帝国の魔女

G.G

プロローグ


真っ白。


上も下も分からない。遠くも近くも分からない。

漂ってるのかな?ふわふわ?

ううん、揺れてない。ただあるだけ。


……って、何考えてるんだろ?

これは何?どこ?あたし、何?

ああ、これ、覚えがある。何度も何度もこうだった。

うーん、冥界だっけ?


あれ?でもここじゃ何も考えないんじゃなかったっけ?

何も感じず、何も考えないで次の世界に生まれる。それを待つだけ。

時間も感覚も意識すらも無い。ただあるだけ。その筈なのに。


何かとても不愉快な意識が纏い付いてる。何だろう。

そうか、それであたし、意識が目覚めたんだ。

気持ち悪い。というか、すごく怖い。逃げたい。あっちけ!

そいつを振り払おうとして、あたしには体が無いのを知って愕然とした。


体?そうか、あたしが生きていた世界では体があって、それで色んな事ができたんだ。

今は体が無い。何も感じない。振り払う腕も逃げる足も感覚が無い。よじる胴体も無い。

では、この真っ白な世界は何なの?

目で見てる世界じゃ無い事に気づく。意識その物なんだ。

じゃあ、この気味悪い物を意識してるのはなぜ?


数秒?それとも一年?百年かかったかな?ここでは時間の感覚が無い。

でも、とうとう「そいつ」を意識の内に捕まえた。黒い霧のような靄の中に漂ってる。何て禍々しい気配を放ってるの。しかもあたしに向けて。心が凍りそう。「そいつ」はあたしを憎んでいる。すっごい怨んでる。怨念がびしびし突き刺さる。

そりゃそうか。「そいつ」をこの冥界に引きずり込んだのはあたしだもの。あたしも一緒だったからお相子にしてよ、って、無理か。

あれ?そうなの?あたし、「そいつ」って何だっけ?何なの?

覚えてないか。随分前に死んだあたしだからね。

随分前?そうか、あたし、もう何度も死んでるんだっけ。ここ、何度も来てるものね。

記憶が曖昧だなあ。でも、ここ冥界では記憶も意識も無いのが当たり前だし。

「そいつ」が居なければ無意識のまま、何もかも忘れて次の人生を迎えたんだろうな。


どれくらい「そいつ」の悪意にさらされてきたんだろう。あたしも何も出来ないし、「そいつ」も何も出来ない。ここ冥界ではあることしかできないのだから。そして時間も無い。


不意に意識が浮遊感を覚える。何かに引き寄せられる感覚。確かこれは生まれる時の記憶。

だけど、「そいつ」も一緒に引き寄せられるみたい。冗談じゃ無いでしょ!

「そいつ」はあたしの意識に近づき、黒い霧のようなものがあたしの意識に纏わり付く。


嫌だ!嫌だ!嫌だ!


あたしの意識は必死に「そいつ」を拒絶する。

不意に、あたしの意識に呪文のような言葉が浮かび、「そいつ」に向ける。「そいつ」が黒い霧の向こうにはじかれて行くのを感じ、あたしはそのまま黒い霧と一緒に冥界の外に吸い寄せられていった。



――― マンレオタ辺境公の館 ―――


サラダン・マンレオタは第二夫人カーサイレの初出産を控えて落ち着かない。

彼女は魔人族なので、子供を授かるのは無理だと思われていた。魔人族と人の結婚は極めて希で、出産例も知られていない。実際、結婚後十一年も子供が出来なかった。

初産でもあるし、出産する子供も果たして正常なのか。心配で仕方ない。カーサイレが陣痛で時折うめき声を上げるたびにサラダンは手を取る。しばらくしてカーサイレが落ち着くと寝台の周りを行ったり来たりする。


カーサイレには第一夫人イワーニャが付き添っている。イワーニャは既に五人の子供を生んでいて、ベテランの落ち着きでカーサイレを励ましている。この二人は結婚前から親友で、今でも仲が良い。

「痛みが来たらこんな風に息をするのよ。ひっひっふーー」カーサイレの手を取ってイワーニャが言う。

「ひっひっふーー」真面目にカーサイレが繰り返す。


サラダンはふと、歩き回るのを止めた。

――何だ?この魔力は……

最初、微かだった魔力が徐々に強くなっていく。

――魔物が近づいているのか?いや、だったらこんな増え方はしない。

その時、産声が聞こえた。

――生まれた!


サラダンが近寄ろうとしたとたん、赤ん坊から膨大な魔力が一気に噴き出した。

一瞬、ほとんど反射的にサラダン、イワーニャ、カーサイレが結界魔法を発動する。

荒れ狂う魔力はしばらく結界をじわじわと押し広げる。


唐突に魔力が消失した。


サラダンとイワーニャは無言で顔を見合わせる。

「あの子は?あの子は大丈夫なの?」

カーサイレの叫び声が産室に響き渡った。



―――ライカリア帝国魔道協会―――


トーガ・デ・イル魔道協会長老は深くしわの刻まれた顔の間から鋭い眼光をひらめかせる。

大量の書物に囲まれた執務室の机には処理中の書類が重なり合っている。

手に持ったペンが書類の上でピシッと音を立てた。

「ニーディワング!」トーガ・デ・イルが大声で部下を呼ぶ。

すぐに重厚で重そうな扉が勢いよく押し開けられ、皮甲冑に身を纏った青年が飛び込んでくる。

「協会長!今のは?」

「うむ、お前にも分かったか。とんでもない魔力だ」

「何者でしょう?……まさか……」

「まさかとは思うが……方角は魔物の巣くうギヌアードであるからな」

「……魔王復活……」

「確かめてこい、ニーディワング。手は必要なだけ揃えて良い。判断はそれからだ」

「はっ!」

キビキビとした動作でニーディワングは退出する。

トーガ・デ・イルは深いため息をついて両の拳に額を預ける。

「帝国とツツ連合王国のごたごたが厄介なのに、その上にか……」


―――ツツ連合王国―――


ラムリア・サシャルリン女王は、湯浴みの途中でその豊満な肉体をこわばらせる。

――この魔力は……帝国が何か仕掛けたか?

「……影。おるか?」低い声で囁く。

「おそばに」どこからともないくぐもった返答が返る。

姿は見えない。ラムリアは当然のように頷く。

「あれは感じたか?」

「は」

「探れ」ラムリアは視線はどこにも向けず、鋭く指図する。

「承知」

それからゆっくり体を湯に沈める。

そのまま、湯浴みに奉仕する侍女達に冷たい視線を巡らしていく。

つまり、今見たことを口外すれば無事では済まないと知らせているのだ。自分一人だけでは無く。

侍女達は顔をこわばらせ、身をすくめる。

「まあ、備えはせねばなるまいて」ラムリアは物憂げにつぶやく。


―――クノート共和国―――


サイガノ・バサリ共和国議会長は会話の口を止めて、イアム・リタンニ事務長と顔を見合わせた。

「議会長……」

「うん、帝国の方だな。ギヌアード当たりか」

「魔力暴走ですかね。まさか魔王復活……」

「すぐ収まったから、それは考えにくい。しかし……」サイガノは拳を口に当てて考え込む。

――あの魔力量は異常だ。放置するわけにもいくまい。

「議会を招集しますか?」イアムがたずねる。

「いや。タングニが噛みついてくるだろうからな。帝国方面に二次警戒態勢、で良かろう」

「承知しました。すぐ手続きを」

イアムが退出する。

サイガノは冷めたお茶に口を付け、少し顔をしかめた。

「帝国と連合王国は勝手に揉めておれば良いが、とばっちりはごめんだな」

――だが……この不安感は何だ?



―――ライカリア帝国―――


リ・シムレイテ・ライカリア皇帝は広大な庭園の東屋で、長い銀髪を風に任せて横たわっている。

既に初老に届きかかっているのに、肌はシワもくすみも感じられない。

その耳にかすかな足音を聞きつけて、閉じていたまぶたから緑の瞳を覗かせる。

「陛下」傅いた黒ずくめの侍従が声をかける。

「うーん、例の魔力の件か?」

「は。ケッテニー宰相が陛下のお越しを、と」

「良きに計らえ、と伝えておけ。どうせ朕はお飾りじゃ」面倒そうに手を振る。

「おたわむれを」侍従の額に汗が浮かんだ。

「ふふ。そう畏まるな。どのみち、今すぐどうこうということは無い」

「……」

「そうよの、運命が動き始めた、あやつにはそう言えば分かる」

「運命が動き始めた、でありますか?」

「分かったら行け。朕は忙しい」追い払うように手をひらひらさせる。

――どこが忙しいんだよ!

突っ込みを腹に飲み込んで、侍従は去って行った。

「運命か。さて、どうなることか」

ごろりと仰向けに転がってリ・シムレイテは目を閉じた。

庭園の木々を揺すって通り抜けた風がその頬を撫でていく。



―――ハバータ大陸某所―――


延々と続く山塊の中に穿たれた大きな洞窟があった。

点々と灯るランプの光では、仄暗い洞窟の天井すら照らす事ができない。

その洞窟を黒いフードを被った人影が埋め尽くし、一斉に呪文を唱和している。

いずれもフードから覗くその目に狂気の炎がきらめく。

人影の中央にやや高い台座が設けられ、その上に横たわっているのは全裸の少女。長い銀髪が滝のように台座から流れ落ちている。

ただ、少し育ち始めたその胸は動いていない。薄く開いた唇からは空気の流れは感じられない。死んでいる?いや、薬物と魔法によって仮死状態になっているのだ。

呪文が響き渡る中、一人が瓶を少女の上に掲げて中身を注いでいく。どろりとした暗緑色の液体は魔物の体液。注ぎ終わると交代に別の瓶の中身が注がれる。呪文の唱和の声がひときわ大きく洞窟内に響き渡る。


――と。

一人が短剣を持ち立ち上がると、フードを後ろにさげて叫ぶ。

「魔王よ、来たれ!ここに贄を捧げる!」

男は少女の顔に覆い被さり、短剣で自分の首筋を切り裂いた。血潮が少女の顔に迸る。

命尽きた男を押しのけ、別の一人が少女の様子を覗う。

「魔王よ、来たれ!ここに贄を捧げる!」


何人がこれを繰り返しただろうか。やがて。

ぬるり、と小さな舌が少女の唇をなめる。血まみれの顔に瞳が開く。暗い穴に灯る赤い瞳。

「おおー!」

人影がざわめき、息をこらして成り行きを待つ。

少女がゆっくりと体を起こす。首を回して周りを覗う。両手をまじまじと見つめる。

次に人々が聞いたのは予想もしない言葉。

「あのくそ魔女め!魔力を根こそぎ持って行きやがって!」

怒りに燃えて拳を振り回す少女の声が可愛らしいだけに、一層不気味だった。

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