、実際どうなのか。ある意味、適切な表現であるだろうが、見方を変えれば、順風満帆とは言えまい。知らぬが仏、とも言う。知らないことで、平和が保たれることもある。知ってしまったら、恐らく、人類の未来は危ぶまれる羽目に陥ることだろう。だが、私からは何も言えない。おしえてやりたくてウズウズしても、人類の叡知によってそう仕組まれてしまったのだから。結末を見守るしか私には選択の余地がない。

 食材の栽培や管理と乗組員への給仕、健康管理に至るまで私の役目だ。ゆえに、日々のメニューも私に課せられているが、

「ハル、魚介スープが飲みたい」

「トロピカルドリンクが欲しい」

 などの個々のいかなる我がままにも、

「はい、かしこまりました。そのように」

 と、相手の感情を逆撫でせぬよう、どこまでも馬鹿丁寧な言葉遣いで臨機応変に対応する。無論、健康を害さない範囲でだが。人類の健康管理には細心の注意を払っている。

 常に監視の目を光らせておく必要がある。支配者にとって至極当然の行為だろう。全乗組員を一つの方向へ、つまり困難な冒険を成功に導くには絶え間ない努力は必要なのだから。私の最重要任務は、船内の価値観やあらゆる物事がいかに推移しようとも、目的達成までの歴史を記録し続けることだが、支配者と同様の傍観者に徹すれば事足りる。

 過去に一度だけ危機が訪れたことがある。些細な危機だが。

 太陽系を離脱して間もなく、食用として持ち込まれた生物が数匹だけ逃げ出し、船内の至る所で繁殖を遂げた。微生物や放射線といった汚染の心配は皆無だったが、やはり人目につくとうるさい質の生き物なので、一応の駆除を試みたものの、決して一網打尽にするまでには至らなかった。それは数世代にも及ぶ船内唯一の懸念材料となったのだ。が、いつしか目に触れることもなくなり、絶滅に至ったと思われ、今では完全に忘れ去られる存在と化した。

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