第一話 シャニナリーア誕生
とにかく、もの凄い圧迫感で苦しかった。そして怖い。
逃れたくて必死でもがいていたら、記憶の奥底に手がかりがあった。
――みんな、行っちゃえ!
あたしは「そこ」へ全部押し込んでやった。
急に体が楽になる。体を包んでいたもの――あたし知ってる、魔素だ――が無くなった。
「そこ」が疑似空間だって事も知ってる。
だって、あたしは魔女アクシャナだったんだもの。
ん?いや違う、俺、剣士ロデリック。んん……?女じゃねえぞ?
どうでもいいけど、わい、下女チュワン。やっぱり女やよ?
いんにゃ、男だがや。儂、農夫テド。ま、どうでもええがや。
いやいやいや、やっぱり女だよ。わたし、染物師イアンナの筈……
ええ?おいら、女じゃねえよ!男一匹、大工クロだぜい。
あれ?おかしいな、あたしは三波陽子。食品会社開発部研究室のアラサー研究員、のはずよね?
あれ?あれ?あれ?あれ?あれ?あれ?あれ?あれ?
この記憶って何なの?
―――― 私って誰なんだよおおおおお!!!!!!――――
「おぎゃ~~~~~~~~~~!」
思いっきり声を上げて現状に気づいた。
言葉になってねぇ……
目は開けようとしても開かない。手足も力がはいらない。なんか、ばたばたしてるだけ。
感触からすると、何かに抱かれてるみたいだ。
唇に柔らかいものが当たると、本能的に吸い付く。甘いものが口いっぱいに広がる。
ええー、これって、あたしおっぱい吸ってる?
そうちらっと思った後は、夢中でおっぱいを吸い続けた。なんて幸せ。うっとりして陶酔感の中に溶けてしまいそう………………
…………はっ、溶けてしまってた。
あー、眠ってたのか。
そうかあ。あたし、今赤ちゃんなんだ。
時々目が覚めて少し状況を考える。思考もぼんやりしてるけど。まだ何も見えないし、何か柔らかいものの上に寝かされてるだけで動きが取れない。
だからお腹が空いたら泣く。喉が渇いたら泣く。下が気持ち悪くなったら泣く。
言葉が喋れないから仕方が無い。
そうすると、しばらくして柔らかい手があたしを抱く。優しい手。
それから頬に感じる柔らかい感触は。頬刷り。
「シャニ、シャニ、可愛いシャニ」
耳元で囁く優しい声。それだけで気持ちが柔らかくなる。幸せになる。
そんな繰り返しの中で、考えた。
あたしの記憶って何?この状況って、生まれたばかりの赤ん坊でしょ?
どう考えても、あたしは前世の記憶を持ったまま転生したとしか思えない。
それも複数。
でも最初、本能的に使った力は魔女アクシャナの記憶。
二十五年間ひたすら空間魔法に取り組んできた。おかげで詠唱無しですぐ魔法を発動できる。もう無意識の中に刷り込まれてしまってる。考えるだけで――
突然、周りの風景が頭の中に浮かんだ。ああ、空間把握の術式か。
あたしはかなり広い部屋の小さなベッドに寝かされている。隣にはもっと大きいベッド。壁際には彫刻の施された家具がしつらえてあり、窓には綺麗に刺繍の入ったカーテンが下がっている。窓際には化粧台らしいテーブルと縁飾りが凝った大きな鏡。天井や壁には電線らしいものは見当たらないから、恐らく電気は通っていない。壁にいくつか走る柱には恐らくランプだろう、細い金属で飾られたガラスの器具が取り付けてある。靄のように見えるのは魔力だな。ああ、魔灯か。
文明的には前世の陽子の世界、日本よりずっと前とみて良いわね。
ロデリックとして生きていた頃くらいかな。でもその世界では魔法は無かった。
とにかく何も見えないのは不便だし、不安もあるから空間把握はずっと続けていよう。
でも赤ん坊で魔力は間に合うのかしら?
そうか、疑似空間に有り余るほど魔素を押し込んであるので、それを使えば良いんだわ。
早速、疑似空間とあたしを繋ぐと、魔素が流れ込んで来るのを感じる。少し流量を調整する。
魔女アクシャナ以外にも違った記憶があるので、辿ってみる。
剣士ロデリック。
時代は中世ヨーロッパっぽい。貧しい農家、というより農奴かな。そういう環境に生まれ、騎士に憧れて故郷を飛び出し、流浪の旅に出る。盗賊に加わったり、盗賊を退治したり、よく分からない経験を積んだ上、傭兵団に入る。剣の才能はあったらしく、傭兵団で剣法を叩き込まれ頭角を現す。
女好きで色々やってくれるんだけど、この記憶、触感付きのAVみたいなので即決スルー。
まあ、強かったんだけど、血まみれの記憶にはちょっと引くな。最後は砦を圧倒的な敵に包囲され、四方から槍や剣を突き刺され………………
死の恐怖と無念やるかたない思い。うわー、これ辛いわ。
下女チュワン。これは女だ。
時代はよく分からないが、衣服からして昔の中国らしい。小さい頃売られて工房の下働きをさせられた。文字等は教えられず、知識もなかったので状況はよく分からない。工房は蚕から糸を取り、織物を作る。織物一通りの行程と炊事、洗濯、水汲み、薪集めなど朝から晩までこき使われた。食事は足りず、常に空腹。だから食べ物をくれる男に体を任せる。
うー、身震いする。こんな世界に生まれなくて……ってこれもあたしの生きてきた人生か。
まあ、行き着く所は妊娠。堕胎に失敗して命を落とす結末。お腹を何人もで踏んづけるんだからたまらないわよ。忘れよ。絶対思い出したくない。
農夫テド。男。
これは国も時代もよく分からない。感情の動きのあまりない人間で、黙々と畑を耕し、収穫する。その繰り返しに不満も持たず飽きもしない。嫁を娶って五人の子を授かるが、特に感慨も無い。
この男が一番長生きしたな。五十~六十くらいで突然死。心臓じゃないかな。急に胸が痛くなって倒れたんだもの。
染物師イアンナ。女。
かなり暑い所だったからインドか南米じゃないかな。今は国自体がなくなってるかも知れない。政治的にはややこしい所じゃなく、平和な所。
イアンナは生家が染物屋で、跡取りの一人娘だった。小さな頃から染料についての知識を叩き込まれ、ある程度大きくなってから染め物を手がける。これ、結構力仕事なんだよね。でもそこそこ幸せに過ごしていた。
災厄は婿取りから始まった。優しい良い夫、というのは見せかけで、イアンナに毒を盛ったんだ。苦しむあたし――イアンナを前に「これで店は俺のもんだ!」とかほざいたよね。
苦しくて悔しくてあたしは泣いた。え?あたし?そか。イアンナはあたしだった。
大工クロ。男。
明治の日本で、割と田舎町。色が黒いのでクロ、クロと呼ばれていたのが定着。子供の頃大工の棟梁に弟子入りし、そのまま大工街道まっしぐら。ちょっとお調子者だけど気が良いためか皆には好かれていた。二十の時、見合いで結婚。三十の時、二児の父になる。
この頃は弟子も三名任され、将来は棟梁の跡を継ぐと期待されていた。
でも、お調子者が仇となったのね。高い塔の棟上げ式の時、天辺で逆立ちしようとして失敗。即死って痛いと思う暇もないのよね。ふわっという浮遊感、すぐに地面が見えて何も分からなくなった。
三波陽子。女。一番新しい前世の記憶。
食品会社開発部研究室のアラサー研究員。で、独身。
確か金曜日に残業明けで帰宅して、土曜日に目が覚めたら頭はくらくらするわ、咳は止まらないわで寝込んでしまったんだわ。明くる日は日曜日なので病院はやってないのでそのまま寝込むことに。症状はかなりひどかった。トイレに行くのもやっとで、月曜日には起き上がる事もできなかった。
あたし、長期休暇取っていて、旅行に行く予定だった。その初日にインフルエンザ。それが裏目ったかな。様子を見に来るのも一週間以上、かかったとすれば。
彼氏なんかとっくに別れたし、来てくれるわけ無い。
これはやばい!救急車を呼ぼう、とやっとの思いでスマホを手に取ったら電池切れ。
そこから先の記憶が無い。
それ以外にもいくつか記憶があるけど、皆早死にして特別印象は残らない。
今、一番有用なのは魔女アクシャナの記憶とスキル。記憶だけでなくスキルまで引き継ぐというのは実に幸運だったよね。
アクシャナの得意魔法は空間魔法。特に疑似空間を作り出し、現空間との間で物質を交換するという非常に特異な魔法だ。アクシャナの時代でもこの魔法を使えるのは彼女だけだったらしい。あ、彼女じゃ無くてあたしか。
なんか、視点がぼやけてるな。あたしなのにあたしじゃない。
疑似空間は通常の空間とかなり異なる性質を持つ。
まず、重力が無い。そりゃそうだ。質量を持つ物質が無いもんね。そして地面も壁も天井も無い。ただ無限というわけじゃない。上と下、右と左、前と後ろの空間が繋がっていて、実際には有限の体積を持つ。
あっ!これはアクシャナの知識じゃ無い。三波陽子としてのあたしの知識だ。
その体積は魔法で自由に定義できる。物質交換で疑似空間に入った物体は、そのどこかに現れて浮遊する。
もし、あなたが普通の部屋ぐらいの疑似空間に入ったら、前の方にあなたの背中が見える。後ろを振り返ると振り返っているあなたの前が見える。下の方にあなたの頭が見え、上にはあなたの足が見える。横方向も同様。そしてそれが延々と続く。
近い感覚を体験しようと思ったら、三面鏡を試すと良い。違うのは、三面鏡が左右反転の鏡面反射。もし、鏡に映ってるのがあなたの背中だったとしたら?そんな感じ。
疑似空間には最初、何も無い。真空だ。だからアクシャナは疑似空間を作るとき、最初に空気を転送する。そうでないと窒息するどころじゃない。引き上げた深海魚みたいにパンクだよ。
ただ、魔素や金属などは空気を必要としないので真空のままにしている。金属などは酸化しないので却って好都合なわけ。
そして、疑似空間は独立していくつでも作れるんだ!それなりに魔力使うけどね。
そうだったの?アクシャナのあたしが驚く。え?これは三波陽子の知識が混ざってる。
アクシャナは仕組みまでは知らない。只ひたすら術式を編み上げただけ。
次に、現空間との位置関係が無い。疑似空間が現空間のどこにある、とは特定できない。
単にあたしと疑似空間が結びついているだけ。あたしは疑似空間と、認識している現空間の位置を相互に結びつける事ができる。そして結びつけた疑似空間と現空間の相互で、物質の転移が可能になる。
これはつまり、疑似空間を通してどこにでも転移できるって事。
どこでもドアじゃん!凄くない?
『なんだそりゃー!』他の記憶があたしの考えをはじく。
あれー?何かおかしいかな。
ただ、そのために絶対必要なのが空間把握術式。現世界の位置把握と疑似空間の存在把握だ。現世界の位置把握は割と簡単な遠見の魔法でもできる。でも、疑似空間の存在把握は難度MAXだ。三次元を超えて存在把握が必要なんだよ?想像できる?
その代わり、一度生成した疑似空間には一種のマーカーのようなものが付いて、その後は無意識に把握できる。アクシャナだけだけどね。
そして空間の結びつけに使う現世界の位置把握は、遠見の魔法と似ていて少し違う。遠見の魔法は術者を中心に、球形の範囲を魔素の波動を感知して把握する。
空間把握術式はもっと上位次元で、生成や転移を行った現世界の位置と疑似空間のマーカーが結びつき、その中心から現世界の球形の範囲を把握する。
だから遠見の魔法より把握範囲がずっと広い。うーん、ちと難しいかな。あたしも理屈は良く分かんない。
アクシャナは幼い頃に魔法の才能を見いだされ、魔道協会に引き取られた。強制的に。
もう両親の記憶も無いし、その頃の生活の記憶も無い。ただ、絶えない空腹と得体の知れない恐怖からは解放された。
それからは魔法、魔法の生活だった。何十人、何百人もの同じ境遇の子供達が居たのは覚えている。教員達は鬼だった。あれは凄まじい狂気。
「今死ぬか、魔王に殺されるか。嫌なら生き抜いて魔王を倒しその先に進め!」
そう。その世代は凶悪な魔王に蹂躙され、絶望の極みにあった。そして魔王はその絶望を喰らう。ひと思いに叩き潰す力がありながら、ただ絶望を喰らうために人々を追い詰める。
ならば、絶望を超えた狂気で喰らいつく。それが魔道協会の結論だった。と言うよりそういう狂気が魔道協会を作ったんだろうな。アクシャナもその狂気に身を委ねた。
疑似空間魔法の術式と空間把握術式は非常に複雑で膨大。最初のうちは最後まで詠唱しきる事すらできなかった。大量の羊皮紙に記された術式をひたすら辿る。記憶強化の魔法をかけてもらい、術式を無理やり頭に叩き込む。やっと最後まで詠唱を続ける事ができたが、なかなか魔法が発動しない。必死で繰り返す。
十年かけて初めて疑似空間を生成できた。その瞬間、昏倒する。魔素切れだ。
魔素不足には魔素供給用のホムンクルスが準備されている。何体ものホムンクルスを使い潰しながら詠唱を磨き続ける。徐々に術式が潜在意識に刻み込まれ、詠唱が短くなる。
おおよそ二十年、無詠唱で疑似空間魔法を発動できるようになった。
そこで初めて魔王と対峙する。
うえ!気持ち悪い。それが第一印象。
視界を埋め尽くす魔物の群れが瘴気をまき散らしながら蠢く。遠くに見えるひときわ濃い瘴気の塊が魔王。
はっきりしない輪郭がゆらゆら揺れ、禍々しい魔力の波動がひしひしと伝わってくる。
何百人もの魔道士達が作る魔法結界が無ければ、魔力の波動に飲み込まれ、魔物達と同じように正気を失い、恐怖に狂って暴走してしまうだろう。事実、大勢の人々がそうしてお互いを傷つけ合い死んでいった。
アクシャナの役割は、押し寄せる魔物達を疑似空間に転送する事だ。真空の疑似空間に放り込まれると、大抵は体液をまき散らしながら破裂する。それでも死なない頑強な魔物も、空間を圧縮すると潰れて只の丸い塊になってしまう。
他にも数千人の魔道士達が火炎、爆雷、破砕、重力といった魔法で魔王や魔物達を攻撃する。アクシャナが参戦した頃は、最初の頃の一方的な劣勢からほぼ拮抗するようになってきた。それでも魔道士達は一人、また一人と倒れていく。
アクシャナが繰り返し空間魔法を使ううち、一度に転送できる魔物達の数がどんどん増えてきた。魔道士達の数は徐々に少なくなってきたが、逆に魔物達を押し返すようになる。
魔王もこの状況がアクシャナによる空間魔法によるものと気づいたらしい。その膨大な魔力をアクシャナに絞って放ってきた。結界がはじけ飛ぶ。
瞬間、アクシャナは疑似空間に逃れる。
でも、何てこと!魔王がアクシャナに縋りついて、同じ疑似空間に入って来たんだ。
魔王から巨大な恐怖の波が押し寄せてくる。絶望に押しつぶされそうになる。
必死に耐える。けど……
アクシャナはすぐに覚悟を決めた。
疑似空間を一瞬で限界まで圧縮。
――アクシャナの記憶はそこで途切れる。
今関知できる疑似空間を当たってみる。魔王とアクシャナを閉じ込めた空間は無い。限界まで空間を圧縮したんだ。内部は恐らくブラックホールより高密度で高温になっただろう。疑似空間を消し飛ばすほど。
そしてあたしは、今はただ、柔らかい腕に抱かれて幸せに漂っている。
唇に当たるしなやかな感覚。首を巡らして目的の蕾を探し当てる。
あたしは口を満たす甘い陶酔に、我を忘れてしまうんだ。
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