2-5.沐浴の功徳(1)

 一夜が明け、太陽は何事もなかったかのように世界を照らした。

 昨夜の雪は一面を白く染めていた。太陽を反射して光るそれに、俺は目を眇めた。

 それほど深くはないが、参拝客のことを考えて、道は雪を除けておくべきだろうか。そう人が来る寺ではないが、いつでも門戸を開いておくのが寺というものだ。しかしこの天気なら、放っておいてもその内溶けるかもしれない。

 そんなどうでもいいことを考えながら庭を眺める。駄目だ、もっと他に、やるべきことが。


「あの……清正先生」


 控えめに声をかけてきた庄吉に、俺はおもむろに視線を向けた。


「昨夜は、ありがとうございました」


 庄吉は膝をついて、深々と頭を下げた。


「夜の間は、何が何だか、わからなくて。ただ恐ろしい目に遭ったことしか、覚えていなくて。けど、あれの原因が自分だってことは、わかります。軽はずみな約束が、こんなとんでもないことになるなんて……思っても、みなくて……。先生方には、とんだご迷惑をおかけしました」


 声が震えている。実際に怪異に襲われて、事態の大きさをようやっと理解したのだろう。

 思うところがないではないが、本人が反省しているのに、これ以上俺から言うことはない。

 この依頼を引き受けたのは俺で、仕事として請け負ったからには、こんなはずではなかったなどという泣き言は許されない。

 むしろ謝るべきは俺の方だ。俺は姿勢を正して、庄吉に頭を下げた。


「俺の方こそ、申し訳ない。昨夜は追い返すだけで精一杯だった。一度で解決できなかったのは俺の力不足だ。辛抱を強いることになるが、もう暫くは寺にいてくれ」

「そんな、とんでもない。頭を上げてください。おれの方こそ、世話になります。水汲みでも薪割りでも何でもやりますんで、遠慮なく言いつけてください」

「助かる」


 意識して笑ったが、力はこもらなかったのだろう。受けた庄吉も、眉を下げたまま曖昧に笑った。



 ◆◇



 やらなければならないことは山ほどある。考えなければならないことも。

 だというのに。俺は何故。


「湯加減いかがですかー」

「あーー……力抜ける……沈む……」

「沈むな沈むな」


 のんびり風呂に入っているのだろうか。

 

 仏教において、身を清めるということは非常に重要なことである。

 大きな寺院では浴堂があり、家に風呂のない一般庶民にもふるまわれる。しかしその多くは蒸気浴だ。

 では何故うちに五右衛門風呂こんなものがあるのかといえば、なんてことはない。じいちゃんの趣味である。立派な浴室もありゃしないので、囲いはあるもののほぼ野外だ。

 湯を大量に使う贅沢品なので、俺一人ではほとんど使うことはない。水を運ぶのも面倒だし。もちろん、湯に浸からないというだけで、体はきちんと清めている。

 そんなものを引っ張り出して、急に風呂を沸かしたと事後報告してきたのはさねだ。


 ――どういうつもりなんだか。

 

 眼鏡は外しているので、火の番をしているさねの顔はあまりよく見えない。

 こんなことをしている場合ではないのに、昼間からお天道さまの下でぬくぬくと湯に揺られていると、嫌でも気持ちが緩む。凍えていた指先まで温まって、血が通った気がした。


「やっと顔色戻ったなー」


 間延びした声に、俺はぱちりと目を瞬いた。


「……そんなに酷かったか?」

きよも凍らされたのかと思ったくらいだよ。あれじゃ庄吉さんが不安がる」

「……悪い」


 行儀悪く、顔の下半分まで湯につける。まさかそんな酷い顔をしていたとは。

 表情や振る舞いには気を配っていたつもりだったが、まだまだ俺も修行不足か。

 事前にあれこれ言えば、俺が強がると思ったんだろう。癪だが、俺の扱いは心得ているらしい。


「って、そうだ。お前凍らされたんだった。俺よりさねの方がよっぽど体を温めないとまずいだろ」


 ざばりと湯から体を出した俺に、さねが戻るように手を振った。


「俺は大丈夫だよ。あれで体壊すようなら、とっくに寝込んでる。それよりせっかく沸かしたんだから、もっとゆっくりしてなよ」

「うるせえ交代だ交代」

「あ、なら一緒に入る?」

「はっ倒すぞ」


 睨みつけた俺に、さねは冗談だと笑った。

 法衣を着直しながら、見えないようにふうと息を吐く。どうやら、冗談を交わせるくらいには、余裕を取り戻せたようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る