「やっぱ、初めにコトバありきだよね」
小説の中では言葉は世界の礎だ。言葉だけでそこに在るすべてを現し、言葉だけでその存在意義を消し去る。
言葉を操るコトバ使いであるチトセは、そんな言葉の均衡が破れた小説の中をとぼとぼと歩いていた。
門の要塞内部は装飾文字だらけだった。
硬い。暗い。冷たい。無慈悲に。凍てつく。色のない。温度を奪う。非情なまでに。無機質な意味を持つ文字列が床石を形作っていた。自己主張の強い文字を踏みつけて歩くだけで体感的に薄ら寒くなる。硬い。暗い。冷たい。
「いちいち演出過剰なんだっての」
チトセの独り言と笑い声も文字列の床石に吸われるように響かず消えた。
チトセがダイブした小説は死後世界の門を司る魔王とそれを開ける鍵を持つ勇者の物語。生と死、消滅と再生をテーマにしたダークファンタジー小説だ。
ありきたりな展開と丁寧過ぎてくどい描写がテーマの印象を薄くしているが、チトセはテンポの良い王道ストーリーは気に入っていた。
砂粒の数ほどある小説に潜り続けているコトバ使いのチトセ。チトセは答えを求めていた。生と死をテーマにしたこの小説ならば、死者の門を制御する魔王ならば、その答えを知っているかもしれない。
小説世界では、時に作者の思惑を超えて自我を発芽させるキャラクターが出現する。自身の思考を展開させ、小説環境を理解し、物語内を勝手に動き回る登場人物。イレギュラーな非実在存在。インシデント。
もしもこの小説の魔王がイレギュラーな非実在存在であったとしたら、きっとチトセの求める答えを言葉にしてくれるはずだ。
要塞内で魔王と遭遇するためには幾つかの門の試練をクリアしなければならない。この小説が大きな山場を迎え、鍵の勇者が門の魔王との確執を苦悩する大事なシーンが続く。文字通りのクライマックス展開。
しかしそれもチトセにとってはすでに読み終えた小説だ。解き方を知ってしまったパズルのようなもので、そこに新鮮な驚きも新たな興味もなく、いびつなピースを並べるだけの単純作業が続く。ショートカット先の状況も把握しているし、ここはスキップしない理由もない。
「やっぱ、初めにコトバありきだよね」
チトセは音のない空間に言葉を放った。
「門は粛々と開かれる。望む者の望むままに。そして、それは決して閉ざされることはない」
門は粛々と開かれる。望む者の望むままに。そして、それは決して閉ざされることはない。
小説にチトセ自身から生まれた新たな文字列が書き加えられた。作者の意図と異なる言葉は小説に刻まれて、すぐさま要塞内に変化をもたらした。
チトセの目の前にシンプルな組成の門戸が文字列で構築された。それは霊山の頂に建つ小さな寺院の引き戸の門のようで、古びた木の板を組んだだけの質素な板戸だった。
板戸を指先で触れると古文字が細く光り、チトセの細腕でも抵抗なく乾いた音をかすらせた。
スキップ。いざ、門の魔王への謁見だ。チトセは木材の敷居を跨ぎ、たった一歩で数十ページ分の物語を踏み越えた。
シーンが変わる。
そこは謁見の間。継ぎ目のない大きな石の門が堅く閉ざされている。装飾言語がやたら多い小説なのに、この黒石だけ文字一つ書き込まれていない。
門と同じ石で形作られた玉座があり、側頭から山羊のツノを生やした青年が迫り出した肘掛けに頬杖をついて、物憂げにチトセを見つめていた。
「やあ。遅かったね。鍵の勇者」
不思議に燃え続ける青い炎が空間にぽっかりと据えられている。その青い光が角を大きく巻いた青年の顔をうっすら照らしていた。ずいぶんと億劫そうにため息を吐き捨てる門の魔王。自分のみが存在するシーンに突如として降って沸いた少女の姿に驚きもせず、ただそこにある存在にあらかじめ決められていた台詞を言った。
「私が鍵の勇者に見えるって?」
「違うのかい?」
「たしか、門の魔王と顔を合わせることができるのは対をなす鍵の勇者って設定だっけ? 悪いけど、私は鍵の勇者じゃないよ」
「奇妙な格好をしているから、君が鍵の勇者だと思ったのさ」
キャスケット帽から流れ落ちる髪は漆黒に近い黒髪。ゆったりと白いダッフルコートを着崩してタートルネックの黒いニットを細い身体にまとっている。タイトスカートから伸びる細い脚は黒タイツに包まれて、ヒールのあるブーツの硬い靴底が石床をコツコツと叩く。確かに、ダークファンタジー小説には不似合いなコスチュームだ。チトセは軽く肩をすくめて、改めて門の魔王の顔を真正面から見据えた。
「どうでもいいよ。さあ、ワタシの質問に答えてちょうだい」
「せっかちな奴だな。お互い知らぬ仲でもないのだし、少しは会話を楽しむのも悪くないだろう?」
門の魔王は面倒くさそうについた頬杖もそのままでチトセに言って退けた。
「いいって。内容知ってるし」
チトセにとってここはしっかりと読み込んだ小説だ。門の魔王と鍵の勇者との会話も一字一句覚えている。
通常ならば小説の登場人物は既定の思考パターンを持ち、ほぼ特定の台詞しか喋らない。下手に強く設定を組まれたキャラクターならなおさらだ。キャラそのものが固定化され、古いゲームみたいに決まった台詞を繰り返すのみ。
「別のお話しない? 最近美味しいもの食べた?」
「俺は『死』を具現化させた存在だよ。食事の必要性は理解できないし、したくもないな」
「そう、残念。この小説の中に美味しいのあったら食べてみたかったのに」
どうやら魔王は、作者によってある程度自由に喋れるほどの個性を与えられたようだ。チトセとの会話も成立している。チトセが求めるインシデントと同様に小説環境外のことまで認知しているとはいかないが。
「それが君の質問か? つまらない時間をくれたものだね」
門の魔王は自嘲気味に微笑んでみせた。
「まだ話は終わってないよ。どっちがせっかちなのさ」
チトセはわかりやすく頬を膨らませてやった。
「その死者の門から、虚無に流出した者を喚び戻したことある?」
「死と虚無は似て非なるもの。それは無意味だよ」
魔王は考える間も置かずに答えた。
「言い方が悪かったかな。言葉はあまりに不確定だもの。死んじゃいないけど、死んだも同然の人を殴りたい。あんたならどうする?」
「無意味に意味を見出すかな。意味があるなら言葉に成るはずだ」
「意味なんてどうでもいい。ワタシは小説に意識が融けてしまった人間を呼び戻したいだけなの」
「呼び戻してどうする?」
「ぶん殴る」
門の魔王は頬杖をついたまま、ただ物憂げな微笑みを浮かべていた。
「君はその人物の死を望むのか? それとも死を拒否したいのか?」
「どっちでもいい。いなくなったから探してるだけ」
「それが無意味の意味だよ。意味は無意味じゃないからな」
たっぷり数秒間、門の魔王の言葉を噛み締めて、チトセは謁見の間の高い天井を仰いだ。そこには、門は決して閉ざされることはない、とついさっきチトセが書き込んだ言葉が刻まれていた。
「そう。あんたは小説外のことは喋れないか。この小説はハズレね」
わざとらしくチトセは肩を落として見せた。やはり、そう簡単にインシデントと遭遇できるわけがない。
「ごめん、邪魔したね。ワタシ、帰る」
「そうか。短い会話だったが楽しかったよ」
小説からログアウトする前に、また一つ、コトバ使いのタブーを侵しておこう。チトセは再び高い天井を仰ぎ見た。
小説のストーリーに決定的な矛盾を組み込むこと。それがコトバ使いの第一のタブーだ。
改変された小説世界は自己完結せずに閉じられたメビウスの輪が展開してしまう。小説の登場人物たちは完結に到達できず、物語の中を堂々巡りするだけの存在となる。それこそ無意味な存在だ。
「ワタシね、一度開いた門を閉じられなくする魔法をかけたの。死者の門も永遠に開きっぱなし。鍵の勇者でも門は閉められない。ストーリーに緊張感が出るでしょ」
別れ際、チトセは魔王の玉座に歩み寄り、そうっと彼のツノに触れてみた。それは想像していたよりも温かくて、表面は固めたフェルト生地のように柔らかかった。
微笑む魔王に言の葉を書き込む。
門を閉ざす権限は魔王が倒されるまで魔王の手にある。それは揺るぎようのない真実だ。
門の魔王はようやく頬杖を解いた。静かに色を失った手を伸ばし、チトセの頬に優しく触れる。
「君が何をしたところで世界は変わらないよ」
「変化は後から懐かしむものなの。その時は誰も変わったことに気付かない」
小説の登場人物はその世界にいる限り小説環境の変化に気付けない。世界の変化を知れるのはインシデントだけだ。
「あれ? ちょっと待って」
いや、いる。小説世界が変わってしまったのに気付いたキャラクターがいた。チトセは思い出した。
「ごめん。鍵の勇者とのバトルを観戦したいとこだけど、もう行くね」
魔王が反応するよりも早く、チトセは目次を呼び出した。目的のページはすぐ前だ。そこにインシデントがいる。
チトセの姿が消えた謁見の間にて、門の魔王は何事もなかったかのように再び頬杖をついた。
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