月夜に溺れて

蒼開襟

第1話

 古い一軒家の窓辺に座り煙草に火をつけると軽く吸い込んだ。続木雪久つづきゆきひさはぼんやりしながら外を眺めている。

 ふと階下から名前を呼ばれて立ち上がると銜え煙草で階段を下りた。

『なんだ?』

 階下の台所では親友の真舌義直ましたよしなおが背を向けている。


『客だ。出てくれ。』

 真舌はなにやら手が離せないらしく、仕方なしに雪久は玄関へと向かった。ガラッと戸を開くと、そこに美しい女が立っていた。彼女は着物姿で羽織っていたショールを畳むとにこりと笑う。

『こんにちは。真舌義直さんはご在宅ですか?』

『ああ、少しお待ちください。』


 雪久は台所へ戻り柱に寄りかかった。

『誰?』

『さあな、とびきりの美人だ。』

『美人?じゃあ、彼女かな。』

 真舌はうきうきと焜炉の火を落とすと玄関へ向かう。その後ろをそっとついていくと真舌は客人の手を握り締めて微笑んだ。

『いらっしゃい、菊ちゃん。』


 菊は頷き玄関を上がり履物をそろえる。傍で見ていた雪久に視線を送ると小さく会釈した。

 雪久は彼女を見送り部屋の隅に置いてあった自分の荷物を持つ。

『じゃあ俺は帰るぞ。あとはよろしくやれ。』

『ああ。』

 部屋の奥から真舌の機嫌の良い返事が聞こえて雪久は家を出た。


 戸を閉めて真舌と書かれた表札を横目に歩き出す。明るい空に目を少し細めて遠くを見る。夏真っ盛りだ。青い空に白い入道雲が浮かんでいる。

 銜えたままの煙草を指で持ち灰を落とすと、パナマ帽をそっと頭に乗せた。今年は気温が上昇をしていると新聞には書いてあったが、その通りに上がり続けている。


 町を歩く女たちは傘を差し、少し涼しげな着物や洋服を着ているがそれぞれの顔には暑さがにじんでいる。

 昨晩は真舌の家で夜を明かした。というのも真舌がやらかした問題が大きすぎて雪久もまた頭の痛いことだった。煙草をふかして煙を吐く。


 三年前、真舌はとある女性を孕ませて、その後無事に出産したらしいが最近その女性から連絡があったらしい。それも先日の話で雪久にとっては全てが寝耳に水だったが、どうやらそれに付き合えということらしい。昨晩は散々小言を言って酒を煽ったが、今朝になってみれば奴は上機嫌でその理由がさっきの菊ちゃんのようだ。菊は真舌の通う飲み屋の女中でやっとのことで口説き落としたらしい。真舌好みの女で着物の上からでも彼女の体の線が美しいのがわかった。顔はいわずもがなだ。指先でジジと煙草が燃えて足元に落とすと靴で踏みつける。

 真舌とは腐れ縁で学生の頃からの付き合いだ。なんだかんだと長く付き合ってはいてもお互いの異性交遊に対して口を出すことはなかったが。


 昨晩の真舌は饒舌で酒を煽っていた。

『だから、俺は別にあの人を愛してたわけじゃないぜ?』

 テーブルに突っ伏して酒を注ぐと真舌は雪久を睨んだ。

『確かに楽しんだし、でもまさか子供が出来るなんて思わないだろ?』

 雪久は後ろに両手をつくと溜息を吐いた。

『ああ、お前の言い分はな。それでその奥様とやらは子供が出来て三年も経つのにお前に何の用があるんだ?』

『さあな、でも多分だが口止めなんじゃないかと思う。そんな言いやしないのにな。』

『そうか?お前が俺に話してるのはそうじゃないのか?』

『いや、これは別に。雪久は誰かに言う奴じゃないからな。それと相手方の希望なんだよ、信頼できる奴を同伴しろって。』

『まあ、いいけど。でも仮にお前と寄りを戻したいとすればどうするんだ?』

 真舌はクッと酒を飲むとお猪口を見る。


『それはない。あの奥様は昔から旦那にぞっこんだ。それに俺には気になる子がいるしな。明日来てくれたら…。』

『ああ、飲み屋の?』

『そうそう。良い女なんだ。その気があるなら来てって誘ってみた。夜はアレだから朝にな。』

『へえ。そら叶ったらいいな。』

 雪久は苦笑すると真舌は口を尖らせた。

『来るって。脈ありだ、絶対に。』

 ハハハと雪久が笑う。それに抗議するように真舌はまた酒を煽った。


『それで来たと。』

 玄関で出会った菊を思い出してぽつり呟いた。雪久は前方を走る車に目をくらませながら片手を前に視界をさえぎる。

 まあ、あいつが幸せであるならそれで問題はないが…。


 車通りの多い場所で足を止めて左右を確認する。機会を見てまた歩き出すと人ごみに紛れた。この町は雪久の生まれ育った町だ。都会ほどではないが開発も進み随分と町並みも変わってきた。人の服装も着物から洋服と入り乱れている。雪久も同じく外出の時は洋服が増えている。


 胸元から煙草を取り出して銜え、火をつけようと視線を上げた。道路の脇に止められた車に乗せられようとしている女が悲鳴を上げている。痴話げんか?誘拐か?女が助けてと声を上げたために多くの人が足を止めてそれを見ている。雪久は答えを出す間もなく車に駆け寄ると女の手を掴んでいる男の手を掴んだ。

『何をしている?よくわからんが力でものを言わせるのはよくないな。』


 男は雪久を睨むと掴んでいた女の手を離す。

『なんだあんた!関係ないだろう!』

『ああ、関係はないんだが。』

 雪久は男の手をくるりと背中にまわし、もう片方も後ろで拘束する。男は前かがみに車にもたれると小さな悲鳴を上げた。

『わかった!わかったから離してくれ!』


 言葉に応じて男を解放すると彼は肩に手を当てて顔を上げた。

『あんた強いな。というかお嬢様は?』

『お嬢様?』

 男はきょろきょろと周りを見渡す。さっきまでここにいたはずの女の姿はなく彼はうな垂れて溜息をついた。

『しまった。』

『すまないが状況を説明してくれるか?』

『ああ、私は天宮博人あまみやひろと。』

 天宮はどういう状況にあるのか説明をしてくれた。


 とあるご令嬢を護送しているが、今日は問題があるのかそのご令嬢が逃げ出してしまったらしい。さっき捕まえてとにかく車に乗せて戻ろうとした所に、勘違いした雪久が邪魔をした形だったようだ。

『それは申し訳ない。』

 雪久が頭を下げると天宮は首を横に振る。

『いや、あんたのせいじゃない。でも探さないと…。』

『わかった。俺も探そう。元より俺のせいでもあるから。』

『そうしてもらえると助かる。』

 天宮は車に置いてあった鞄から写真を取り出すと雪久に手渡した。

『顔がわからないと探せないから。』

 雪久は天宮と手分けして彼女を探すことになった。


 彼は車の近くで探し、雪久は少し範囲を広げて彼女を探す。手元の写真に映る女性はにっこりとした笑顔だ。雪久は先ほど見た彼女の姿を思い出す。着物姿で街中にいればすぐにわかるだろう。

 帽子を少し目深にかぶり陽射しをさえぎると道行く人を観察した。彼女と同じ年頃の女はいるものの目当ての人物ではない。

 雪久は歩き出すと女たちが入っていく店へと入った。店の中は若い女で溢れており、雪久に視線を向けるとひそひそと話をし始める。雪久は軽く帽子を浮かせて会釈をし彼女を探す。眺めるように店内を調べるともう一度会釈して店を出た。何度かそのように店に入り彼女を探すが見当たらない。


 一度天宮と合流して情報を共有する。そしてもう一度探し始めると街角の喫茶店が目に入った。雪久は喫茶店に入り中をぐるりと確認する。奥の小さな席に今流行のパフェをつついている女の姿がある。雪久はふっと笑うと彼女の傍に歩みよった。

『お嬢さん、天宮くんが探しているよ。』

 スプーンを片手に固まった女は写真の彼女だ。しかし少し写真よりもふくよかに見える。


『ああ、もう見つかってしまったの?ふう。』

 彼女はスプーンを止めることなく食べ続けると勘定を済ませてから雪久の前に立った。

『ごめんなさい。行きましょう。』

 店を出て天宮の待つ場所へいく。天宮は二人を見つけると情けない顔をして笑った。

『ああ、お嬢様!何をしてるんですか!』

『悪かったわ。パフェが食べたくなったのよ。あなたに言っても連れて行ってはもらえないから。』

『そんなことはありません!天宮はいつでもお供します。』

 天宮の隣に立っていたお嬢様は雪久を見上げると深く頭を下げた。


『ご迷惑をおかけしました、わたくし近田雪江ちかだゆきえと申します。』

 雪久も会釈して名乗ると雪江が目を見開いた。

『聞いたことある名前…どこで聞いたかしら。』

『いえ、初対面です。ではこれで。』

 二人と別れて雪久は家路に着く。

 歩きながら雪江の顔を思い返したが心当たりはなかった。

『あ。』

 内ポケットに仕舞っていた彼女の写真が指に触れて声を上げる。

『返すのを忘れてしまった。』

 胸から煙草を取り出し火をつけるとポカリとふかした。まあ、次に会う機会があれば…。雪久は指で挟んだ煙草の灰を落とした。



 雪久の自宅は街中の入り組んだ場所にある。大きな敷地に美しい洋風の屋敷が建っており、続木と表札が飾られている。雪久はその家の前を通り過ぎて敷地内の庭を奥へと歩いていく。その先にある小さな一軒家が彼の家だ。

 古い日本家屋でよく手入れされている玄関を開けると、中で花を活けていた使用人のたまが雪久に気づいて微笑んだ。妙齢の珠は髪を顎の辺りで綺麗に切りそろえており、洋服の上に使用人用の割烹着を着ている。


『おかえりなさい、雪久さん。』

『ただいま、珠さん。花をありがとう。』

『いいえ。』

 珠は雪久の傍に付くと彼の荷物を持ち部屋へと運ぶ。

『いいのに…。』

 雪久は珠を見下ろして苦笑するも珠はにこにこと笑っている。廊下を抜けて部屋に入ると珠が荷物を置きすぐに立ち去った。それを待ってから雪久はジャケットを脱ぐと壁にそれをかけて机に視線を落とす。

『ああ、そういえば。』


 机の上の茶封筒には清廉せいれん女学院と刻印が押されている。中にはいくつかの案内書が入っており一昨日のうちに全て目は通した。来週からここに数日だが通うことになる。少し前に知り合いの恩師が急用で連絡を寄こしてきたからだ。学校側にもすでに対応済みらしく雪久は恩師の代わりをするだけでいいらしい。

『雪久さん、お食事どうされますか?よろしければお作りしますが。』

 廊下から珠の声がして雪久は戸を開いた。

『ああ、ありがとう。一緒に食べていくかい?』

『フフ、そうですね。ではそうします。』

『では手伝おう。』

 雪久と珠は献立の話をしながら台所へ向かう。二人でてきぱきと食事の用意をすると食卓を囲んだ。


『雪久さん、女学校の先生をなさるんですか?』

『うん、そうなるらしい。恩師の小鹿こじか先生がぎっくり腰でね、動けないそうだ。』

『あら、大変じゃないですか。小鹿先生って以前いらした結構なお年の方ですよね?』

『うん。女学校で良い所を見せようとしたらしくて…何をしたのかは知らないけど。』

 珠はお茶を飲むとフフと笑った。

『以前も思いましたけど楽しい方でしたからね。早く治るといいですね。』

『そうだね。ご馳走様でした。』

『いえ、お粗末様です。』

 食事の後片付けをしてテーブルを拭く珠が顔を上げた。


『雪久さん、このまま先生になられるんですか?』

『ああ…どうかなあ。俺としては小鹿先生の研究の手伝いが性に合ってるんだけど。』

『フフ、でも雪久さんが先生でやってきたら学生さんたち大変ですね。』

『そうだなあ、ちゃんとできるといいけど。』

『違いますよ。そういう意味じゃありません。』

 珠は口元に手を当てるとフフと笑った。


 夜が深くなる前に珠は雪久の家を出ると続木の洋館へと戻った。あちらには雪久の母方の家族が住んでいる。父はすでに鬼籍に入っており、母のきよの実母である美鈴みすず、祖母が実権を握っている。

 続木は反物など扱う商家であったが、最近は貴金属も扱っているようだ。ようだと言うのは雪久は関わりがないからである。雪久の父、高良たからは優しい男で雪久を自由に育てていたが、母、祖母とはそりが合わず、現在雪久が住んでいる家、離れに彼は一人暮らしていた。小さい頃は雪久も洋館のほうで暮らしていたものの、その頃あまりに過干渉な祖母に嫌気が差し父の家へと移り住んだ。父が亡くなってからは共に暮らした時間が少ないせいか、母や祖母からの干渉は少なく雪久は今も離れに暮らしている。青年になる頃に分かったことは続木の家と雪久もまたそりが合わないということだ。


 続木の洋館には沢山の使用人が暮らしている。珠もその一人だ。続木の者は使用人に強くは当たらないが、離れに行くことをあまり良く思っていない。だから珠が出入りすることは公然の秘密のように扱われているようだ。雪久は窓辺に座ると煙草をぷかりとふかす。これからもこれまでも続木の家と関わるつもりはない。

 貴金属を扱い始めてから家人の様子が変わったと珠が話していた。反物でも十分ではあるのに欲が出たのかそれとも他の理由があるのか。

『そろそろこの家も出る頃合かもな。』


 手入れの行き届いた住み心地の良い家を眺めてぽつりと呟く。雪久自身は学生の頃に世話になった恩師の小鹿雨月こじかうげつの元で研究員として働いている。小鹿は少し変わった男でいわゆる何でも屋のようなことをしている。教員でもあり、博士でもあり、医者でもある。彼の勧めもあり色んな資格を取り時々今回のような派遣もされている。雪久はこんなことでよいのかと思うが、何故か事がうまく回るために気にするのをやめた。小鹿という男は色々なつてがあるのだ。明日は真舌に付き合わなくてはいけない。煙草を片付けると窓を閉めて床についた。


 翌朝は雨降りだった。ただ天気雨のようでさらりと降った後、立ち込めていた雲も流れ晴れ間がのぞいている。雪久は起きだすと部屋の片づけをし、洗面所へ向かうと顔を洗う。長い前髪が濡れて櫛で後ろへ梳かしつけると部屋に戻り身支度を整える。姿見でジャケットを確認し眼鏡を内ポケットにつっこんだ。時間には余裕があるはずだ。雪久は家を出ると真舌の元へ向かった。

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