余命10日の殺し屋

祈Sui

余命10日の殺し屋

「つまり君の命は、最短であと十日ってわけだ」

 馴染みの闇医者にそう告げられた時思ったのは、そうか、というまるで他人事のようなものだった。それは感じていた身体の不調から薄々解っていたからというよりも、常に死が当然のものとして在り、生というものに自分が意味を感じていないからだっただろう。それはきっと殺し屋などというものになって、それを続けられた理由でもある。

「さようなら。これでも僕は君の事を気に入っていたんだ。君は僕がみてきた患者のなかで一番長い付き合いだったからね」

 眼の下に深いくまを浮かべた医者が薄く笑みを浮かべながら差し出した小瓶を受け取る。

中に入っているのは十粒の錠剤。

もう手の施しようのない肉体を誤魔化し、強引に動かせるようにしてくれる薬物らしい。だがそれは利点だけでなく、同時に残された命の前借りを意味するのだと医者は言った。毎日服用すれば十日で肉体は限界を迎え死に至る。それが医者の見立てだ。つまりこの錠剤を口にしなければ余命はもう少し伸びるのだろう。だが俺のもとには新しい仕事の依頼が来ていた。別に依頼主である組織に恩を感じている訳でも、義理があると思っているわけでもないが、断って余命を伸ばしたところで何の意味があるのだろう。何を選ぼうと同じような結果になるのなら今まで続けてきた事を最後まで続ければ良いかという一種の思考放棄じみた結論に至って俺は文字通り考えるのを止めた。どうせ他にしたい事もない。


 記念すべき最後の仕事になるだろうそれは敵対組織との抗争や、雇われた凄腕の殺し屋との対決などという人生を締めくくるにふさわしい派手で華やかなものではなく、持ち出されたデータの回収と、持ち出した人間の処分という酷く地味なものだった。例えるなら探偵の行う浮気調査や迷子のペット探しのような、ありふれていて退屈で、けれど現実的にはその生業の大半を占めているようなそんな仕事。それでも届いた記録を全てチェックし、考えられるあらゆる可能性と考え難い可能性まで考慮し、錠剤を一つ呑み込んでから俺は仕事を開始した。


 踏み込んでみればその家にはろくに護衛もいなかった。室内の様子から考えるに出発の準備をしていたらしい。行動が遅れていれば、此処はもぬけの殻だっただろう。

銃を此方に向けた男を撃ち殺し、悲鳴を上げようと口を開いた女を殺した。声にならなかった呼気が女の口から洩れる。

 俺のほかに生きている人間が居なくなった部屋。その外から小さな足音が聞こえた。サプレッサーで銃声を抑え悲鳴を上げさせなかったとしても、慌ただしく人の動く音はこの部屋の外にまで響いていたのだろう。

「お母さん?」

 その声と足音から対象を想像した俺の視界が事前情報通りの少女の姿を捉えた。眠っていたのだろう。まだ重い瞼を擦りながら階段を下りてきた少女が、知らない人間がいる事に驚いた顔をして、それから室内に倒れている二人を見て硬直した。俺が手にしている銃と二人の死体から散っている血痕を見て、どういう状況か理解したのだろう。そんな少女の胸元に似つかわしくない大ぶりな十字架が見えた。それを見て直感する。おそらくあれが持ち出されたデータの入った記録ストレージだ。ゆっくりと歩きだした俺を見て悲鳴を上げようとしたのだろう少女は、けれどそれすらできないようだった。

 恐怖から過呼吸ぎみになった少女に近づいていく。射殺しても良かったが万が一記録ストレージを破損させてしまう可能性を考え、銃をホルスターにしまい。代わりにナイフを引き抜く。階段を下りる事も登る事もできなかった少女は俺から距離を取ろうとして壁にぶつかり、そのままへたりこんだ。そしてきつく目を瞑り、十字架を両手で握って祈り始めた。俺が殺した二人は敬虔な信徒だった。だから彼女もそうなのだろう。一心に自らの窮地を救ってもらう事。或いは全てが夢であるようにと祈っているのかもしれない。だが全ては不可逆の現実世界で、これまで俺の前で祈った誰のもとにも神が顕れた試しは無い。


 さようなら可哀そうな少女。

 

 そう声に出さずに呟いて僅かに引いたナイフでその細い首にある動脈を裂こうとして、皮膚に触れる寸前で止めた。

 恐る恐る目を開けた少女は俺の顔を見て再び恐怖を浮かべたが、そこには微かな困惑が混ざっていた。それは俺の中にもあった。どうして手を止めたのか自分にも理解できない。

 生きる為にずっと人を殺してきた。それに何かを感じた事は無い。差し迫った自らの死にもたいした感慨は無い。だが、どこかで何かが引っかかっていた。残っている十日間。これまで何も考えずに殺してきた。赤いランプが灯ったら、ボタンを押す工場の単純作業員のように、だが、もしも、ここでボタンを押さなかったらどうなるのだろう?今まで一度も選ばなかったそれを選んだ時、何が起こるのかを俺は知らない。そんな好奇心が俺の手を止めていた。だから俺はナイフを腰に戻して少女を拘束した。逃げようと、いや、恐らく二人の死体に縋ろうとした華奢な身体を持ち上げて、車のトランクに押し込んでから、車を出した。俺の位置を知らせている携帯端末を開けた窓から投げ捨てて、組織の知らないセーフハウスへと向かう。なぜこんな事をしているのか考えている俺の頬を、心地よい夜の風が撫でた。


 朝日が昇るのと共に簡単な食事を取っていたら、隣室から物音が聞こえた。どうやら少女が目を覚ましたらしい。扉を開けると、椅子に座らせて括りつけておいた少女が怖れと怒りの混じった眼で俺を睨んだ。その目には涙が浮かんでいる。

「叫んでも良いが、此処は外部に音を漏らさない構造になっているし、無意味だからやめた方が良い。逃げる事もお薦めしない。追いかけるのが面倒だからだ」

 そう告げながら口に咥えさせていた布を外し、身体を拘束していた縄を外してやる。

「ああ、きっとお腹が空いているだろう。食べるか?」

 用意していた食事のプレートを少女に渡すと、彼女は躊躇いがちにそれを受け取った。ゆっくりとプレートに乗っていたナイフを掴んだ少女はそれで食事を始める前に、立ち上がって俺に向かってきた。放り投げられたプレートが床に落ちて音を立てながら割れる。突き出されたナイフを躱して腕を掴み、捻り上げながら足を払って床に組み伏せる。冷静で躊躇いの無い良い判断だ。素人なら或いは殺せていただろう。

「殺す。絶対に殺してやる」

 完全に動きを封じられた少女が叫んだ。

「どうして二人を殺した」

 それなりに痛い筈だが、強烈な怒りが少女の感覚を鈍らせているのだろう。俺は片手で少女を抑え込んだまま、その首から下がっている十字架を僅かに持ち上げて見せた。

「その理由はこいつにある」

「これは価値のあるものじゃない」

 少女は事情を何も教えられておらず。俺の事を強盗か何かだと思っているようだった。だとしたら、二人を殺して彼女を生かした理由が分からないと思うが、そこまでは頭が回らないらしい。

「違うな」

 俺が見当を付けて十字架の先端を回すと、その先端が外れ記録ストレージの接続端子が現れた。それを見て目を丸くした少女に教えてやる。

「その様子じゃあ、お前の知らない内に元の十字架からすり替えられたようだが。これには犯罪で富を形成している組織。それに所属している者達のリストと証拠が記録されているんだ。このデータを持ち出した為にあの二人は俺に殺される事になった。ある意味では何よりも価値のあるものなんだよ。公表されたら社会がひっくり返る程のね。だから俺に依頼が来た。そうそう組織には君達が熱心に信仰していた教派の大元も一枚噛んでいてね。二人の事を組織に伝えたのは、君たちが毎週訪れていた協会の神父さ。まぁ二人に中のデータを分析している時間は無かったようだし、神父は大元が関わっているなど思いもよらなかったのだろう、それできっと、単純に善意から教会が二人の力に成れないかと考えたんだ。おかげで今頃、海底で魚のえさになっている筈さ。人を信じる心と善意が、悲劇を生んだ」

「そんな……」

 信じ切っていた教会に裏切られたのだと知った少女は呆然とした後で、もう一度口を開いた。

「なんで、なんであんな事ができるの?何も感じないの?」

 少女は怒りと憎悪、失意と悲しみと恐怖の中にあって、それでも驚くべき事に一定の理性を保っていた。それはまだ現実感が追い付いていないのか、それとも彼女が抱いている信仰のなせる業か。興味深いと思いながら口を開く。

「感じない。人を殺す度にいちいち何かを感じるようなら殺し屋はやっていられない。君達の言葉を借りるなら神が与えたもうた天職ってやつさ」

 迷う事も無く告げると少女は言葉を失った。だが、そんな反応をされても仕方がない。初めて人を殺した時も、ただ体にまとわりついた返り血と、その鉄臭さ、それに臓物の中にあった体液や未消化の摂取物と糞尿が混ざった臭いを不快だと感じただけだ。

「神様はそんな仕事を天職として与えない。あなたにも大切な人がいるでしょう?」

 それは諭すような言葉だったが、まるで縋るようにも聞こえた。

「いない」

 その答えを想定していなかったのだろう少女がそれでも何か言おうと口を開く前に、俺は続けた。

「そもそもの前提が間違っている。君は世界中の人間が誰かを愛したり誰かに愛されたりしていると考えている。太古の人間が重力は絶対の法則だと感じていたように……或いは俺に言わせれば、お前の信じている神だって同じようなものだが……。少し昔話をしよう。俺は生まれてすぐに捨てられて孤児院で育った」

 孤児院という単語に少女の表情が動く。

「君もそうだったんだろう?君も孤児院で育って、俺が殺したあの夫婦に引き取られた。俺たちの境遇は似ていて、けれど大きく違う。君は幸せだったのだろう。俺はそうではなかったが、まぁ、別段不幸だったわけでもない。不幸とは幸いを知っていて初めて感じるものだからね。何も知らなければそもそも感じる事もでき無い。それに十五歳程度になるまでは俺の居た所も君の居た孤児院とそう変わらなかっただろう。外部との接触が完全に閉ざされているという点と通常の教育に加えて戦闘訓練があると言う事を除いては……」

 一度言葉を止めたが少女はご親切な育ちの良さから俺の話に耳を傾けてくれていた。

「だがある日を境に週末に実戦が開かれるようになってね。無作為に選ばれた一対一、そのどちらかが死ぬまで終わらない殺し合い。翌日には子供は半分になって、食事には今までほとんど出なかった肉入りシチューが出た。中には端切れではない大きな肉の塊がゴロゴロと入っていて、独特な臭みのあるそれが何の肉なのかはすぐにわかったよ。気付かずに単純に喜んでるやつもいれば、気付いて嘔吐しているやつもいた。嘔吐した奴はだいたい、次の週にはシチューの中に浮かんだ。施設には女もいてね。女の肉は男の肉よりも柔らかいんだ。だから男のよりも女の方が人気だった。でも胸の肉は脂肪が多すぎて食えたもんじゃなかったな。だけど、まぁ性差で根本的な力や運動能力の違いがあるから早々に女は消えて、シチューの中の肉はどんどん筋張って固く不味いものになったよ。そんな生活の中で耐えられずに狂ったやつからいなくなった。いや初めから狂ってたやつが生き残ったのか、俺がそうだったように……」

 笑って見せると、少女は顔を歪めた。それがどのような感情によるものなのかはよく分からない。だから言葉をつづけた。

「別に境遇を憐れんで欲しい訳でも、自らの行為を正当化したいわけでもない。ただ、俺と君の間にある隔絶を伝えたかっただけだ。共感を求める訴えは、それが適わなかった時点で終わる。君にとって人の命はとても大切なものなのだとしても俺にとってはまだ死んでいない肉の塊に過ぎない。スーパーに並べられた肉と、その横を行き交う人の間に、俺は処理されているかどうかの違いしか感じない」

 黙ったままの少女に微笑みかけ、近くに落ちていたリモコンを取ってボタンを押した。古いブラウン管テレビの画面が明るくなる。

「さて、お互いの違いを理解したところで、退屈しのぎに少し記録映像でも見ようか」

 そう言いながらデッキに入れておいた昔殺した快楽殺人鬼のコレクションテープの再生を開始する。古びた映像の中で、そいつとそいつの仲間達が集め、編集したあらゆる殺人の光景が映し出されていく、聞こえるのは悲鳴。懇願。祈り。神に対する問いかけに、啜り泣き。思わず目を背けようとした少女の頭部を押さえつけて固定し、瞼を閉じないように開いてやる。少女は抵抗を試みながら目の前で再生される悲惨な光景に涙し、神に対して祈っていた。その耳元に口を寄せる。

「もし神が全能なら、何故この世界でこんな事が起こる?愚者だけでなく、なぜ無垢な命がそれに巻き込まれて死ぬ?天災は?事故は?病は?そもそも神話の時点で、神が人の堕落を防げなかったのは何故だ?全能が聞いて呆れるほどに無能で、自らが創造した人の心さえ読む事が出来ず試さずにはいられない猜疑心の塊が人を救うと?お前はお前が家族と暖かい教会で祈っている間に、救いを求めて必死に祈った人間がどれだけ死んでいるか考えた事があるか?」

 俺は少女に映像を見せながら問いかけ続けた。彼女が信じていた神や、感じていた幸せが与えられていた欺瞞だと知らしめるように……。

「もしそれでも全ては万能なる神の計画だというなら、俺もまた神のみ使いだ。お前の大切な二人は神によって死を与えられた。祝うべきだ。そうは思わないか?」

「そんな筈がない。神様はお前を、お前達をお許しにならない」

 まだ幼さの残る顔が歪むのが、俺の嗜虐心をくすぐるような気がした。今まで試した事は無かったが、標的をすぐには殺さず弄ぶ殺人者たちは、これを愉快だと感じるのだろう。

「そうか、ならばせいぜい必死に祈るがいい。神様が天罰とやらを下し、お前を助け出してくれるように……」

 少女はしばらく抵抗を続けていたが、やがて大人しくなり、啜り泣きが聞こえるようになったかと思うと遂には耐えきれなくなったようで嘔吐した。吐瀉物の匂いが充満した部屋の中で、俺は少女を抑え続けた。映像が終わるまでそうしていた。


 翌日、もう廃人に成ったかと思っていた少女は、未だ衝撃を引き摺っているようだったが、俺が想定していたよりもまともだった。食事を前に出してやれば、それが日課であるらしく目を瞑り神に祈りを捧げた。それを脇目にベーコンを咀嚼しながら新聞を広げて目を通し始めると、少女の奇襲を受けた。それをあしらって昨日と同じ様に床に抑え付ける。存外元気だ。少なくとも、もうしばらくは楽しめるだろう。

「くそっ」

 先程まで神に祈っていたとは思えない悪態を聞きながらナイフを取り上げる。

「さて出発するぞ」

 そう言いながら少女を立たせてやった。此方を睨みながら、困惑と怖れを浮かべた少女に教えてやる。

「そいつとお前を本来届けられる筈だった場所まで届けてやろうと思ってな」

 俺の言葉に少女は表情を変えた。

「まさかそこにいる人たちを皆殺しにする為に?」

 その顔に警戒感と、恐らくそれを止めなければというのだろう使命感に、俺への敵意と殺意が浮かぶ。

「いや、それは違う。理由は俺の余命が後九日だからだ」

 懐から取り出した錠剤を少女に見せながら、俺の状況を説明してやる。

「だから、そうだな。いうなれば一種の退屈しのぎさ。よく言うだろう?人生は死ぬまでの退屈しのぎだと。だからついた時にどうするかはその時決めるさ……」

 俺はそれだけ言って、少女を強引に連れ出した。ガレージに止めてあった車の助手席に後ろ手に手錠をかけた少女を放り込んで、運転席に乗り込み車を発進させた。


 その日は恐らくもう動き出しているだろう追っ手の襲撃を受ける事も無く順調に目標地点である町まで辿り着いた。逃げたら容赦なく殺すと脅してから手錠を外し、小さなホテルに部屋を二つ借りて、少女に一部屋を与えると、案の定、夜更け頃に少女は逃げていった。目的地の見当はついていたが、念の為十字架に仕掛けた盗聴器の放つ電波を確認しながら車で追った。

 少女が駆け込んだのはやはり一番近くにあった警察署だった。だが残念な事に、この町がまだ組織の強い支配下にある事を彼女は知らない。少女を出迎えた中年の警官は、部下にブラインドを下げさせて、外から警察署の内部が見えないようにした。車を止め静かに近づいて侵入に備える。耳に押し込んだ受信機が音を拾い始めた。思惑とは別に親切に対応する警官。食事が用意されたらしく、少女が祈りを捧げてからそれにがっつき始めたのが分かる。俺の出したものはろくに食べていなかったので、腹が減っていたらしい。丁寧な言葉と温かい食事に警官を信用しきった少女は、今まであった事を全て話し始めた。そこで俺は困った市民を装って扉をノックした。対応してくれた見張り役としてエントランスに残っていたのだろう部下をサプレッサーの付いた銃で射殺し、静かに床に転がす。出くわした警官を同様に殺しながら前進する。少女が警官に十字架を渡したらしく、警官がお礼を言った。

‐ありがとう。君のおかげで安定は保たれる。だから安心して、ゆっくりおやすみ‐

‐なんで……₋

 少女の呆然とした呟きが響くのと同時に俺はドアを蹴り破った。少女を撃ち殺すはずだった警官の銃口が驚きから逸らされる。警官が状況を理解し俺に銃口を向ける前に、俺は警官を撃ち殺した。体格のいい中年警官の上半身が机の上に倒れ込む。直撃を受けた食器やカップ、ナイフやフォークと言ったものが落下して耳障りな音を立てる。

 机の向かい側で小さな悲鳴を上げた少女の唇はケチャップで、そして顔は倒れ込んだ警官のせいで飛び散った食事と銃創から散った血で汚れていた。

「よう随分な有様だな。お嬢ちゃん。久しぶりの飯は美味かったか?満足したなら行くぞ、じきに追手がくる」

「なんで……」

「そればっかりだなお前は、お前の位置は把握していたし、行動も見当がついた。警察ならどこもかしこも全部が清廉でお前を助けてくれるとでも?それならとっくに事は終わっていて、あの二人は死なずに済んだだろうさ。この辺りははまだ組織のおひざ元なんだよ。お前の味方なんかいると思うな」

 親切に教えてやりながら掴んだ手を引くと、少女は抵抗する事も無く大人しく俺に従って、外に止めていた車の助手席に乗り込んだ。追手が来る前に車を発進させ夜の町を走る。 

 ホテルには戻らずそのまま町の外へ。街外れまで来た時。少女が口を開いた。

「あなたは一体何がしたいの?」

 暗闇の中でも解る程の憔悴が浮かんだ顔。俺の呼び方が変わるぐらい少女はもう諦めているようだった。もう手錠など無いのに大人しく座っている程だ。そんな少女が発した問いには答えず。俺はただ車を走らせた。答えたくなかった訳ではなく、答えられなかった。初めは単なる好奇心だと思ったが、最早自分が何をしたいのか、まるでわからなくなっていた。だから別の言葉を探して声に載せた。

「昔、罪を犯して服役した青年がいた。出所した彼に向けられた目は冷たく、社会も彼に辛く当たったが、彼は腐らなかった。懸命に正しい努力を続け、善き人になろうとした。人の嫌がる薄給の仕事に就き、何年もかけて信頼を得た。やがてそんな彼を慕う人が現れて、その人は彼の過去を知って、それでも彼の側から離れなかった。彼が本当に善い人になっていたからだ。彼は迷いながら、その人と共に生き始めた。そして同時に彼は過去の罪からも逃げなかった。被害者に謝罪を繰り返し、殴られても頭を下げた。そんなある日、彼は街中で揉めている若者達と遭遇した。周りにいる大人達が見て見ぬ振りをして通り過ぎていく中、彼はそうしなかった。それは彼がまごうことなき善き人になっていたからとそして、彼らの姿をいつかの自分に重ねたからだ。数人の青年に絡まれていた少女を逃した彼は、少女の通報を受けた警官がやってくるまで、青年達に殴られ続けた。彼は一度として反撃しなかった。彼がその気だったなら恐らく返り討ちにする事だって出来ただろう。けれど彼は言葉しか使わなかった。青年達を傷つけたくなく、そして自らと同じ誤った道を進んで欲しくなかったからだ。結局青年達は彼の説得に応じる事はなく、現れた警官の姿を見て逃げていった。幸い彼の怪我は軽いもので、念のため病院で検査したが異常は何一つ見つけられなかった。彼の事を知ってお礼に訪れた少女を見て、彼と共に生きる事にした彼女は、自分の目は正しかったと誇らしげに微笑んだ」

 そこで俺は一度言葉を切った。

「それで全てが終わっていたのなら単なる美談で済んでいただろう。けれどそうはならなかった。逃げていった若者達の中に財界に幅を効かせている人間の息子がいたからだ。息子の父親は事が露呈するのを恐れた。そいつは組織に所属していてね。だから俺に依頼が来た。組織内でどんな取引が行われたのかは知らないが、男の息子とつるんでいた若者と、彼の顔を見た少女、そして彼を殺せと言われたからそうした。組織における男の序列は大幅に低下したが、男の息子は国外へ留学して今でも優雅に暮らしている。さて、それでは俺が殺したあの善き人となっていた咎人は、いったい何を間違えたのだろうか?努力が足りなかったのか?それとも一度罪を犯した事がいけなかったのか?だとしたら、ただ最悪に絡まれてしまった少女は?この話から得られる教訓は、人の人生を決めるのは清廉さでも努力でも信仰でもなく単なる運であるという事だ。人は、よく自己責任論を代表するロジックや、信仰による徳や業と言ったオカルトを掲げるが、世界はそんなに複雑なものでも、行動に対して正当な報いが返ってくる素敵な空間でもない。運が悪い人間は何をしても無駄で、逆に運のいい人間は何をしても得をする。それが、この世界の単純かつ最も強力な法則だ。お前は運良く温かい家庭に迎えられて、そして運悪く俺にそれを壊されて、こんな旅をする羽目になった。単にそれだけの事なんだよ」

 酷い遠回りをして、何がしたいかではなく、何故こうなったか少女に説いてやった。けれど少女があまりに何の反応も示さなかったから、俺は回転式弾倉の銃を取り出して、全ての弾丸を抜き、改めて一発だけ込めて弾倉を高速回転させた。

「いまいち理解できなかったのなら証明して見せよう。今この銃には一発の弾丸が装填されている。何回引き金を引いた時それが飛び出すかは俺にも分からない。だからこれから出会う人間に向けて一回ずつ引き金を引いていく、弾倉が一回転するまでに運のない人間が一人死ぬ」

「やめてっ!」

 進行方向上の道路脇に見えたガソリンスタンド、そこで働いている男を一人目にしようと考えていた俺に少女は叫ぶように懇願した。それを聞いて俺は回転弾倉から弾丸を排出し、銃をホルスターに戻した。

「こんばんは」

 窓を開け停止した車内から笑顔で給油を頼むと、男は愛想よく頷いて作業を開始してくれた。作業を待っている間に道を尋ねると、彼は親切に教えてくれた。給油が終わってから俺は感謝の言葉と共に代金を支払い。手を振って車を発進させた。俺たちの安全を気遣う男の声を聞きながら隣を見ると、少女は真っ青な顔をしていた。恐らく警察署での出来事と俺が口にし続けた戯れが、憔悴しきっていた少女の信仰を完全に叩き折ったのだ。少女が狂信者だったなら、或いは論理的でない回答で満足し、思考停止状態で自らの正しさを信じただろう。けれど少女はそうできない程にはまともで、そして真面目すぎた。

「もしもこれを届けられたら世界は、少しはマシになるの?」

 助手席から響いた声に視線を送ると、少女が胸元の十字架を握りしめていた。

「さて、少なくとも組織に所属し甘い汁を吸っていた人間達には罰が与えられるだろうが、何もかもが上手くいくわけじゃない。何も知らずに恩恵を得ていた善良な人間も下手をすれば路頭に迷うだろうし、そしてなによりそれは世界を一瞬照らすだろうが、ただ、それだけだ。全ての闇を払いのける事は出来ない。少女が凍える夜に灯すマッチのようなものさ。僅かな人間達の中に満足感と幸福を与えた後で、混乱とその後に同じように利権を貪る別の組織が台頭するだけだろう。それでもあの二人と二人が所属する弾劾団体はこれを公表すべきだと考えていた。正義の為に……。正義、或いは人類史上で最も人を殺した言葉かもしれないが……」

「そう……」

 少女は小さく呟いて沈黙した。走行音が響くだけになった車内で、少女は十字架を握りながら流れてゆく景色をただじっと眺めていた。

 その日から少女は逃げようとする事も俺を殺そうとする事も無くなった。俺を見る少女の目にはまだ確かな憎しみが澱んでいたが、少なくともそれを行動では示さなくなった。そして祈る事もしなくなっていた。


 俺は連日車を走らせて、追っ手に襲撃されるたびに死体を作った。やがて遺体と化した追っ手を見ても少女は悲鳴を上げる事もなくなった。殺して殺して殺す。少女を殺さないという選択の結果としてより多くの人間を殺している現状をどこか奇妙に思った。何を選んでも俺は、結局人を殺す事になるらしい。

 そして最後の錠剤を口にした日の夕方。少女の両親たちが目指していた都市の弾劾組団体に辿り着いた。結局、出迎えてくれた人たちを俺は殺さなかった。それに興味をひかれなかったからだ。それを想定していたのかどうかは分からないが少女は真実を話さなかった。結果として嘘の経緯を信じ切ったそこに居た誰もがあの二人の死を嘆き、そして少女を此処まで連れてきた俺に感謝を述べた。広間には俺たちをもてなす為の食事が並んだが、全員がそれを祝う事はせず、各々が忙しく動き回っていた。届いたデータをもとに組織の不正を公のものにする。本当の祝宴はその全てが終わった後に行われるのだろう。 

 程々に食事をした俺は、お礼を言った後で小さな部屋を借り、そこにあったベッドに横になった。窓から見えるのは煌びやかな都市の灯り、それは人の営みの証であり、人が築き上げた文明と欲望の証でもある。薬の効果が薄れ、身体が鉛のように重くなっていく、もうじきに俺は死ぬ。聞こえてくる都市の喧騒に混ざって、微かに扉が軋む音がした。続いたのは小さな足音。それが誰のものかは分かっている。

「遅かったな。間に合わなくなるところだ」

 投げかけた声に返事は無く、ただ動かした視線が窓から差し込む灯に照らされた想像したとおりの顔を捉えた。出会ってからずっと見下ろしていた顔が、今は俺を見下ろしている。下げられた細い腕、その先にナイフが握られているのを見て、俺は笑った。

「どうして笑うの?」

 確かな怒りを滲ませた静かな声が響く。

「どうして?さて、どうしてだろう?もしかするとどうしようもないからじゃないか?君こそ笑えば良いじゃないか、念願だった復讐が果たせるんだから。ああ、終わった後に笑うタイプなのか?」

「ふざけるな。お前が、お前が……」

 言葉にならない怒りを口にした少女の歪みゆく顔を、俺は味わうように眺めた。

「本当は許しを乞うべきなのだろう。反省と謝罪と命乞いをした方が君のお気に召すのだろう。けれどすまない。演技は苦手なんだ」

 きっとその言葉をきいて怒りを抑えきれなくなった少女が荒っぽく俺の襟元を掴み、俺の胸にナイフの切先を突きつけた。それはシャツ越しに皮膚に触れ、けれどなぜだかそこで止まった。

「何故躊躇う?この為に嘘をついたのだろう?」

 俺の問いに少女は怒りで手を震わせるだけで何も答えなかった。

「解っている筈だ。例えどんな謝罪や賠償を貰っても根本的に許す事は出来ないと。何もしなければ俺は死ぬが、それではお前の気は晴れないのだと。同じような境遇になった大半の人間だって、ただ、それが罪になるからやらないだけで、本当はそうしたい筈だ。今君は、それを果たす唯一の機会にいる。そして、俺を殺しても君は罪に問われないだろう。俺は法的には存在しない人間だし、ここにいる人達に全てを打ち明けたなら、誰もが俺を唾棄し君を庇ってくれる。ここまでの条件が揃っていて、今更何を躊躇うと言うんだ」

 俺は途中から声を上げて嗤っていた。少女の構えたナイフが震えた胸の皮膚に刺さり血が流れだすのも構わずに……。そこでようやく理解した。俺は俺の確固たる終わりの形が欲しかったのだ。その無意識の欲求通り、目の前の少女はそれに成った。怒りと嫌悪を増した憎悪の眼差しが俺をキツく睨みつけている。そしてナイフを持った手が振り上げられる。差し込んだ光を受けたナイフが煌めく。それを手にした痩せた少女は、まさに俺の死の形そのものだった。奇妙な満足感。永遠のように感じた一瞬の後、軽い音と振動が体を伝った。

 少女の手が俺の頭部横の空間にナイフを突き立てて震えていた。視線の端にあるナイフを見て俺の中に落胆が広がった。

「私はお前を殺さない。お前と同じ人殺しにはならない。私が手を下さなくてもお前は死ぬし、お前の遺体を正当な捜査機関に渡せば、或いはお前が行ってきた悪事が暴かれるかもしれない」

 冷たく言い放った少女の手は固く握りしめられていて、その表情や眼差しは変わっていなかった。選択しない事を選択したのでもない。本当は俺を殺したいにもかかわらず少女は単純に強靭な理性。強い意志の力でそれを強引に抑え込んでいるのだ。

「それが正しい判断だと?いや、それともまだ君は信仰やそこからくる倫理観からそうしているのか?」

「違う、もう神様は信じていない。もしいたとしても、そんなものには縋らない。ただ私は、私が正しいと思った事をする」

 それを聞いて少し愉快な気持ちになった。

「それは傲慢だ。そんなものは犯罪者が口にする自己正当化と区別がつかない」

 俺が口にした批判にも少女はたじろぐ事は無かった。

「否定はしない。それでも、せめて私は、自分が胸を張ってそう言える事をする。私を愛してくれた二人に恥じない為に、そして何より私が私自身を誇る為に」

 そう言い放った少女の奥に、俺は初めて真に気高い人間の姿を見た気がした。或いは俺が殺した中にも居たのかもしれない。けれど気付けなかった人間の姿。

 そして今まで一度も感じる事のなかった殺意を認識した。心の底から人を殺したいと初めて思った。それが与えられた仕事だからではなく、欲求として彼女を殺したかった。殺さないと決めてここまで来たのに、今は殺したくて堪らなくなった。だから殺し方を、それも彼女に見合う最高の方法を探して思考が廻った。けれどその中のどれ一つとして彼女に相応しいものは無い様に思え、そしてなにより今の自分には何もできないと言う事を酷く残念に思った。

 この体にもう少しの時間と力さえあれば……、そう惜しみながら押し黙った俺を少女の冷たい眼差しが睨み続けた。俺は笑った。落胆と口惜しさの中でそれでも可笑しく、向けられた彼女の視線が何処か心地よかった。

 やがてどこかから日が変わった事を告げる時報が響くのと同時に魔法が解けたように俺の意識は薄れていった。そんな俺を少女は最後の瞬間まで睨んでくれていた。

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