沈んだ日から

彩世悠陽

沈んだ日から

 浮上できなくなってしまった。


 私が今いる場所はたしかに地上で、なにも水中に沈んでいるわけではない。けれど、水中よりも厄介なものに沈んでしまったのも確かだとわかる。何度も何度も沈んだことがあるのに、いつまでも対処法がわからない。抜け出し方がわからない。


 午後八時。友達が帰って一人暮らしの部屋に一人。沈黙の中をサイレンが通り過ぎた。エアコンの風が前髪を揺らした。照明のひもを一度だけ引く。晩ご飯はまだ食べていない。

 話をした。昔の話だ。地元から一緒に出てきた友達に、もう時効だからいいかな、と高校生の頃に無理やり飲み込んで見ないふりをしていた本音を打ち明けた。もう自分を深くさらさないと決めたはずだった。本当の自分を知られてしまえば、それまでに慎重に積み上げた関係ごと崩れてしまうのだから。

 私はまた、大切にしたかった友達を失ってしまうのかもしれない。


 玄関で友達を見送って、戻ってきたまま座った椅子から立ち上がれない。おなかはもうずいぶん前に空いていた。むしろ今は空腹を感じない。

 ご飯はやめてお菓子で済ませてしまおうか。お風呂は明日起きてから入ればいいか。初めて完徹に挑戦してみてもいいかもしれない。椅子にしがみついたまま、どろりとした気持ちを抱えるこころが背徳感のある行動を次々に提案してくる。


 結局、これまでの人生を規則正しく生きてきた私が背徳感に完敗することはなく、お菓子を食べてお風呂に入るという小学生のわがままのような行動をとった。

 お風呂にさえ入ってしまえば完徹などという考えはどこかへ消え去り、まわらぬ頭をのせた体は習慣に忠実で、しっかりマスクを着けて布団に潜り込む。

 今回は浮上できるまでどのくらいかかるのか。何日か、何週間か。直接の原因から離れたところに深みがあるというのもまた厄介なことだ。ヒントは、まだない。


 こんなにも浮上しようと考えながら、浮上するまでの沈んだ期間の自分が私はわりと嫌いではない。このまま起きていても思考は空回りを続けるだろう。どうせそう簡単には抜け出せないと知っている。今日は諦めるという選択肢が目の前にあった。

 睡魔とは呼べないくらいのふわふわと漂う眠気をつかみ、私は明日からも続く浮上までの日々へ足をふみいれた。

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