「大事な跡取り」

黒月

第1話

 私の遠縁にHという男がいる。彼の実家は江戸時代には名主をつとめていた家柄で、その地域ではちょっとした、由緒ある家として見られている。彼曰く「今はただのサラリーマン家庭」だそうだ。

 だが、そんな代々続いてきた家柄であるため、どちらかというと保守的な家風が何となく家の中にあったらしい。

 Hは長男として生まれた。彼の祖父母には男子は生まれず、一人娘の母が婿をとったので、「待望の男子」として祖父には随分可愛がられて育った。


 そんな彼が「はっきりとは覚えてない部分もあるんだけど」と前置きして、幼少時のある体験を語ってくれた。

 ある時、両親が父方の親戚の用事で家を何日かあけたことがあった。幼いHも両親に付いていきたいと訴えだが、家の中で絶対的な発言力を持つ祖父がそれを許さず、祖父母と留守番をすることになった。

 だが、祖父母はHが淋しくならないようにと、玩具店でおもちゃを買ってくれたり、知り合いの喫茶店に連れていって貰ったりと、いつも以上に甘やかしてくれたそうだ。

 Hがお礼をいう度に祖父は微笑み「お前は大事な跡取りだから」と言った。


 昼間こそ楽しく祖父母と過ごしていたものの、やはり夜は両親がいない寂しさがこみ上げてくる。いつもは両親の部屋で一緒に寝ていたが、この日の夜は祖父の部屋で寝ることになった。

 祖父の部屋は10畳ほどの和室で、神棚や仏壇、親族の遺影などもあり、子供心に少々怖さを感じていた。

祖父はにこにこと笑って祖父の布団の隣に敷いた子供用布団を指さした。

「婆さんに布団敷いてもらったから。もう遅いし寝なさい」

促されるまま、布団に入り目を閉じる。昼間色々と連れていって貰った疲れもあり、すぐ寝入ってしまった。


 どのくらいたっただろうか。Hは唐突な息苦しさに目を覚ました。首を絞められているように、呼吸が十分にできない。体を動かそうにも指先すら強張ったように固まり、動かす事がかなわない。

 息苦しさで声もろくに出せず、唯一動く眼球で隣に寝ている祖父を見た。祖父を起こして助けを求めたいのに、声も出ず、焦りからか冷や汗が止まらなかった。ただ、喘息の時のようなヒュー、ヒュー、という音が喉から漏れる。

 このまま息が出来なくて死ぬのだろうか、と混乱した頭でぼんやり思ったという。死ぬ、と思うと、とてつもない恐怖に襲われ、ぎゅっと目を閉じた。

 「H、どうした?」

 祖父が異変に気づいて目を覚ましてくれた。相変わらず息は苦しくてたまらないものの、気づいて貰えたことに安堵した。

祖父は難しい顔をして彼の様子を伺っていたが、一瞬悲しげな表情を見せたという。

そして、Hの耳に聞こえて来たのは、親戚の法事などで聞いたような「お経」だったそうだ。


南無阿弥陀仏…

南無阿弥陀仏…



 もちろん幼い子供のこと、どんなお経だったかはわからない。ただ、南無阿弥陀仏と何度も唱える声だけは耳にこびりついていると。

何度目かの南無阿弥陀仏で、ふっと息苦しさが消え、そのまま眠りに落ちた。眠りに付く直前、祖父が悲しげな顔で額を撫でてくれた気がした。



 翌朝、祖母の声で目を覚ますと、あれは夢だったんじゃないかと思ったという。しかし、洗顔のために鏡を見ると、首の回りに紫色のアザのようなものがあった。とたんに昨夜の恐怖が思い出され、慌てて祖父を呼んだ。

「あぁ。夕べうなされていたからな。その時にかきむしったんだろう。後で軟膏を付けてやろう」

と言い、額を撫でた。

 だが、かきむしった傷でないことはH自身がよくわかっていた。夕べは指一本動かすことが出来なかったのだから。


「今思うに、子供の手みたいなアザだった」

と、Hは語ってくれた。

後に彼は親戚の話から、母に流産の経験があることを知る。しかし、母にも祖父にもその話は聞けないままだった。何となく、聞いてはいけない雰囲気が家の中にあったという。成長してからもなお、「大事な跡取り」と可愛がってくれた祖父も、Hが大学生1年の時に他界した。

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「大事な跡取り」 黒月 @inuinu1113

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