コトバ使いに気をつけな
鳥辺野九
「つまんない台詞吐かないで」
「言の葉」だなんて、誰が言い出したか知らないが上手く言ったものだ。
「朽ちた造形」
はらり舞い散る言葉がまさしく落葉のようで。
「薄く捻れて。忌々しい」
忌々しい。まずはこの降りしきる言の葉たちを払わないと。キャスケット帽から流れる黒髪を指で梳き、前を開けた白いダッフルコートの少女は散り落ちる言葉の群れを音読する。
「耳障りな肌触り」
文字降る光景が目にうるさい。言の葉たちはやたらと自己主張が強く、揺れては翻る文字列の意味を追って目線がさまよってしまう。
「乾いた軋轢の音。心地よくうるさい」
小説の情景描写に意味なんて求めるものではない。あれは単なる飾り言葉だ。少女はダッフルコートの肩に降り積もった文字列を鬱陶しそうに掌で払った。
「空は赤々と。群雲に沈め」
『赤々とした群雲』と読める文字列が裏返り、かすかな音を立てて地に落ちる。言葉はすぐに意味を失った。
「ああっ、もう、うっざい」
緩く羽織ったダッフルコートを大袈裟に煽る少女。コートの内側のなだらかな身体の線も露わに、タートルネックニット姿の少女は濃赤色の雲に覆われた空を睨んだ。
黒のタイトスカートから伸びる黒タイツの脚で不毛な地面に降り積もる言葉たちを蹴散らす。キャスケット帽に積もる言葉も手で払う。つと手が触れて、帽子が頭からずれた。そして滑らかな額に彫られたタトゥーが剥き出しになる。
少女の顔面には三つの文字列が走っていた。額を裂くように一節、両眼から頬を流れる涙筋のようにさらに一対の文章が。その文字は誰も見たことがない不思議に折れ曲がった綴り。
タトゥーの少女の頭上にはざわめき合うように舞い降る文字列群。
赤々とした群雲。赤い空。紅い雲。朱い風。赫い空気。緋い大地。煌々と瞬く赤は黒々とした影を纏って、時に神々しく、そして時に凶々しく、少女の華奢な身体を包み込む。
過剰な飾り言葉は人を不穏にさせる。何事もシンプルが一番。少女はコトバ使いの第二のタブーを早々に破ることにした。
「ワタシはチトセ。しがない物書きだ。コトバ使いが言の葉を紡ごう」
ぴたり、舞い散る言葉が動きを止めた。
「赤々とした群雲はついえて」
ここは夕刻の谷。静かな滅びが待つだけの
世界。斜めに雲を穿つ太陽光が峡谷を赫く染め尽くす常に夕闇の地。魔王が住まう峡谷は酷く赤いという小説のワンシーン。
「青々と」
小説の世界観を根こそぎ書き換える。それぞれのシーンの連続性すら崩壊するレベルで。コトバ使いにとって最も重いタブーの一つだ。
小説の世界観はいわばワールドの土台だ。その根底に作者以外の思考を書き加えることは、文字通りワールドをひっくり返しかねない無謀な行為だ。それでも居心地のいい世界を身勝手に創り出すためにコトバ使いはタブーを侵す。
チトセがダイブした小説が根幹から揺らぎ始めた。赤々とした群雲が波打つように震える。もうすぐ夕刻の時間は過ぎ去るだろう。
「覆い尽くそうが、それでも緑色は芽吹く」
チトセは細腕を振るって容赦なくワールドに文章を書き加えた。
赤々とした群雲はついえて。青々と覆い尽くそうが、それでも緑色は芽吹く。
文字列を書き終えた瞬間、チトセを取り巻くシーンはその様相をがらりと変えた。
世界を覆った赤い幕は乱暴にめくり上げられた。空は高く、雲はまばら。青空は地を覆い尽くそうと広がるが、大地はそれ以上に力強い。緑が大いに芽吹いた。
夕刻の谷と呼ばれた滅びゆく世界は、生命の息吹が眩しく感じられる新緑の平原に変化した。
「やっぱりラストステージは爽やかに限るわ」
門の魔王が根城にする要塞は未だ健在だ。チトセは門要塞のその造形は気に入っていた。だからあえて残しておく。
夕闇がどろどろと流れ込む峡谷。その聳え立つ両岸に人工建造物が突き刺さり、魔王の要塞はまさしく峡谷を塞ぐ巨大で堅牢な門戸と化していた。門のあちら側は夕刻のまま、禍々しく赤い群雲が渦巻いている。しかしこちら側の青空は爽快そのものだ。
連結しているワールドであるが、一歩またげばまるっきりシーンが変わる。小説としてもはやストーリーの連続性など見つけられない。
「女、空に何をした?」
改変されたワンシーンに小説本来の登場人物が姿を現す。そのいかつい登場人物は変化の原因である少女へ大音声を張り上げた。
「つまんない台詞吐かないで」
ダブついたダッフルコートの背中を向けたままチトセが返した。
「何者だ? ここを夕刻の谷と知って立ち入ったか」
鮮やかな緑色に埋もれながら峡谷の門番が刺々しい鎧兜の異形を見せつけた。重い金属音を奏でてチトセの背中に真っ黒く巨大なハンマーを向ける。
「だとしたら?」
くるり、振り返る。
「峡谷の要塞へ行くと言うのなら、俺を倒してからにするんだな。この重力の門番を!」
「安っぽい台詞ね。嫌いじゃないけどさ」
チトセはくすっと笑って見せて、タイトスカートから伸びる黒タイツに包まれた細い脚で緑の草を一歩踏み分けた。
「俺こそ世界で最も重い金属を操る重力の門番、ヴァンカースレッジ!」
世界で一番重い金属とやらを操るヴァンカースレッジが巨大ハンマーを大上段に振り上げ、そのハンマーよりも小さなチトセに渾身の一撃を落とす。
余裕の笑みを浮かべたままチトセはさらにもう一歩踏み込んだ。
「ワタシはチトセ。しがない物書きよ」
夕刻の谷。峡谷の要塞。重力の門番。門の魔王。文字列が鬱陶しいほど演出過剰なくせに、薄っぺらいハリボテのような世界観のダークファンタジーWeb小説。コトバ使いのチトセにとってこれはもう大好物だ。
小説の世界に潜り込んで自由に物語を体験、そして改変する。それがWeb小説専門のハッカー、コトバ使いである。
言葉を自在に書き換えるチトセは言わば物語の天敵だ。今、コトバ使いと物語との戦いが起きようとしていた。
凄まじい圧力で振り落とされる世界で最も重い巨大ハンマー。大重量で空間を押し潰しながらチトセのキャスケット帽に迫る。華奢な少女はひとたまりもなくぐしゃり。そういう物語が進行する、はずだった。
「そもそもさ」
コトバ使いは言葉を書き加えた。小説のスピーディーな展開を越える速度で。
それはまるで、か弱い羽毛のようで。
「世界で一番重い金属ってなんか曖昧過ぎ」
巨大ハンマーの重量は一枚の鳥の羽根のような軽さに置き換わった。重々しい勢いを失い、ぴたり、チトセの細腕でもいともたやすく受け止められる。
「最も密度が高い金属はイリジウムよ」
ヴァンカースレッジがチトセのウエストよりも太そうな剛腕を振おうともがくが、チトセの白く細い指に絡め取られてハンマーはぴくとも動かなかった。
「でもレアメタル鉱のハンマーだなんてダークファンタジーには不向きな単語ね」
「もう一度言おう、女。この重力の門番に何をした?」
重力の門番は刺々しい鎧兜をガチガチと震わせて言った。チトセはくいと小首を傾げて、震えるヴァンカースレッジを見上げ、コトバ使いとして彼にかけてやる最後の台詞を吐き捨てた。
「コトバ使いに気をつけな」
コトバ使いの第三のタブーは小説の登場キャラクターを欠損させること。それは物語の消滅を意味する。チトセはたった一言でコトバ使いのタブーを侵す。
「あんたのキャラ、うざいわ。重さを返すね」
チトセの一声でハンマーの大質量が逆流したかのようにヴァンカースレッジの両腕に最重量の負荷がかかった。枯れ枝がへし折れるような軽い音を弾けさせ、あり得ない方向に折れ曲がる重力の門番の両腕。ヴァンカースレッジが望んだように、巨大なハンマーは世界で何よりも重くなった。
「王道展開も悪くはないけど」
へし折れたのは両腕だけではなかった。ヴァンカースレッジの巨体がそのまま小さく崩れ落ち、声を上げる間もなく無惨にも真っ二つに折り畳まれた。
「用があるのは次の章で登場する魔王様なの」
あっさりとコトバ使いの第三のタブーを侵したチトセ。緑あふれる地面にめり込んだ重力の門番の無様な姿を尻目に、次章へと進んだ。
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