涙から始まる物語

李恩

涙から始まる物語




楊奉の眼下に、女が横たわっていた。


土気色の顔色から伺い知れるように、その女にはもうや命の息吹は感じられなかった。


その事実を、楊奉はどう受け止めて良いのか、しばし迷った。

本来ならば、悲しまねばならないのだろう。

だが、悲しみはいっかな湧いて来なかった。

その女は、楊奉の妻だった。



やはり、悲しむべきなのだろうな。



そんなことを、冷静に思った楊奉の耳に、隣家の庭から、激しい慟哭の声が届いた。

通常、誰しもがそうするように、楊奉も何気なくそちらを見た。

そこには、隣家の主の姿があった。


地に額を擦り付けるようにして泣きながら、両の拳で地を叩いている。



ああしなければならないのかも知れんが…。



隣家の主の素直な感情の吐露を見守りながら、楊奉は依然として、全く悲しみが湧かない己の気持ちにため息をついた。


致し方ないと楊奉は思う。

妻は、自らが望んで娶った者ではない。

知人に勧められ、致し方なく妻にしたようなものだったのだ。

妻も、望んで来たのではない。

それは、端から明らかであった。


妻は、楊奉の出自を何よりも嫌っていた。

白波賊の頭であったという、いわゆる賊徒の出自を卑しんだのだ。


それも当たり前と、楊奉はあまり気に留めなかった。

気には留めなかったが、心地が良かったというわけではない。

むしろ、妻といる時間の心地悪さは予想以上のもので、楊奉は数日も経たぬうちに家を明けるようになった。


そうして、1年ほどが過ぎたろうか。

主の李傕に従って遠征している間に、長安で謀反が起きた。

最強の武人との呼び声が高い、あの呂布が、義父の董卓を討ったのだ。

董卓の死は、董卓麾下の将兵たちに多大な被害をもたらした。


同じ董卓麾下の将兵でも、長安にあって、謀反に荷担した者はいい。

その命を永らえることができたのも当たり前だ。

だが、遠征していた者の家族たちは、守ってくれる者がないままに、造反の兵らによって犯され、略奪され、無惨に命を奪われた。


楊奉の足下に横たわっている妻は、その暴力の下に散った命の成れの果てだ。

心が通じる日を望みはしなかったが、その機会も与えられぬままに、永遠に言葉を交わすこともなくなってしまった。


美しい女ではあった。

気の強そうな目をしていたが、それでも十分に美しく、艶やかな黒髪も人目を引くほどの女だった。


だが、土気色をした肉の塊になった彼女は、もはやその美しさの片鱗もなく、流れた風に腐臭まで漂わせる厄介な代物に成り果てている。


もはや、悲しむことのできぬ己の心に無理強いしても致し方無しと、楊奉はそれを諦めて妻の死体の処理をいかにすべきか考え始めた。

造反軍が逃げ散った後、死屍は長安中に放置され、そこかしこで腐臭をまき散らしている。

楊奉の妻もまた、路肩にでも放り出しておけば、数日を経ずして誰の死屍かも分からなくなるだろう。


だが、そうしてただ放置するに任せてよいものか、楊奉は迷った。

迷って、また何気なく隣家の庭を見た。

隣家の主はいつの間にか慟哭の声を上げることを止め、今ではぼんやりと座り込んで、虚ろな目を虚空に向けている。


隣人には幼い男の子があったことを思い出す。

愛妻家だと噂されていたことも思い出す。


再び足下の死屍に目を向けて、楊奉はため息を落とした。

楊奉の妻も、隣家の男に嫁いでいれば、少しは幸せであれたかも知れないと、ふと、そんな風に思ったのだ。

少なくとも、隣家の主は出自が賊徒ではない。

歴とした役人で、州刺史を勤めたこともあるはずだった。

その来歴ならば、妻も厭いはしなかったろう。


楊奉は、初めて妻の亡骸の上に屈み込んだ。

恐怖と驚愕に開いたままの、死屍の瞼を閉じてやる。

そうして、直ぐ側に穴を掘り始めた。


素手で幾らも掘れはしないと分かっていたが、なぜか手は止まらずに動き続けた。

いつの間にか、目の前が曇ってくる。

それが、涙を流しているせいだと気づくのに、楊奉はしばしの時を必要とした。


悲しみなど、相変わらず湧いてこない。

元々、心の通じ合うことのなかった妻に、愛惜はない。

喪失感もまるでない。

だが、楊奉の心は確かに哀しいと叫んでいる。


何が哀しいのか、なぜ涙が流れるのか。


愛し愛され、生死によって分かたれた夫婦ではない。

むしろ、厭いあい、言葉すら満足に交わさなかった夫婦だ。

それなのに、何が哀しいというのか。


頭を強く振り、理由の知れぬ悲しみから逃れようと涙を降り飛ばした楊奉は、ふと、背後から落ちた影に振り向いた。

視線の先に、男の靴先が見える。

ゆっくりと視線を上げてゆくと、隣家の主の顔が見えた。

悲しみに打ち沈む、真っ赤な目が楊奉を見下ろしている。

その瞳は、楊奉の視線と出会うと静かに頷いて、楊奉の隣に腰を下ろした。


「お手伝い致そう…」


そう言った、隣家の主の声は掠れていた。

慟哭に、喉を枯らしたのに違いない。

そう、楊奉が気づく側から、楊奉同様、素手で土を掻き始めたその手を、楊奉は不思議なものを見るように見下ろした。

自身の悲しみで一杯一杯だろう隣家の主の、その行動の意味が分からない。


「貴殿のご家族は、宜しいのか?」


楊奉がそう問うと、隣家の主は手を止めて楊奉を見た。

うっすらと苦笑いして、ぽつりと言う。


「一人で、葬るのは、辛すぎる…」


楊奉は、その言葉に頷いた。

そして、同じように、ぽつりと小さく言う。


「貴殿のご家族が時には、それがしがお手伝いしよう」


それが、おそらくは楊奉と宋果の、縁の始まりであっただろう。

いつしか腐れ縁かと思うほどに、彼らは親しい付き合いを重ねてゆくことになる。




おわり



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 後に楊奉と宋家は主の李傕に反旗を翻し、三国志演義では宋果はそのときに処刑されたことになっています。史実でも、その後は宋果の名が史書から消えているところから、死亡ないし逃亡し、歴史から消えたのでしょう。


 彼らが友誼を結ぶに至った経緯は史書にも演義にもなく、作者の勝手な創作ではありますが、呂布が董卓を攻撃したときには、多くの将兵やその家族が犠牲になっただろうことは想像に難くありません。


 いずれにしても、どちらもマイナー武将(特に宋果)ではありますが、楊奉の去就は作者の興味を大いに引いてくれるもので、今後はもっと本格的に楊奉の物語を書いていきたいと思っています。


 因みに楊奉は、魏の名将徐晃が曹操の前に仕えた主であり、最終的には劉備に殺されたと言われています。この駄文では呂布の反乱の被害者になってますが、その後、呂布のもとに身を置いたりもします。


 数多の英雄英傑が跋扈した時代においては、その他大勢の武将の一人という印象がありますが、楊奉はその中では有名な武将たち(前出の呂布や徐晃、劉備など)と関連が深いほうかな? と思います。

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