怪物

 教室でユイさんと別れた後。

 特に用事もないボクは、さっさと帰宅しようとした。

 でも、昨日の今日で、見たくない顔を発見した。


「……やっと来た」


 氷室先輩だ。

 生徒玄関の端で、壁に寄り掛かっていた。

 手には本を持っている。


 この人、何なんだろう。

 人が階段から転げ落ちた場面を見たのに、ケロッとしている。


 今のボクは、蛇に睨まれた蛙同然だ。

 氷室先輩の冷たい眼差しを受けて、動けなくなっている。


「山川君」

「……ぇあ」

「きちんと返事してちょうだい」

「はい」


 氷室先輩が近づいてきた。

 高圧的なのに、表情がない。

 絶対零度の目で見下ろされて黙っていると、薄い唇が動いた。


「…………消えたでしょう?」

「っ!」

「告白の返事。受けるわ。今日から、よろしくね」


 白い手が差し出される。

 けれど、ボクは握る事ができなかった。

 手と人形のように整った顔を交互に見つめて、ボクはカバンの紐を握りしめた。


 周りに目を配ると、誰もいない。

 校内のどこかには、生徒がいるって分かっているのに。

 声は聞こえているのに、ボクらの前には姿を現してくれない。


「どうしたの?」


 本当に、いいんだろうか。

 周りは羨むと思う。

 男子が色めき立つのが頷けるほど、容姿端麗ようしたんれいだからだ。


 でも、――んじゃないか。


 背中に太い針でも入れられたかのように、ボクの体は身動きできない。

 胸の中はざわめいているのに、体が意思を受け入れてくれない。


「……ねえ」


 恐る恐る、顔を見上げる。


「ひょっとして、……からかっているのかしら」


 ボクが黙っていると、氷室先輩の目が細くなった。

 黒い目玉の奥がドロドロと濁っている気がして、無性に怖くなる。

 氷室先輩は「まあ、いいわ」と背中を向けた。


「連れて行きたい場所があるの。ついてきて」


 情けない事に、ボクはまだ動けない。

 本当に怖いのだ。

 何もせずにいると、氷室先輩は微笑んで、手首を掴んでくる。


、山川君のこと好きよ」


 聞き分けのない子供を無理やり連れて行くかのように、氷室先輩は乱暴に腕を引っ張る。

 力負けしたボクは前に倒れてしまうが、氷室先輩がお腹で受け止めた。

 ボクの靴がある場所まで、氷室先輩はついてきた。


 靴を履き替える所をジッと見られて、それからまたボクの腕を引っ張り、今度は先輩が靴を履き替える。


「さ、行きましょう」


 今度は手を繋いできた。

 指と指を絡ませる、恋人繋ぎ。

 でも、おかしかった。


 ボクの指を細い指が両側から挟み込んで、締め付けてくるのだ。

 まるで、逃げないように。


「山川君」


 ぐいぐいと腕を引かれ、ボクはされるがままだった。


「交通事故に遭いたくないわよね」

「う、……ぁ……ぁ」

「知ってた? 車って、先進国の中で、一番人間を殺している道具なのよ」


 氷室先輩が立ち止まる。

 学校から出て、曲がりくねった緩やかな坂道。

 坂道を下ると、すぐ目の前は車道だった。


 横を向けば、いつも腰を下ろしているベンチが見える。


「山川君。……ワタシのこと、……本当に好きなのよね?」

「……あの」

「ワタシ、真剣に考えたのよ。あなたをどうすれば、ワタシの物にできるか。虫がいたから、追い払ったけれど。全部、山川君のためになると思ったから、したまでよ」


 赤みの差した空の下で、氷室先輩はゆっくりとボクの方に振り向く。

 独りでに動く人形のようだった。


 恐怖が限界に達したボクは、つい自分らしくない事を口にした。


「どう、して」

「何が?」

「氷室先輩、怖いです。あの、ボクは、川野君のこと、押したくはなかったし、……えっと」


 もう無理だった。

 喉の奥から絞り出した音を何とか言語化する。


「あんな事して、……平気なんですか? 心、痛まないんですか?」


 すると、氷室先輩は目を丸くした。

 数回瞬きをして、今度は先輩が固まる。と、思ったのは束の間だった。


 目じりに皺が寄り、口角が釣り上がって、先輩が息を漏らす。


「く、……っふ」

「え?」

「ふふ、あ、はは」


 手を離したかと思うと、氷室先輩は自分を抱いて、大きく口を開けた。


「あっはっはっはっは! ははは、ひひ、……はっはっはっは!」


 ほとんど悲鳴に近い笑い声だった。

 目じりには涙を浮かべ、体を前のめりにして、氷室先輩は爆笑した。

 氷が溶けて、形が変わったみたいに。

 想像すらしなかった普通の顔を見せてくれている。


「はっはっはっは! ……はは、ば~っかじゃないの?」

「病院に、運ばれたんですよ?」

「今だって、誰かが病院に運ばれてるわ。毎日、数秒刻みで誰かが死んでいる。どうして、を気にするのかしら。ふふ。バカみたい。あ、ははは」


 目に浮かんだ涙を指で掬い、氷室先輩が寄り添ってくる。


「例えば――」


 肩に腕を回された。

 その直後だった。


 ボクは、突然体のバランスを崩し、車道に飛び込んでしまったのだ。


「ひっ」


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 息の詰まる最中、ボクは慌てて左右を確認する。

 幸い、車は来ていなかった。


「……今、君が死んだって、三日もすれば、みんな忘れるわ。それぐらい当たり前のことよ」


 この人、絶対におかしい。

 命に価値を見出していない。

 それは、人間としての倫理観が欠けている事を意味していた。


 氷室先輩は微笑を浮かべたまま、言った。


「ご家族に連絡をして頂戴。今から、ワタシの家に行くから」


 路肩に下りて、氷室先輩が手を差し伸べる。

 つい、反射的に手を握ってしまう。


「今度は、握ってくれたわね」


 強い力で引っ張られ、無理やり起こされると、勢い余って先輩に抱き着いてしまった。


「あの虫を突き飛ばしたのは、あなたでしょう? ワタシをからかったつもりなら、せいぜい後悔する事ね。ワタシからすれば、願ったり叶ったりよ」


 車や人がいない道路で、氷室先輩が抱きしめてきた。

 シャツに染み込んだ花の香りと共に、先輩の匂いがほのかに鼻孔びこうをくすぐる。


「離れたら、山川君は退学。社会的に死ぬでしょうね。逆らっても同じ。ワタシを裏切れば――」


 顎を持たれて、氷室先輩を見上げる姿勢になった。


「……地獄の底まで追い詰めてやるわ」


 ボクを抱きしめているのは、人の形をした怪物だった。

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