水の神話
夏目べるぬ
序章「永遠の別れ」
ひとつの宇宙があった。
そこへやって来た二人の神の夫婦が、一つの「世界」を創った。
まず、空に神の住む「天界」を、その下に人間の住む「人間界」を創った。
それから、人間以外の様々な生き物を創った。
二人の神は、この宇宙における新しい王であった。
男神の名はカオスといい、女神の名はガイアといった。
「これで世界は完成?」
「いや、人間界がまだまだ未完成だ。他の神たちも呼んで手伝ってもらおう。」
こうして、少しずつ世界の形は整っていった…。
やがて、女王は三つの卵を生んだ。
「卵がかえったら、この子たちに人間界を治めさせよう。」
「それはいいわね。」
それから、神たちが卵を祝福しに大勢集まり、神々の宴が開かれた。
しかしそこへ、ただ一人招かれざる神が来ていた。
「女王様。これはご機嫌麗しゅう…。」
低く、しわがれた声。
「あ、あなたは…!」
その男神は、全身を黒衣で頭からすっぽりと覆い隠し、わずかに覗いている顔が異様に青白かった。
顔には深いしわのような、傷のようなものが刻まれており、両の眼だけがギラギラと赤く光っていた。
「お前は、死の国の王・デウス!!」
カオスの声に、一同はしんと静まり返って一斉にそちらを向いた。
「無礼者!お前など呼んではおらぬ!不吉な。即刻立ち去れ!!」
「…私は卵の祝福に来ただけですよ…。しかし、やはりだめですか。では、もう一つ…ここへ来たもう一つの目的…。」
大勢の神々の中でただ一人、黒い衣を纏った神は、赤い眼で女王を見た。
「女王様。私と一緒に来て頂きましょう。」
突如、彼によって振り撒かれた白い粉で、宴の場はもうもうとした煙に包まれた。
「な、何だ!?これは…!」
神たちは混乱した。目の前が真っ白で何も見えない。カオスは、咳き込みながら、ガイアの手をとろうとした。だがその手は、何もない空を掴むばかりだった。目の前がだんだん霞んできて、意識がもうろうとしてきた。あの粉のせいなのか…。
「女王は頂いた!」
もうろうとした意識の中で、デウスの声だけが高く響き渡った。
「…カオス…。」
ガイアのか細い声がした。しかしその助けを求める声は、デウスの高笑いによってかき消された。デウスの狂った笑い声だけが、白い空間に響き渡った。
(ガイア…!…体が…動かない…。)
カオスは手を伸ばそうとしたが、やがて意識は薄れていった…。
死の国の王・デウスは、以前からガイアを慕っていた。世界創造のために他の神々を呼び寄せたときも、彼は勝手にこちらへ入り込んで来た。彼は、異端者だった。
意識を取り戻したカオスは、宴を取り止め、すぐにガイアを取り戻すために死の国へと向かった。
死の国には、「ケガレ」が満ちている。その「ケガレ」に触れれば、神といえども一日で死んでしまう。デウスのような、醜い姿になってしまうのだ。
死の国に通じる道はただ一つ。「忘却の河」である。死んだ生き物は皆この河を通って前世の記憶を忘れる。そして生命の服=肉を失くし、魂だけとなって再び生の世界に戻る。勿論、神々にこの法は適用されない。
「忘却の河」には渡し守が一人いる。彼が全ての死にかけの生き物を向こう岸へと導く。だが今回は、カオスの場合は特別だった。
「ごくろう。」
カオスは渡し守にそう言って舟を下りた。“向こう岸”に着いたのだ。
死の国は、岩ばかりの殺伐とした場所であった。遠くに、一際高くそびえる岩山が見えた。空は薄暗い灰の色。
「あの岩山の頂上に奴の城があるのだな。…ガイア、無事でいてくれ…。」
「やはり来たか。」
死の王・デウスは、遠くからカオスの気配を感じて、ニヤリと笑みを浮かべた。
「カオス…!やっぱり助けに来てくれたのね。」
捕らわれのガイアは、今まで口を閉ざし続けていたが、その心に希望の光が宿り、夫の名を呼んだ。
「…その姿で会うつもりなので?」
デウスは、ガイアを見てクククと笑った。暗闇の部屋の中で、目に見えるものは何もない。しかしデウスには見えるのだ。その赤い眼で。
「あなたはこの国で一日を過ごした。そのケガレはもう拭いされませんよ。」
「カオスは私の夫です!どんな姿であろうと、助けて下さるに決まっています!」
ガイアは確信に満ちた、強い声できっぱりと言った。
「デウス!私の妻、ガイアを返してもらおう!」
大声を上げ、カオスはデウスの城の扉を開け放った。カオスの体から発している強い光のオーラが溢れ、暗い城内に射し込んだ。しかし光はカオスの周囲だけを包み、辺りを満たす暗闇を消すことはなかった。
「死のケガレを恐れず、こんな所まで来るとは恐れ入ったよ。望み通り、女王様を返してやろう。」
暗闇の向こうから、デウスのしわがれた低い声が聞こえてきた。カオスは、爪の先に明かりを灯した。じわじわと、明かりが暗闇を消し飛ばした。そうしてぼんやりと、近くに女の顔が浮かび上がってきた。ガイアだ。美しいガイアの顔が、そこにあった。
「ガイア!」
「カオス!」
二神は再会した。一時も離れたことのない夫婦の神が。
「良かった…無事で。どうやら、死のケガレに侵されてはいないようだね。」
「え、ええ…。」
カオスには、ガイアの顔しか見えていない。爪の先の明かりは、そこだけしか映し出せない。
「デウス。今度このようなマネをしたら、ただでは済まぬぞ。」
暗闇に向かって、カオスは厳しく言い放った。
「さあ、ガイア。さっさと帰ろう。」
「待て!」
突然、デウスの声。
「何だ?」
「一つ約束してほしい。この国から出るまで絶対に…絶対に女王様の姿を見てはならん!」
「何故だ。」
「この死の国に一日でもいれば、誰でも死のケガレに侵されてしまう…女王様も例外ではない。しかしカオス、あなたの勇気には全く恐れ入ったよ…。そこで、もしこの約束を守ることが出来たら、女王様を元の姿に戻してやろうと思う。…どうだ?」
「ごめんなさい。カオス。私の体はもう…。」
ガイアは恥ずかしそうに、顔を背けた。
「いいんだ。気にすることはない。絶対に見ないから。約束しよう、デウス。だが、お前こそ約束を破るな。私が一度もガイアの姿を見なければ、本当に元に戻すのだろうな。」
「ご心配無用。私だって、自分の立場は分かっていますよ。あなたは宇宙の王ですからねえ…。一度でも女王様を傍に置くことが出来た…それだけで十分ですよ…。」
デウスは赤い眼を光らせ、クク、と微かに笑った。
「さあここから出よう、ガイア。こんな所には一秒もいたくない。」
「ええ。」
二神は寄り添いながら、暗闇の城から外へ出た。前をカオスが歩き、その後ろをガイアが歩いた。
(…ああ…不安だ…
すぐ近くにいるのに…
その姿を見ることが出来ないなんて…)
城から遠ざかるにつれて、カオスの不安感は募るばかりだった。
時々、後ろを歩いているはずのガイアの名を呼んでは、その存在を確かめた。しかし、前を歩いているカオスの目には、暗く何もない、死の風景が広がるばかりである。カオスは心の中で、ガイアの美しい姿を思い浮かべながら、歩いた。
(長い…こんなに…長い道だったか…?)
「…ガイア…。」
「はい…?」
ガイアの声が、いつもと違って聞こえた。いや、さっきまでの声とは、違う気がした。カオスは、気のせいだと誤魔化した。きっとこの、死の淀んだ空気が、全てを嫌な方へと心を不安にさせているのだ。「ケガレ」に取り憑かれるというのは、こういうことなのだと。
だが…ふと疑念がカオスの心に浮かんできた。果たして本当に、今、後ろにいるのはガイアなのだろうか…?
(デウスの考えていることは分からない。ガイアをさらったわりには、あっさりと返して、しかもあんな約束までして…。私を試しているのだろうか。私が約束を
様々な不安、疑念が、カオスを支配し始めた。
暗闇が、さらに濃くなったように思われた。
「もうすぐだ…ガイア。あの河まで行けば…。ケガレは清められる。あと少しだ!」
やっと、「忘却の河」が見えてきた。渡し守と小さな舟の姿が微かに見える。暗闇も、さっきより薄くなってきていた。
ずっと歩き続けてきたカオスの足は重くなっていた。湿気を含んだ泥のような土を踏む足が、何かぬめぬめとしたものに掴まれた。ドロリとした感触が伝わってきた。
「何だ…?」
そのドロドロとしたものは、カオスの足元に広がっていた。明らかに、周りの泥土とは違うものだった。赤い、血のような、肉の溶けだしたような、そのようなものが、カオスの足に絡み付いていた。嫌な臭いがした。
「もうすぐ…なのですね…?」
後ろのガイアの声が、近くで聞こえた。その声は、しわがれた、低い、まるでデウスの声のようだった。
「ガ…イア…?」
嫌悪感が、ぞわりとカオスの全身に広がり、カオスは無意識に後ろを振り返った。
「ワーーーッ。」
カオスは、そこにあるものを見て叫んだ。そうしてそのまま、その場に尻餅をついた。動けなかった。声もそれっきり出なかった。恐ろしくて。
そこには、「死者」が立っていた。肉が溶け、骨が露わになり、目だけがギョロリとこちらを向いていた。カオスの足元にまで、溶けだした肉や血液が流れて広がっていた。しかしその目はまぎれもなく…ガイアの目だった。
「カオス…。」
聞き苦しく、か細い声で、ガイアは言った。目から、血とも涙ともつかない液体が零れ落ちた。ガイアは、骨の見えるほどに腐った腕を、カオスに向けて差し出してきた。だがカオスは、それから逃れるように退いた。
「お前は誰だ!ガイアじゃない!デウスのよこしたニセモノだろう!」
カオスは怯えながら、それを打ち消すように大声で叫んだ。
「見てしまいましたわね…この姿を…。」
ガイアの声は最早、元のガイアの声ではなかった。だがその声は、悲しみに満ちていた。
「…でも私はガイア…あなたの妻です…。」
「う、うそだ!ガイアはそんな、汚らわしい…醜い姿ではない!」
カオスはそろそろと立ち上がりながら、ガイアから少しずつ離れ始めた。
「でも…私は…どんな姿であろうと…私は私です…。」
カオスはガイアから目を背け、ついに背を向けた。
「カオス…私を置いていかないで…。」
「うるさい!!」
カオスは振り返った。
すがりつくようなガイアの目。それに対してカオスは言い放った。
「お前のような醜い奴など、私の妻ではない!」
そして一目散に逃げ出した。
「カオス…!」
どんどん遠ざかっていくカオスの姿を、ガイアは必死に追いかけた。肉が溶け、剥がれ落ちてボロボロになりながらも、ガイアは追い続けた。その腐った足が折れて崩れてしまうまで。それでも目だけはカオスの方を見続けていた。最早カオスは遠い「忘却の河」の彼方。ガイアの目から、涙が溢れて止まらなかった。悲しくて、情けなくて、悔しくて。ドロドロになり、ボロボロに腐った体。しかし心はそのままだった。カオスが戻ってくることを信じて、祈り続けた…。
「やはり見てしまったか…。」
泣き崩れるガイアのもとに、デウスが現れた。
「どんなに愛しい妻であっても、死の姿では耐えられぬようだな。」
デウスは哀れむように、ガイアを見つめた。
「だが私はあなたを少しも醜いとは思わない。むしろ、美しいと思う。…カオスを信じるあなたの心…。カオスは、あなたの外見の姿しか見ていないのだ。」
静けさに満ちた死の世界で、デウスの声だけが、優しく響き渡った。
ガイアは、死の国で幾日も、カオスが来るのを待ち続けた。
しかし、カオスが来ることはなかった。
月日が過ぎ…、ついにガイアはデウスと結婚し、死の国の女王となった。
ある決意を秘めて――。
一方天界では、カオスとガイアの生んだ三つの卵がかえり、そのお祝いの祭りが開かれていた。
「ガイアを失った今、お前たちだけが私の宝だ。善い神になっておくれ。」
カオスは、三人の赤子を優しく見つめ、微笑んだ。
「フフフ…なかなか良い子が生まれたな…。」
低く、しわがれた声。カオスは身構え、後ろを振り返った。
そこには案の定、黒衣を纏ったデウスが立っていた。
「お前だけは通すなと言っておいたはずだが。」
「この姿では通してもらえんからな。石に化けて転がってきたのさ。」
デウスは顔を半分まで隠していて、口だけが見えていた。
「一体、何の用だ。今度は私の子供をさらう気か!?」
カオスは、三人の赤子を守るように、腕を大きく広げて立ちはだかった。
「そんな酷いことはしないさ。そんなことをしたら、あなたの宝物とやらが、何一つなくなってしまうだろう。今日はあなたに伝えたいことがあってね。」
デウスの口が、ニヤリと笑った。
「私とガイアは結婚した。」
「何!?」
「今更驚くことでもないだろう。ガイアを捨てたくせに…。」
「捨てたのではない!」
「ガイアはあなたをひどく怨んでいる。ガイアは言ったよ。“これからは死の神として、カオスの作った人間どもを殺してやる!”とな。」
「そんな…!そんなこと…ガイアがするわけが…ない…!」
カオスの体は震えていた。
「ガイアは何十日もあなたが迎えに来るのを待っていた…その信頼を裏切られたのだ…。」
哀れむような口調で、デウスは言った。
「何を言う!元はと言えば、お前がガイアをさらったから、あんな姿に…!」
「ホホ…やはり…そうなのね…。」
突然、デウスが黒衣の頭部を露わにした。いや、その者はデウスではなかった。デウスに似た醜い姿ではあったが、女だと分かった。声も、デウスよりは少し高い。
「ガ…ガイア…!?」
姿は全く違っていた。しかし、その目だけは…懐かしいガイアの目だった。
あまりのことに、カオスはその場に座り込んで、呆然とガイアを凝視した。
「失望したわ…カオス…。」
青白い顔に深い皺。目の下の深いクマ。どれほどの悲しみが、ガイアに刻まれたのか。それをカオスは知らない。
チラリ、とガイアは三人の我が子を見た。三者三様、カオスによく似た子、ガイアに似た子、どちらにも似ていない子。ガイアは一瞬、指をそちらに向けて振り、すぐに手を隠した。
「ガイア…さっき言ったことは…嘘なんだろう?この子たちも殺すというのか…?私たちの子を…人間だって…私たちの子も同然だろう?」
「あなたには分からない…私の苦しみが…だから、カオス…。」
ガイアは、鋭い眼でカオスを見下した。
「カオス…あんたを苦しめたい…最大の苦痛を与えてやる…私が味わった屈辱と苦しみを…カオス…あんたにも…!!」
「…ガイア…。」
「うわーーん!!」
突然、赤子の一人が泣き出した。末の子だった。
はっと我に返り、カオスはその子を抱きしめ、なだめた。
「…もう二度とここへは来ない。最早私は、死の国の女王なのだから。」
ガイアはそう言い捨てて、消えた。
後には、カオスの深い後悔の念だけが残った。
それからというもの、カオス王は、自分の宮殿にこもるようになってしまった。
そして、子供たちが成長し、一人前の神と認められると、王は彼らに世界の支配権を譲り、遠くの宇宙へと去ってしまったのだった。
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