虹の橋の君へ

櫻井 理人

虹の橋の君へ

 人生で一番ともいえるどん底だった夏に君はやって来た。

 それまでの自分は

「死にたい」

 何度もその言葉を口にしていた。


 母と訪れた小さな店。

「好きなを選んでいいよ」

 ケージの向こうにいる君は、こちらに顔を見せずに尻を向けていた。

「このがいい」

 ふわりとした短い毛。きれいな緑色の目に、少しだけ折れ曲がった耳。

 小さな体を壊れ物のようにゆっくりと抱き上げる。をぱちくりさせた君は、腕の中で思いきり暴れていた。気持ちが少し落ち込んだ。


 あれから十五年以上たった君は、人間でいうとおばあちゃん。高いところには上れなくなったけど、低い椅子の上で体を伸ばしていることが多くなった。

 毎朝、一番にリビングのカーテンを開けにいくと、目をぱちりと開けてこっちを見上げている君の姿があった。

「おはよう」

「ニャ!」

 短く、つとめて高い声を出そうとする君。

 このやりとりが日課だったんだ。


 君が歳をとるにつれて、自分は怖くなった。

 いつまでそばにいてくれるのだろうか。

 少し前までは失うなんてこれっぽちも思っちゃいなかった。

 どこかでそばにいることが当たり前になっていたんだ。


 その時は突然やって来た。

 自分の力で立つことがほとんどできなくなった君は、

「ごはんちょうだい」

「お水飲みたい」

 全部鳴き声で伝えてきた。

 器を口元に置いてやったら、必死に飲んでくれたね。

 動けないはずの君は、ケージの中から何度も顔を上げてこっちを見た。

 吸い込まれそうな大きな瞳で、今は亡き祖母に、病室で頬を触れられた時のことを思い出す。

「私を見て」

「私を触って」

「頭を撫でて」

 そう言われているような気がした。


 それから二日後、あんなに大好きだったはずのご飯もおやつも食べられなくなるほどに君は弱っていった。

 君の体をむしばむ病魔が憎かった。

「お水飲もうか」

 水を入れた注射器の先を口元にやると、口を小さく開いてくれた。口の中に入れた水はほとんどこぼれて、もう鳴き声なんてこれっぽちも出やしないのに。それでも君は懸命に生きようとした。

 命を粗末にしてはいけないって、その小さな体で改めて教えてくれたんだ。


 花屋で見つけたクリーム色のラナンキュラスを亡骸なきがらの上に供えた。

 に戻った君の隣を歩く自分は、いったいいくつの自分だろう。

 何十年先になるか分からない、虹の橋を渡るその日にまた会おう。

 たくさんの思い出をありがとう。そして、お疲れ様。

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虹の橋の君へ 櫻井 理人 @Licht_S

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