♰Chapter 4:洋館での日常

洋館のテラスで起床したオレは身支度を整えてからダイニングルームへ向かう。

そこにはゆうに十人はスペースに困らないスクエアテーブルと椅子が配されている。

ここでの生活にも慣れを生み出そうとしているのだが、それにはもう少し時間が必要なようだ。


もっとも暗殺者であるオレにとっては煌びやかなドレスで着飾った女性や身綺麗な紳士、豪奢なレッドカーペットやらシャンデリアやらは大して珍しいものではない。


テーブル上には湯気の立ち込める料理が丁寧に並べられていた。


「おはよう、水瀬」

「ええ、おはよう。今日の朝食は春野菜のコンソメスープとパンよ」

「水瀬の料理はバランスも取れて味も美味しい。道理でいい匂いがするわけだ」

「ふふ、そう言ってもらえると作り手冥利に尽きるわね」


爽やかに微笑むのと料理を並び終えるのとはほぼ同時だった。

次いで豆から挽いた珈琲をカップに注ぎ入れる。


……実に絵になるものだ。

背筋の真っすぐさ、一つ一つの動作が洗練されている。

ふとそこで気付いた。


「今日はポニーテールにしたのか?」


その言葉に少しの照れと同じくらいの不満を見せる。


「料理中は長い髪が邪魔になるから結んでいるのよ。もう共同生活を始めてから一か月も経つのに……八神くん、本当に人に興味がないのね」


最後には呆れの方が大きくなったようだ。


「悪い。最近は少し考えることも多かったからな。自然と視野が狭まっていたかもしれない」

「……そういうこと。確かにここ最近、八神くんは魔法にかかりきりだったものね。それも魔法使いと学生の二足の草鞋を履いて」


それは違うぞ、水瀬。

心のなかでオレはそう呟く。


正しくは魔法使いと学生と暗殺者の三足の草鞋だ。

魔法使いとして、〔幻影〕の任務にあたり。

学生として、勉学や行事に取り組み。

暗殺者として、情報屋からの情報を元に夜な夜な犯罪者狩りを行っている。

もちろん、暗殺者としての狩りは魔法使いとしての任務がない時だけだ。

実をいえば三足のうち、二足は真新しい。


「でも……そうね。八神くんが疲れているなら学生生活の方はサポートできるかもしれないわ」

「というと?」


新部設立の件を白紙撤回してくれればそれだけで負担が減るのだが。

そう期待したオレに振り下ろされたのは無慈悲なまでの鉄槌だった。


「学生生活の面で試験勉強を効率化する手伝いはできると思うの。だから今日の放課後は残れるかしら?」


時として善意は無意識の悪意となり、悪意は無意識の善意となる。

オレに限って言えば、それは手伝いではなくお節介と言うのだ。

今回の件はそういう類のものだと思いつつ、そんなことはおくびにも出さない。


「今日は――」


断ろうとしたがふと躊躇してから言葉を繋ぎ直した。

考えようによっては水瀬の学力を見ることができる機会でもある。

相手のどんな側面であろうともそれは一側面。

知れば知るほど一方通行の理解は深まるのだ。


「ああ、分かった。頼む」


放課後はアイと先日の件で軽く話そうと思っていた。

気を揉んでいると見受けられるインスタントメッセージが飛んできていたためだ。

だが特段彼に報告する義務はない。

軽く勉強会に参加したあとで会いに行けばいいだろう。


「決まりね」


それからオレと水瀬は食事の時間を楽しむ。

普段携行食しか食べないオレにとっては朝からちょっとしたご馳走だ。

食欲の湧かない朝でも舌鼓を打ちつつ、完食するとナプキンで口元を拭う。


「少し聞きたいんだが、オレはお前や東雲のほかに結城しか〔守護者〕を知らないが他の守護者にも会えるのか?」

「ええと、そうね。会えるには会えるわ。ただ……東京の外部に遠征している魔法使いもいるからいつ誰に会えるかは未定ね。二十三区外――それも関東圏の外まで派遣されている人もいるから」


やや言い淀んだことを見逃さない。


「心配そうだな」

「……そうね。貴方には私の感情が隠し切れないみたい。これでも分かりやすい方ではないつもりなんだけどね」


仄かな微笑みもわずかに影を落としている。


「たぶん八神くんの思っている通りのこと。各地の戦況があまり芳しくないみたいなの。〔約定〕に与しようとする小テロ組織や個人が後を絶たなくて……『夜の幻想作戦』でも違和感は消えなかった」

「違和感?」

「ええ。元々〔約定〕自体、そこまで力を持った魔法テロ組織じゃなかったの。あくまで〔幻影〕から見れば一テロ組織。突出するものはなかったはずなんだけど。それでもあれほど大掛かりで過激なテロ行為を計画した。ここから読み取れること――」

「最近になって〔約定〕内部で何らかの変化が起こった?」

「その可能性が一番高いんじゃないかって私は考えてる。もちろんその辺りは〔盟主〕も把握していて、より情報収集に集中しているわ。事の真相はもう少し時間が経たないと分からないけどね。あとは」


一度言葉を切り、それから憂い気に青い瞳を細める。


「氷鉋と伊波の二人の魔法使いが倒れた今、その報復行動が起こるんじゃないかって」


水瀬はその報復行動でさらなる犠牲者が生まれることを恐れている。

だがそれだけではない予感がある。

もう一つ、彼らとの戦闘の結末があれでよかったのかと悩んでいるのではないか。

彼らを亡くしたことで報復行動が起きるのならば、それは二人にそうさせるだけの人望があったということだ。

そして人望があるということは他者がその人の存在を望むことに他ならない。


「深読みだったら悪いが、彼らを殺したことを後悔しているのか?」


水瀬は両手で包んだカップに視線を落として俯く。


「いいえ、私たちの行動で確かに救われた命もあるのよ。……でもね、少し――本当に少しだけこれでよかったのかって考えることがあるのも事実。昨日は〔盟主〕に強がりみたいなことを言っちゃったけどね。常に正しい選択肢を取り続けられる人なんていないもの。八神くんはどう思っているの?」


オレの意見は迷うまでもなく決まっていた。


「そうだな。オレは氷鉋や伊波に対して正しい対処をしたと考えている。どんな信念があったにせよ、それで他者を傷付けていいという免罪符になるわけじゃない。オレたちが止めなければあの夜は惨劇として多くの人の記憶に刻みつけられただろう。情と事実は明確に切り分けるべきじゃないか?」


水瀬はいつの間にかオレの瞳を見据えていた。

深みのある碧眼がどこまでもまっすぐに。


「……八神くんはきっと正しい。いいえ私も正しいと理解している。それでも……はあ、私も八神くんみたいに感情を切り離せたらよかったのに」


上手く処理できなかった感情が水瀬の口から溜息として放出される。


「水瀬は今のままでいい。考えてもみてくれ。オレみたいな無表情で無感情な人間ばかりで世界が構成されていたら、それはきっとすぐに成り立たなくなる。当たり前に笑って、泣いて、悩んで、それが一つの均衡を浮き上がらせるんだ。第一、つまらないだろうからなそんな世界」


これまでも、そしてこれからも〔約定〕だけを相手にするわけではないだろう。

多くの悪意ある人の命を奪い、表と裏の世界を行き来する。

そこで感情すらも殺してしまえば並の人間ならすぐにだろう。

それなら一つ一つで感情を吐き出し切ったほうが良いに決まっている。


「貴方の言うことは相変わらず難しいけれど……そうなのかもしれないわね」


オレは直近ひと月程度の水瀬のことしか知らない。

それでもここまでの会話で彼女が人を殺めるたびに葛藤をしてきただろうことは伝わってきた。


――魔法使いは当たり前のように人を殺められる。暗殺者のように。

こんな認識を抱いていたオレは改めるべきだろう。

なぜならそうある前に一個の人間だから。

だからこそどんな罪人であれ命を奪うのには抵抗がある。

むしろ慣れろと言う方が無茶というものなのかもしれない。


まざまざと自分の常識が異常であることを見せつけられたようだ。


――オレは何の躊躇いも、葛藤すらもなく人を殺められる。


「八神くん、珈琲のお代わりはどう?」


無言で考え込んだオレに気を遣ったのだろう。


「ああ、悪いな」


オレが頷くと珈琲のいい匂いが再び満ちる。

それを味わいつつも喉元を過ぎる熱感を押し込む。


「そろそろ時間だな。オレは先に行く」

「八神くん、朝から私の相談に付き合ってくれてありがとう。行ってらっしゃい」


オレは軽く会釈すると水瀬邸――もはやオレの第二の家になりつつある――を出た。



――……



教室に入った途端、言いようのない違和を覚えた。

すでに登校していたクラスメイトのほとんどがオレに視線を送ってくる。

その瞳に宿るのは好奇心、興味といったものだ。

水族館や動物園にいる生き物はきっとこんな気持ちなんだろうと不意に同情する。


自分の席に座ると一人の女子生徒が近寄ってくる。

確か名前は笹原ささはらひかりだったか。


「おっはよー!」


快活な挨拶は受け手によっては爽快さを感じる一方で、騒々しいと映ることもあるだろう。

そしてオレは後者である。


「おはよう」

「ねね、八神くんと水瀬さんが面白そうなことをしてるってほんとっ⁉」

「デマじゃないか?」

「え~! でもみんな噂してるよ? 新部を立ち上げるために試験勝負を持ちかけたって!」


……水瀬。

情報セキュリティがガバガバじゃないか。

穴の開いた袋に貯めた水が零れるがごとく。


心のなかで小さく溜息を吐く。

ここまでバレているのなら余計な嘘は身の破滅を招くのでやめておく。


「勝負はしてないが交渉はしているな。オレじゃなくて主に水瀬が」

「じゃあさじゃあさ、学年十位以内を目指すって言うのは⁉」

「……ああ」

「ほんとのことだったんだ~! 凄いチャレンジ精神だよね、錦くん!」


不意に水を向けられても戸惑うこともなく隣に立った男子生徒は笑った。


「そうだな。俺にはそんな気概も根性もないからなあ。八神、頑張れよ! 俺もクラスの連中も応援してるぜ! あ、もちろん試験の手は緩めらんねえけどな」


その言葉に一部から笑みが零れる。


彼は錦悠斗にしきゆうと

笹原と並んでこの二人は学級委員を務めているクラスの中枢人物だ。

入学してからひと月が経過した今でも挨拶をする程度の間柄の生徒だ。


そこで水瀬が教室に入ってくる。

彼女の方には複数の女子と一部の男子が取り囲みに行った。

傍目から見ても深窓の麗人を思わせる美人なうえに、今回の噂だ。

男女問わず良い話のネタに違いない。


オレはさりげなく水瀬に向けて人差し指を立て軽く揺らす。

旗を振るようなジェスチャーだ。


彼女が気付いたかは不明だがせいぜい頑張れ、というエールを込めて。

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