水没都市

十戸

水平線

 鳥が飛んでいる。広い空のなかにたった一羽、しなやかな翼に風を捉えて。灰色の羽に覆われた全身のなかで、尾羽だけがぽつりと黒い。

 鳥の眼下には、ひどく大きな水があった。一面の海――視野の果てまで広がる海。その青さ。暗さ。うねりながらただひとつの相のうちに目まぐるしく色を変える。入り混じり、かすかに漂う緑の余韻。月によってせり上がり、やがて砕ける波頭の白さ。空と海、それぞれに異なる青が、一筋の水平線を境として鏡あわせに世界をとざしていた。

 雲はなかった。天上高く横切る太陽はどこか青褪めて見え、降り注ぐ光の質は奇妙に白けている。見晴るかす水面みなもはかすかに煌めきながら、けれど輝きはしなかった。

 ふと海中から何か鋭いものが一本、天を突く針のように飛び出していた。鳥の嘴よりずっと長く、細くとがった黒いもの。片側を優美な曲線の彫刻が覆い、それを下向きにして海中深くへと伸びている。

 底は見えない。ただその影が、水のなかの太陽へと、屈折しながら揺らめいているばかりだった。ひとつきりではない――得体の知れない巨大な黒針は、ずいぶん距離を置いて点々と、あちこちの水中から天に向け腕を伸ばしていた。

 鳥は羽をばたつかせ、鋭いものの先端にとまった。ひとや獣の脚ではこうはゆくまい。鳥のそれらしい軽やかな着地。

 水を透かして魚が見える。時折その背びれが海面を撫で、あるいはわずか飛び出す。鳥が瞬く。じっと魚を見つめる。そこに泳ぐ魚はどれも、この鳥が獲るには大きすぎた。

 鳥は再び翼を拡げた。赤く鱗じみた肌に覆われた足で黒針を蹴る、宙へ飛び出す。そうして一声甲高く鳴く、応える声はなかった。この鳥よりほかに空を飛ぶ影さえありはしなかった、ただ空と海、一羽の鳥と無数の魚たち。

 波音と風、それらのほかに聞こえてくる音はない。陸は見当たらなかった。いまやどこにも。

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