山の音がきこえる

笠井 野里

山の音がきこえる

 川端康成かわばたやすなりは鎌倉で『山の音』を書いた。そこで川端の魔力を得ようと思い立ち、ぼくは独り、二月特有の一面いちめん分厚い曇り空の下にある鎌倉に向かい、川端康成の家の前に来たが、山の音は聴こえない。家の前に薄暗い、死の匂いがする山がある。これがあの裏山である。ぼくは歩いて登り、登り、水子みずこの地蔵の連なるのを見ていた。


 山の音は未だ聴こえず、ぼくはつまらない顔して、階段を登り神社に行き、一礼二拍手。五円を二枚投げ入れて、やはり鎌倉の死のようで、死ではないただ物悲しいだけの無骨な静寂に耳を澄ませていた。

 ザクザク。と足音がする。そして少しの喋り声。


「静かだねー、ここは」

「ねー」

 後ろを振り向くと、セーラー服と学生服が四人。修学旅行生だった。

 ぼくは青春の邪魔をしないように、息を殺すようにした。ぼくは、彼らの青春に居ていい存在ではない。


 集団のざわめきが聴こえる。孤独なぼくにささくれ立つような感覚。

 きびすを返し、彼らに神社の静けさを譲り、足音すら立てずに去ろうとした。そのとき、震える男の子の、声変わり途中であろう耳障みみざわりで弱い声がした。


「すみませーん」

 ぼくに向けられたであろうその声に振り向くと、青春たちの一人がこちらによってきた。眼鏡をかけた少年。昔のぼくを思い出す小柄こがら、しかし昔のぼくとは違う仮面のない気弱さを持つ少年。その後ろには、どちらかと言うとクラスの隅にいそうな、赤いほほした少女二人と、反対に幽霊みたな青白い顔の少年一人が、不安そうな顔をしてこちらを見ていた。


 ぼくは立ち止まり、最近めっきりやっていない、ほほえみの顔を作る。それに安堵あんどしたのか眼鏡の少年が、

「写真、撮ってもらってもいいですか?」

 とたずねる。ぼくは、ここにいていいような気がして、作り顔のほほえみをやめ、一人旅の大学生の振る舞いになって、

「いいですよ」

 と、ひん曲がったもとの笑顔で答える。ボロの、学校支給であろう、ストラップのついた野暮ったく角張ったスマートフォンを受け取り、自分の中学時代は写ルンですだったなと思いながら横並びになる彼らの前に立った。


 スマートフォンを両手に少しかがみながら、もう葉の一つも残らない木々と薄白くなった神社を収める。そしてその前に立つ四人の曖昧あいまいな笑顔にピントを合わせた。

「もっと笑ってぇー!」

 ぼくの声で少し崩れた彼らの笑顔にいいねいいねと言いながら、スマートフォンの、カメラの白丸をタップする。

 カシャリ、鎌倉のあたりを囲む険しい山々に音が響いた。


「はいもう一回、いくよー! ハイ、チーズ!」

 カシャリ、スマホの画面が青春を写す。

「これでだいじょぶそ?」

 ぼくは眼鏡の彼にスマホを渡し確認をさせる。彼はほほえみ、ダイジョウブですと答えた。


 ぼくは安堵の表情をしながら、よかったとほほえみを返し、階段に向かってゆく。

「ありがとうございました!」

 眼鏡の彼のお礼にぼくは手をひらひら振りながら、

「修学旅行、楽しみなよ」

 と、先輩風を吹かす。

「ハイ、ありがとうございます」

 という四人の声が後ろから聴こえた。


 ぼくは行きとは違う明るい気持ちになりながら、階段を下ってゆく。下には古都鎌倉の、ため息つくような美麗びれいで武家の香りがする街並みが拡がり、その奥の、相模湾さがみわんの水平線の遠くの方に、レンブラント光線がさしていた。後ろからは写真よかったね、この神社静かでいいね、という声が、深い底力とともに響いている。


 ぼくは、山の音を聴いたな、と満足げに古都こと鎌倉を見下ろした。海岸の方へ行こうかと、ぼくは風のない曇り空に独りつぶやいた。川端康成の魔力を、ぼくはこのひとときで多少得た気分になっていた。

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山の音がきこえる 笠井 野里 @good-kura

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