氷室 ルカ

黒い

 教室でボクがやる事と言えば、机の落書きを消す事だった。


「ちょっと! 子供みたいな真似やめなよ!」

「うっせぇ、牛女!」


 クラスの男子二人に向かって、ユイさんが怒った。

 ボクは濡らした雑巾で、机の上を擦る。

 マジックで書かれた汚れは、予想通りなかなか落ちなかった。


「ほんっと、むかつくぅ」


 放課後になり、ユイさんは部活があるはずなのに、一緒に雑巾で机を拭いてくれる。

 ここまで来ると、ボクは何も感じなかった。

 殴られるのは痛いから嫌だけど。

 落書きなら消せばいいから、もういいかなって放置した結果だ。


 ユイさんはムッとして振り返り、教室の入口でスマホを弄る男子に怒鳴る。


「川野くん!」

「……なんだよ。しつけぇな」

「落書き消すの手伝ってよ。君が書いたんだから」

「証拠あんのかよ」


 川野かわの君。

 まあ、ボクを主にイジメてくる男子だ。

 隣には、もう一人のチャラチャラとした男子、堀田ほった君がいる。


「いつも、リクくんの事イジメてるでしょ。川野くん達じゃないなら、誰がやったって言うの!」

「あー、あー、うるせぇ! ちと、黙っててくんねぇ? 今から、大事な用あんだから」

「用って何よ……」

「関係ねえだろ」


 ぷんぷん怒って、ユイさんが戻ってくる。

 再び、机を擦り、落書きを消し始める。

 雑巾だけだと限界があり、ユイさんは「んー」と考えた。


「ちょっと待って。家庭科室にタワシがあったはず。あれなら、消えるんじゃないかな。行ってくるね」

「あ、うん」


 ユイさんはパタパタと駆けて、教室を出て行く。

 その後ろ姿を目で追うと、同じように見ていた川野くん達が言った。


「あいつ、裏に連れ込まねぇ?」

「ははっ。爆乳揉み放題?」


 最低だ。

 何も感じないはずなのに、ボクは川野くん達の言葉に腹が立った。

 黙って見ていると、川野くんがボクの方を見た。


「……お前も混ざる?」


 ボクは、たまに変になる。

 彼の事を見ていると、――――と思ってしまう。


 でも、それはいけないことで、やってはいけないことだ。

 強力な理性がボクを抑えて、目を逸らさせた。


 再び、机を擦り始めて間もなく、今度は川野くんが「お」と言った。

 声に反応して、ボクは廊下の方を見る。

 ユイさんが戻ってきたのだろうか。


 いや、違った。


 一瞬だけ、教室の出入り口に見えた人影は、柔らかい雰囲気のユイさんではない。その真逆の雰囲気を放つ、氷室先輩だった。


「お待たせ」

「遅いっすよ」

「悪いけれど。二人で話したいから。……あなたは、どこかに行ってくれる?」


 堀田君が自分を指し、川野君を見た。


「消えろ」

「……分かったよ」


 渋々と言った様子で、堀田君が氷室先輩の来た方とは、反対側の方に去っていく。氷室先輩は相変わらず冷たい目で見送り、川野君の腕を掴んだ。


 見るからに、鼻の下を伸ばしていた。

 ボクには関係ないけど。

 川野君が近くからいなくなってくれて、ホッとする。


 手に持った雑巾を見ると、黒く汚れていた。

 放り投げるようにバケツに入れて、ボクは椅子に座る。

 窓の外を見て、ボクは思った。


 つまらないな。


 ボクは空想の世界に憧れている。

 つまらない現実の世界ではなく、何でも思い通りになる空想の世界に行く事ができたら、どれだけ楽しいだろう。


 自分の渇いた心が反映したかのように、世間では異世界で生まれ変わったり、移ったりする作品が氾濫はんらんしている。


 きっと、ボクと同じ気持ちの人がたくさんいるのだろう。

 でも、その人達と会う事はないだろうし、向こうだってボクには興味ないはずだ。


 濡れた机を眺めていると、無性に寂しくなった。


 どれくらいボーっとしていたか。

 暑い日差しを受け止めながら、目を瞑っていると、頭に衝撃が走った。


 べちっ。


 いきなり、誰かに頭を叩かれたのだ。

 驚いて顔を上げると、隣には氷室先輩が立っていた。


「……え?」

「来なさい」


 低い声で言われ、ボクは困惑する。

 氷室先輩の声色は、何やら怒っている風にも聞こえる。


があるの。山川君にしかできないわ」

「ボク、ですか?」

「早くしてくれない?」


 急かされて、ボクは立ち上がる。

 川野君の腕を引いたように、氷室先輩はボクの腕を掴んだ。


「え、ど、どこに行くんですか?」


 氷室先輩は黙っていた。

 早足で歩くので、歩幅を合わせるので精いっぱいだ。


「あの――」


 パンっ。


 問いかけには、ビンタが返ってきた。

 耳を巻き込んで叩かれ、ボクは固まってしまう。


「ワタシの言う通りにして」

「……っ」

「好き、なんでしょう?」


 氷室先輩の目は、どこか常軌を逸していた。

 据わっているというか。

 黒い目玉の奥に、さらに黒い何かが宿っているように見える。


 言葉の表面だけをなぞると、勘違いを起こしそうだが、声の調子で脅しに近い何かだという事は分かる。


「ここからは黙っててね」


 釘を刺され、ボクは口を閉ざしてしまった。

 放っておけば、何とかなるのだろうか。

 ここまで来て、ボクの気持ちは悪癖でマヒしていた。

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