第7話 シマさんとヤスさん
「ヤスさん、御神は肉を所望だとさ。ハナお嬢様、頑張っているみたいだねぇ」
シマの声に相好を崩すヤスの手には、大きな鉈が握られている。
「そりゃおめえ、ハナお嬢様は歴代の愛し子の中でも抜きんでて素直な方だ。御神もお喜びだろうよ。そうかぁ肉かぁ」
「頼めるかい?」
「任せとけ。で? 何の肉にする?」
「一番お好きな
雉でいいんじゃないかい?」
「わかった。じゃあちょっくら行ってくる」
音もなくヤスの姿が消えた。
シマは数秒考えた後、買い物かごを抱えて裏口から出て行った。
その頃、滝の奥では授業が始まっていた。
徳利を抱えたままどこからか持ち出してきた小さな木机を挟み、ハナの前に広げた古文書のようなものを解説しているおじいちゃん。
「難しいか?」
「うん、蚯蚓にしか見えない」
「全部漢字だし、今でも使っている文字がほとんどなんだが」
「そもそも漢字に見えない。字が下手な人が書いたの?」
「いや、これは学問の神とまで言われた男からの手紙だから、字が下手なわけでは無い。ではハナ『あ』と書いてみろ」
「あ?」
「うん『あ』だ。8つある母音の最初の『あ』だ」
「8つ? 母音って5つでしょ?」
「そこからか……」
頭を抱え込むおじいちゃんを不思議そうに見るハナ。
ふと障子の向こうに目を遣ると、美しい夕焼けが木々を黄金色に染めていた。
「ねえ、おじいちゃん。お夕飯作らなきゃ」
「もうそんな時間か? 今日のおかずは何だ?」
「おじいちゃんの言ったとおりに、お肉をお供えしてくださいって念じたけど、どうだろう……通じてなかったら、またご飯とお味噌汁だけだよ」
「それも良いけど、やはり肉が食したいな。ちゃんと心を込めて念じたか?」
「うん」
「だったらきっと通じている。何の肉を頼んだのだ?」
「肉としか考えなかった」
「そうか……まあ何とかなるだろう。楽しみにしておくよ。今日の勉強はココまでだ」
ペコッと頷いていそいそと厨房に向かうハナ。
その軽やかな足取りに、小さなため息を漏らすおじいちゃんだった。
ハナが厨房に降り立って、洗米を始めたころ、作業台の上にへぎで包まれた何かの肉と、大量のネギが現れた。
今度は生姜と料理酒、みりんと醬油もある。
「おじいちゃん、すき焼きにしよう。卵は無いけど良いよね?」
「卵? 何の卵だ?」
「何って卵っていえばニワトリじゃん」
「念じてみろ」
ハナは茶色い殻の卵を必死で思い浮かべた。
パコッという音と共に、ざるに入った卵が10個現れる。
「便利ね……」
ハナは今日何度目かの現実逃避をした。
無表情のままへぎを広げているハナの後ろにおじいちゃんが立つ。
「お! 雉肉じゃないか。なかなか気が利く奴らだ」
「雉? 凄いね。すき焼きじゃなくて焼き鳥にしようか。ねぎを挟んで串焼きにするの」
「南蛮焼きか! いいなぁ。たっぷり塩を利かせて七味を振ろう。たしか下賀茂の神が、この前手土産に持ってきたはずだ」
「塩分摂りすぎると血圧上がるよ?」
「神は死なんのだから問題ない」
ハナは雉肉の匂いを嗅いだ。
「うん、ちゃんと熟成されてるから匂いも少ないね。じゃあすぐに準備するからちょっと待っててね」
「手伝うか?」
「いいの? じゃあこの生姜をおろしてくれる?」
おじいちゃんが小さな声で『おろし金』と呟いた瞬間、その手にはすでにおろし金が握られていた。
それを見たハナが言う。
「そんな事ばっかりしてちゃ、人間がダメになっちゃうよ?」
「神だから問題ない。ちなみにお前も神のうちだからな?」
ねぎを洗っていた手を止めて。おじいちゃんの顔を見下ろすハナ。
おじいちゃんはハナの胸までしか身長がない。
どう見てもまだ子供だ。
「私も神なの?」
「ああ、そうだ。生きてるうちは神だよ」
ハナの顔色が少し悪くなった。
ねぎを適当な大きさに切り、生姜を擦り込んでよく洗った雉肉と交互に串に刺していく。
それを平ざるに並べて、ハナは炊飯の準備に入った。
もう手伝うことがなくなったおじいちゃんは、座敷に上がり酒を飲み始めた。
「おい、ハナ。今日はここで食おう」
振り返ると縁側にちょこんと座っている。
「良いね~ 焼きながら食べようか」
ハナは頭の中で小ぶりな七輪を思い浮かべた。
炊飯は薪を使うが、食材を直接焼くなら炭に限る。
できれば固い備長炭が好ましい。
「う……うぅぅぅぅ……」
こぶしを握り締めて、ハナが唸る。
コトンという音がして、ハナの足元に炭の詰まった七輪が転がった。
「できた! ねえおじいちゃん! わたしにもできたよ!」
ニコニコ笑いながらおじいちゃんが言った。
「あまり多用すると人間がダメになるぞ」
竈の火を炭に移し、縁側に持ち出す。
遠火になるように調整した焼き網が、しっかり熱を持ったのを見計らって、ハナが串焼きに塩を振った。
「すでに旨そうだ」
網にのせるとジュッという音がして、肉の表面が獣脂で光った。
こまめに返しながら、満遍なく塩を振り焼いてゆく。
途中で竈の様子を見に行ったハナの代わりに、おじいちゃんが真剣な顔で串焼きの世話をした。
「お! 良い匂いがするな! これは良き時に来たものじゃな」
初めて聞く声にハナが振り返ると、おじいちゃんの5倍はありそうな大男が縁側に立っていた。
「なんじゃ? 鼻の利く奴じゃな。お前など呼んでおらん。帰れ帰れ」
「そう連れないことをいうものではないぞ? 初物の桜桃を持ってきたのじゃ。どれ、今度の愛し子を紹介してくれ」
真っ黒な髭をたっぷりと胸元まで垂らし、少し癖のある髪の毛がわさわさと烏帽子の中から溢れだしている。
真っ白な狩衣に真っ白な袴、麻沓は履いておらず、笏を胸元に無造作に突っ込んでいる。
「い……いらっしゃいませ……」
圧倒されたハナがおずおずと挨拶をした。
「お前が此度の愛し子か。うん、なかなかの霊力と見た。羨ましいことじゃ」
大男がおじいちゃんを見下ろす。
「ハナが怖がっておる。改めよ」
大男は笑いながら首をコキッと傾けた。
「これならいいか?」
おじいちゃんと同年代の可愛らしい男の子がニコニコと笑っている。
「まあ良かろう。ハナや、これは北の熊野の神じゃ。熊のようであろう? 熊ジイと呼んでやれ」
ハナが吹き出した。
「熊ジイ……」
はっきりとした顔立ちの見目麗しい少年が、嬉しそうに頷く。
「それは良き名じゃ。ハナ坊、呼んでみてくれ」
ああ、こいつもか……と思いながら、ハナが呼んでやると、顔を真っ赤に染めて喜んでいた。
神って単純なんだなぁと思いながら、炊き立てのご飯を木桶に移していると、おじいちゃんが声を出した。
「ハナ! 焼けたぞ! 食べごろだ! 早く来い」
「はぁ~い」
木桶と茶碗を盆にのせ、ハナも縁側に座った。
少し欠けた月が二人の少年とハナを見守っている。
時折吹き込む風が、少年たちの長い髪を揺らす。
七輪の中で炭がはぜる音がした。
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