第5章「幻影」

 ある日の午後。

 ミナトは、ヨミトと一緒に、魔法の修行をしていた。

「さあ、ミナト。やってごらん。」

 ヨミトは、優しい笑顔でミナトに言った。

「ううう…。」

 ミナトは腕を前に出して、手を広げた。

 すると、ミナトの頭の上から、水が二股に分かれて、小さな噴水が上がった。

「あははは!何だそれは。」

 それを見て、ヨミトが笑った。

「違うって、これは…!」

 ミナトは慌てて、頭の上の噴水を止めようと、両手で頭を押さえた。

 小さな噴水はやがて止まったが、そこの部分の髪の毛がぴょんと立って、まるでさきほどの噴水のような形になっていた。

「はははは!」

 ヨミトは笑い続けていた。

「笑いすぎだって!兄上!今度こそはーー!!」

 …遠い記憶。

 あの笑顔と声が、今も心に焼き付いていた…


 荒涼とした風景がどこまでも広がっていた。

 風もない。

 淀み、濁った空気が漂っている。

 その中に立つ、美しく妖しい黒い建物。

「兄上…。」

 ミナトたちは、月の宮殿の前にいた。

「そういや、俺、ここに入ったことはなかったな。月の国にもほとんど来たことねえし。…兄上の方から俺の所によく遊びに来てたしな…。」

「とうとうここまで来てしまいましたね。ミナト様、覚悟は…。」

「大丈夫だ。何でか今は落ち着いてる。エスリンの方こそ、びびってんじゃねーのか?」

「私はいつでも冷静です。」

 エスリンは、きりっと顔を引き締めて言った。

「なーに、兄上はそんな奴じゃないって。きっと何か訳があるに決まってるさ…。」

 ミナトは軽く笑って見せた。

 宮殿の入り口の扉は、わずかに開いていた。ミナトたちは、そっと中に入った。


「不気味…。」

 宮殿の中に入り、ミナトは思わず呟いた。

 月明かりだけが細い窓から差し込み、長い廊下を照らしている。

 壁も、床も、漆黒に塗り固められている。

 廊下に立っている柱には、見たこともない黒い蔓状の植物が巻き付き、それが天井にまで一面にびっしりと張り付いていた。

 建物全体に冷気が漂い、寒気がした。異様な空気だ。

「こんな所に住んでたのか…。兄上は…。」

「こんな所とは酷いな。」

 突然、後ろから声がして、驚いて振り返ると、そこにヨミトが立っていた。ミナトもエスリンも驚き固まった。

「あ、兄上…。」

「突然どうしたんだ?煉獄から逃げて来たんだろう。僕にかくまってもらいたくて来たのかい?」

 ヨミトは優しげな口調で言った。

「その…兄上に…聞きたいことがあって…。」

 ミナトは、こちらをじっと見つめているヨミトから視線を外した。

「僕も聞きたいんだが、ミナト。その背中にある剣はどうしたんだ?」

「え?これは…。」

「ずっと探してたんだ。その剣を、僕にくれないか。お前にはもう、必要のない物だろう。」

「駄目です!ミナト様、絶対に、その剣を手離してはいけません!」

 エスリンが言った。ヨミトは、鋭い眼を光らせて、エスリンを睨み付けた。

「やはりお前が…使鳥。余計なことを…。」

 ヨミトの態度が一変した。さっきまでの優しい表情が消え、険しい表情に変わった。

「兄上。こいつは…エスリンは、俺を助けてくれたんだ!」

 しかし、ヨミトはミナトを無視してエスリンに近付き、左手でエスリンの首を掴み、そのまま高く持ち上げた。

「ぐっ…。」

 エスリンは、苦しそうに呻いた。

「兄上!何すんだよ!」

 思わずミナトはヨミトに飛びついたが、蹴り飛ばされてしまった。

「いて…。」

「エスリンというのがお前の名前か…。アマトだけの下僕。カオスから授かった秘宝…。俺も欲しかったんだ。」

「うう…。」

 ぐっ、とヨミトはエスリンを掴む手に力を込めた。

「やめろよ!!」

 ミナトは、再度ヨミトに飛びついていったが、またも蹴り飛ばされた。ヨミトは完全にミナトを無視していた。

「アマトの全てを奪ってやる。お前も…。」

 ヨミトはぎらぎらと目を光らせて、冷たい笑みを浮かべた。

「う…ぐっ!」

 エスリンは渾身の力を込めて、鋭い爪の生えた足を振り上げようとしたが、力が入らなかった。

「兄上!正気かよ!」

 ミナトは大声で叫んだ。

 エスリンはぐったりとして、動かなくなった。ヨミトが左手を離すと、エスリンはその場にどさりと倒れた。

「エスリン!!」

 ミナトは急いでエスリンに駆け寄った。エスリンは気を失っていた。

「そういえば…何かを聞きたいとか言ってたね。」

 ヨミトは優しい笑顔をミナトに向けた。

「…ほんとだったのか…兄上が…おかしくなったって…。」

「おかしくなった?あはは、僕はおかしくないよ。何が聞きたいのか言ってごらん、ミナト。」

「姉上を天岩戸に閉じ込めて封印したのは、兄上の仕業なの?」

「そうだよ。それもトリに聞いたんだね。」

「…なんで…なんでそんなこと…。」

「ヒノトをお前が殺したように見せかけたのも、煉獄に送ってやったのも、僕の仕業だよ。」

「兄上が…ヒノトを…!?」

「ヒノトを殺したのは馬鹿な神だけどね。そいつにやらせたのさ。まあそいつも邪魔になったから消したんだけどね。」

「兄上は狂ってしまったんだ…。」

 ミナトはその場にうずくまり、頭を抱え込んだ。

「もう、芝居は終わりだ。」

 ヨミトは、無表情になった。

 ヨミトの左手が光った。そこから鋭い雷のような青い光がほとばしり、ミナトに直撃した。

「うああああっ!!」

 ミナトは呻いた。体中を青い光が包み、鋭い痛みを与え続けた。

「ミナト。お前をハメたのは、全てアマトを封印するため。三神の守りを崩すためさ。お前は馬鹿な奴だから、素直にはまってくれた。ただ、このトリの行動だけは予想外だったが…。」

 さらに、ヨミトは左手から青い炎を放出し、ミナトの体を熱のない炎が取り巻いた。

「ぐ…うああああっ…!!」

 全身を激痛が襲う。ミナトは苦しみに悶えた。

「兄上!なんでそんなことしたんだ!なんで姉上を…!あんなに仲良かったじゃないか!」

 全身を走る痛みに耐えながら、ミナトは叫んだ。

「芝居だと言っただろう。俺は仮面を被っていた。そんなことにも気付かず、お前もアマトも、他の神々も…皆馬鹿どもだ。」

「兄上!何か理由があるんだろ?言ってくれよ!いつもの兄上らしくないじゃんか!俺は…兄上を尊敬してた。こんなの間違ってる!!」

 ミナトは必死に叫んだ。認めたくなかった。今までの優しかったヨミトを否定したくなかった。

「おめでたい奴だな。まだ俺の幻影を信じているのか…。」

 ふふん、とヨミトは小さく笑った。

「ミナト、お前の剣を俺に渡せ。それさえ手に入ればどうでもいい。お前の命など、取るに足りない。」

 ミナトの体中の痛みが消えた。

「駄目だ。エスリンが言ったんだ。これは絶対に渡すなって…!」

「随分トリを信用してるんだな。」

 ヨミトが左手をかざし、エスリンに向けて鋭い光線を放った。

 光線は、エスリンの白い腕をかすめ、赤い血が細く流れた。

「やめろ!」

 ミナトは、エスリンをかばうように覆い被さった。

「馬鹿なお前でも分かるだろう?剣を渡せばいいんだ。」

「くっ…。」

「…駄目…渡しては…。」

 エスリンの声がした。

「エスリン!」

 覆い被さっているミナトを退けると、エスリンは立ち上がった。

「戦います。アマト様、そしてミナト様のために…。」

「愚か者が。」

 エスリンは、羽を一本取り出し、それを光の弓矢に変えた。

「ほう…。本当に戦えるのだな。」

 ヨミトは感心したように言った。

「アマト様…。」

 エスリンは祈るように目を閉じ、光の弓を構えた。そして目を開き、きっ、と鋭い眼に光を宿した。

 素早く狙いを定めて、矢をヨミトに向かって放った。

 光の矢は確かにヨミトの胸を貫いた。しかし、ヨミトは平然としている。

 エスリンは走り出し、光の弓をヨミトめがけて振り下ろしたが、その腕をヨミトに掴まれた。

 ヨミトは冷たい目でエスリンを見下ろしていた。

「分かっているはずだ。お前は人間を殺せない。そして、神を殺すことも出来ない。俺は神だ。神の王。傷ひとつ付けることなど出来ないのだ。」

 ヨミトに刺さっていた光の矢は、いつの間にか消えていた。

「…そんなことは分かっている。ただ私は、何の抵抗もしないまま、お前に殺されたくないだけだ!」

 エスリンは強く言い放った。

「安心しろ。お前を殺すつもりはない。」

 ヨミトは、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。

「お前は、今から俺のものだ。」

 エスリンの顔を両手で掴むと、ヨミトの眼が赤く光り出した。

「何するんだ!」

 ミナトは立ち上がろうとしたが、体が動かなかった。

「エスリン!!」

 ただ叫ぶことしか出来なかった。

 吸い込まれそうなヨミトの赤い眼。エスリンは、心を何かに支配されていく感覚に襲われた。邪悪な、忌まわしいもの。エスリンは目を閉じようとしたが、閉じることは出来なかった。ヨミトの眼だけが見えている。他の何も見えない。視界に見える赤い眼は次第に大きくなり、視界全体が赤く染まっていくようだった。抵抗出来ない強い力が、エスリンの心身を押さえつけていた。

(アマト様…ミナト様…)

 かすかに残っているエスリンの心は、祈り続けていた。

(このまま、悪に堕ちるのは絶対に嫌!!)

 エスリンの心の叫びが伝わったのか。

「何!?」

 声を発したのはヨミトだった。

「何故…馬鹿な…。」

 突然、ヨミトは額を押さえてその場にうずくまった。エスリンはまだ、目を閉じたまま動かない。

 ヨミトの眼前には、白い影のようなものが浮かんでいた。

「何なんだ!?あれは…?」

 ミナトにも白い影が見えていたが、それが何か分からなかった。

「く…何故…お前が…。」

 ヨミトには、その白い影が何者なのか分かるようだった。

「くだらんお前の世界など、いずれ俺が壊してやる!ふはははははは!!」

 ヨミトは白い影に向かって、狂ったように笑った。

 ぼうっと浮かんだ白い影は、ゆらゆらとヨミトに近付き、ヨミトに覆い被さった。

「やめろ!」

 ヨミトは抵抗したが、影は取り付いて離れない。

(ミナトよ…逃げるのだ…。)

「えっ!?」

 どこからか、声が響いてきた。どこか懐かしさのある声。

「ミナト様、この隙に、逃げましょう!」

 エスリンは動けるようになっていた。

 二人は急いでその場から逃げ出した。宮殿の長い廊下を走り、入り口の扉から外へ。そのまま、どこまでも走り続けた。疲れて動けなくなるまで。


「あれは一体何だったんだろう…?」

 大岩の陰で、ミナトたちは休んでいた。

「カオス様…。」

 エスリンが呟くように言った。

「え!?父上!?」

「カオス様が助けて下さったんだわ…。分かるの。見えなくても。」

「何で父上が…?父上は遠い宇宙にいるはずだろ?もうこっちとは関係ないんじゃねーの?」

「カオス様はこの世界を最初に創られたお方。どんな術でこちらの様子を知ったのかは分からないけど…、私たちの危険を知って、助けて下さったに違いないわ…。」

「だったら何で姉上を助けてくれねーんだ!」

「…カオス様はもうこちらの世界のお方ではないから…出来ることと出来ないことがあるのでしょう。さっきだって、幻の姿で現れた。本来の姿ではこちらへ現れることは出来ないということでしょう。さっきのは、あくまでも私たちを逃がすための時間稼ぎ。あれでヨミト様を倒せるとは思えないし…。」

「…もう俺、兄上なんて呼ばないよ。」

「え?」

「あいつは…ヨミトはもう俺の尊敬してた兄上じゃない。だって、この世界を壊すなんて言ってたし…。そんなことはさせない。俺が、世界を守ってやる!もう迷ったりしない。ヨミトの望み通りになんか、絶対にさせない!姉上も、俺が救ってみせる!!」

 ミナトは立ち上がって、強く拳を握り締めて宣言した。

「ミナト様…。」

「そうだ!エスリン。お前もヨミト様なんて言うな!これからは敵なんだ。」

 しかし、ミナトは急に寂しそうな顔つきになった。

「…ショックだよ。本当は。今のヨミトを倒すことが出来たら…元の兄上に…戻ってくれるかな…?」

「もう迷わないって言ったでしょ!ヨミトから世界を守ってやるって。」

「そうだよ!じゃないと、姉上だって助からない。」

「ええ。大丈夫。ミナト様の非力さは、私がカバーしてあげるから。」

「なにぃ~~!?俺のどこが非力なんだよ!」

「私にあっさり負けたじゃない。」

 ふふっとエスリンは笑って見せた。

「ち…。こうなったら悪魔退治でもして、バリバリ修行して、強くなってやる!!」

 ミナトは、空に浮かぶ大きな満月に向かって拳を突き出した。

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