話を聞きに
今日は丘の上の老婆のところへ話を聞きに行く。彼女はずいぶん年を取っていて、誰も何歳なのか知らない。
それが本人にもわからないんだと、彼女のことを教えた男は言った。彼はおそらくは二十代のうしろあたり、三十にはなっていないように思われる。
婆さんはさ、ただ生まれた日の月だけ覚えているんだと。それは丸々と肥った満月の晩で、夜のうちに生まれた、って聞いたよ。それだって本当のことは誰も知らない。何せ婆さん以外はみんな死んでしまったんだから。婆さんの親も、兄弟姉妹も、いたのかも知れないがとっくの昔に死んでしまった。甥や姪たちも。婆さん自身に子供はいない。自分は婆さんの甥の孫だよ。少なくともそういうことになってる。やっぱりほんとのところは誰も知らないけどね。それで、婆さんの面倒を見ているのさ。
丘へ続く道は細く、落ち葉に分厚く覆われていた。坂道に、周囲の森は豊かだった、横目に見るだけでもずいぶん種類がある。樫、楢、楓、胡桃――名前を知っているのはそのくらいのものだったけれども。ときおり、それらの木々の上を走る栗鼠の足音がし、いくつかの響きの違う鳥の声がする。
思い描かれる郊外の風景。空気はしんとして甘く、香りと味の実体をそなえ、どこか空虚な懐かしさをたたえている。懐かしさ――それを覚えるための手がかりなど、ひとつもありはしないまま。見知らぬ景色、はじめて触れる場所。それでも強く働きかける郷愁があった、帰り方もわからないどこかへの。
やがてゆるやかな勾配の先に、ひどく小さな一軒の家が建っている。すべて木製の壁と屋根とドア。たったひとつ金属製の、鳥の首のように細い煙突が一本立っている。ブリキだろうか。白く塗ったペンキの痕はところどころ剥げかけて、下の木目がぽろぽろと覗いている。幅木にはずいぶん泥が溜まっていた、砂と枯葉、虫の亡骸でこねられた泥。
たわんだ板が敷かれたポーチを踏む、なんだってまた木で作ったのだろう――敲戸子を打つ。それから人の気配が聞こえるのを待ち、心持ち声を大きくして呼びかける、こんにちは。お孫さんからご紹介をいただきまして。
鳥の歩くような軽やかな足音、言い終わるよりも早く扉が開いた。
わたしに孫はおりませんのよ。ごく静かな声、暗がりのなかに顔はそれほどはっきりとは見えない。ええ、あなたのことは聞いていますよ。こんな年寄りの詰まらない話を、わざわざ遠くから聞きにいらした、奇特な方なんですってね。
予想に反して、部屋は暖かかった。小さな暖炉はよく手入れされ、火が赤に黄に橙に燃えている。机の上にはティーカップと干した杏の皿が、二つずつ並んでいた。ごくかすかに海の――潮の香りがする。
何から話せばいいのでしょう、と彼女は言った。どんなことでも。私は答えた、あまりお疲れにならないよう、話しやすいように聞かせていただければ……。彼女は笑った。さて、どうかしら。
昔話をするというのは疲れるものよ、若者年寄りにかかわらず。それが幸せなものであるなら、なおさらのこと。あなたにも覚えがあるのではないかしら。
それにわたしのいたところは、ほんとうにきれいで、ふしぎで、そうしてきっと、誰もが懐かしく思うようなところだったのよ……。
彼女はその膨大な老齢に見合ったしなやかさで、ティーカップを持ち上げた。かすかに震えるその指と指の間には、血の通った膜のようなものが張っている。その膜の傍らから、手指を覆うように拡がる、ひどく頼りなげに白い、薄い鱗の群れ。首筋には半ば消えかかったかすかな亀裂――鰓の痕。
そうして彼女は話し始めた。いまはもうどこにもありはしない国の思い出を。
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