第2話 四月

   1


 入学式は退屈だった。

 体育館の壇上で得意げに話す校長の話を聞き流し、おれは無駄な

時間をやり過ごしていた。

 開け放たれた扉からクソおもしろくもない春の風が緩やかに吹き込んでくる。桜の花びらがふわふわと紛れ込んできて、居並ぶ生徒たちの頭のうえを所在なげに漂っていた。何もかもがくだらなく見える。

 春は性に合わない。

 おれはこみ上げてくるあくびを口のなかでかみ殺した。


 県立領南高校は今年で八年目の新しい高校だ。生徒数の増加から、ここ数年続々と誕生している新設校のひとつだ。

 校舎は神奈川県のだだっ広い平野部にあって、やや高台になった丘の上にある。周囲には点在する住宅地。あとはなにもない。周辺で名のある場所といえば、丘の下を流れる金目川と貝塚だけだ。貝塚は公園になっているが、それとわかるのはせいぜい小さな石碑くらいだろう。そして校舎の周りはただただ緑色ばかりがまぶしい。

 鉄筋四階建て二棟からなる校舎はまだ完成してから五年しか経っていない。体育館は二階建て。二階にコート二面と行事用のステージ。一階は半分のスペースに道場、残りは屋外のフリースペースだった。プールはまだない。完成は再来年の夏前という話だ。それまで体育で水泳の授業はない。おれは三年になっている。切実なのは、売店や自動販売機が校門の内側にないことだ。近所にはコンビニすらない。昼時に出入りの業者がパンを売りに来るらしい。ただ、種類も量も限られている。完売必至の昼時は激しい争奪戦だという。まるで発展途上国の農村みたいな学校だ。

 一学年五百名ちょっと。クラスは十二。一年の教室は北側校舎の三階と四階。各教室に四十人あまりの生徒がぎっしり机を並べる。真新しい制服とこぎれいな机。窓外には山の緑。鳥のさえずりがのどかに聞こえてくる。

 周りは知らない顔ばかりだった。数少ない学区外入学者。知っている顔は同じ学年に一人、一学年上にもう一人。それだけだ。

 通学時間は自転車で三十分。それほど遠い距離ではないが、バスと電車を乗り継ぐとおおむね三倍くらいかかる。公共交通機関に直通ルートがないせいだ。交通手段としてはほとんど機能しない。これからの三年間、おれは雨が降ろうと、雪が積もろうと、自転車をこいで通学するだろう。いや、雪なら休むか―。

 もちろん、あえてこんな高校を選んだ理由はある。ただ、いまはその理由がどれほどの意味をもっていたか―。正直なところ、半分どうでもよくなっていた。

 おれはもう一度あくびをかみ殺した。


 入学式は退屈度が加算されて一層長く感じられた。

 大勢の知らない顔に囲まれて、廊下をひしめき合うようにして教室まで戻ってきた。

「おい、大村」

 前の席で斉藤明が振り返った。おれの知っている同学年で唯一の顔。偶然にせよ、必然にせよ、十二分の一の確立で知っている顔は同じクラスだった。

 中学時代には一度も同じクラスにならなかったが、部活では毎日顔を合わせていた男だ。

 おれたちは窓際から三列目の前寄りに陣取っていた。おれが後ろで、斉藤はひとつ前。

「お前、いつから出るんだ?」

「なにに?」

「部活」

「あぁ……。ま、おいおい……だな」

「今日は出ないのか?」

「気が向かない」

「じゃ、帰りにゲーセン行こうぜ」

「ゲーセン?」

「ドンキーコング」

 ゲームセンターか―、とおれは少し戸惑う。でも、一瞬だった。

「好きだな、お前」

 やる気が起きない。その理由を季節に押しつけた。

「じゃ、決まりな」

 そう言って斉藤はにやりとした。




   2


 初日は入学式だけだった。

 中垣竜二と北澤聡は誰もいなくなった教室で着替えを済ませると、体育館の端にある体育教官室へ向かった。

「おう、来たか」と教官室に入るなり、一人の教師が満面の笑みを浮かべて片手を挙げた。

「よろしくお願いします」と北澤は頭を下げた。

「お願いしまーす」と中垣も型どおり北澤に合わせた。

 中垣と北澤は小学校からの同級生だった。ともに中学の三年間は陸上部で長距離。北澤は中学三千メートルの公式記録で昨年の県ベスト三十に名前がある。中垣も北澤には及ばないが、九分台の記録を持っていた。

 この二人は陸上部顧問の坂本清二が幾度となく中学に足を運び、勧誘に力を注いできた期待の新入生だった。

「練習は一時からだ。昼飯を食ったらグラウンドに来たらいい。いいなぁ、おい」

 坂本は笑顔を振りまきながら二人の肩をたたいた。二人にはなにがいいのかさっぱりわからない。

 教官室を出ると、まず中垣が口を開いた。

「おい、ホントに今日から出るのか?」

「大根(おおね)高校じゃ、春休みから新入生が呼ばれたらしい」

「へーえ……」

 中垣は気のない返事をした。

「いいさ。お前、帰りたきゃ帰っても」

「え? いいのか?」と一瞬表情が明るくなる。

「差は広がる一方だな」

「うるせぇ!」

「なにか気に障ったか?」と北澤は淡々と返した。

 教官室から渡り廊下を通って校舎二階の廊下に出ると、ちょうど前から女子生徒が一人歩いてきた。やはりジャージに着替えている。

「高校生になっても相変わらずね」

 青井菜幹だった。

 鼻筋のしっかりした小作りな顔は、まだ春だというのに浅く日に焼けていた。前髪の長いショートカットをヘアピンで留めている。長い脚が全体的にスリムな印象を際だたせる。中垣たちとはやはり小学校からの同級生で、同じ陸上部。昨年の中学通信陸上の県大会で、百と二百の二種目で優勝している。校内はもとより、県下でもっとも注目される新入生の一人だった。

「お前も今日から出るのかよ?」と中垣が訊いた。

「当然でしょ」

「好きだねぇ。お二人さんとも」

 中垣はあきれた表情で窓の外に目をやった。そこから見えるグラウンドにはまだ人の姿はない。

「あんたはもっと向上心持った方がいいわよ」

「うるせぇ。余計なお世話だ!」

 中垣は雑草をかじったような苦い顔をした。

「じゃ、あとで」と北澤は素っ気なく言った。

「うん」

 そんな北澤と菜幹のやりとりの脇で、中垣はアカンベーをした。




   3


 結局、おれと斉藤は学校からまっすぐ伊勢原駅へ出た。ゲームセンターは北口の駅前にある。パチンコ屋の二階にあるこきたない店だ。

 狭いフロアには二十台ほどのテーブル・マシンがひしめいていた。各々(おのおの)が無機的な電子音を好き勝手に奏でている。無気力な音(ノイズ)。ゲーム機はただ淡々と自分の仕事をこなしいてた。不安と不愉快の象徴。時は浪費され、未来は押し潰され、じわじわと埋没してゆく。そしておれは抗いもなくそれを受容している。出口の見えないこの場所に立ち尽くしている。

「お前、知ってる?」と斉藤がマシンのスティックを握ったまま、前屈みの姿勢で言った。

 店には数人の客がいた。すべて男。高校生か大学生。あるいは浪人生。やはり前屈みで熱中している。おれは斉藤の隣で縁の破けた丸イスに座り、斉藤のプレイをぼんやり眺めていた。

「政治の話か? それとも経済か?」とおれは適当に返した。

「お前にそんな話するもんか」

 あたかもバカ呼ばわりせんがごとくに顔を持ち上げる。その瞬間、画面のなかでマリオが樽の直撃を受けた。

「あー!」

「アホ」とおれはため息をついた。

「富士見中の北澤と中垣って覚えてるか?」

 すぐさま登場した新しいマリオを操りながら、斉藤は質問した。

「さぁ」

 中学の名前すらぼんやりだ。

「お前、ホントに中学で陸上やってたのかよ……」

「一応」

 そもそもおれたちの進路選択の第一義は陸上部だった。頭の出来がもう少しよければ、学区内にある大根を選ぶのが普通だが、おれも斉藤もちょっと足りなかった。

「そいつらがなんだよ」とおれはいくぶん不機嫌になって訊いた。

「領南(うち)にいるらしい」

「ふうん。速いのか?」

「二人とも九分台」

「そんならおれとおんなじだ」

 三千メートルで九分台の時計は、遅くはないが、速さの証拠にはならない。

「お前はぎりぎりの九分台だろ」

「うるせー」

「中垣のほうはお前とどっこいだけど、北澤は去年の県ランキングでベスト三十に入ってたはずだ」

「お前、よく知ってるな」

「お前が知らなすぎるんだよ」

 そう返しつつも、もう気持ちはゲームに向かっている。

「いったい何やってんのかね、おれたち……」

「ゲーム」

 せわしなく左手のスティックを動かしながら、斉藤はたった一言吐き捨てるように答えた。

 おれはため息をついた。

 五面まできて二人目のマリオが樽の餌食になった。おれは小さくあくびをかみ殺した。




   4


 入学初日から練習に参加した新入生は全部で六人だった。女子の短距離に青井菜幹、そして男子の長距離には北澤聡と中垣竜二の他、三人の新入生が入部していた。

 高校の短距離と長距離は練習内容に明確な違いがある。一緒に動くのは最初のウォーミングアップくらいで、その先は別の部と呼んでもいいくらいだ。最初から別メニューになる日も珍しくない。

 トラックは一周二百五十メートル。野球部のダイヤモンドが隣接していて、時には白球が飛び交うなかで走ることもある。とはいえ、中学時代に二百メートルトラックで走っていた中垣たちにとっては、たとえ五十メートルでもその違いは大きかった。

 長距離グループの新入生は別メニューだった。アップのあとに六千メートルのジョグ。千メートル四分程度でトラック二十四周。北澤と中垣には物足りない内容だった。

 ペースはこの二人が作った。あとの三人はそれを追いかける格好で続いた。

「速くないか?」と時おり北澤が後続を気遣うように振り返った。

「問題ない」と返事ができるのは一人だった。残りの二人は周を重ねるごとにじりじりと遅れてゆく。

 ともするとアップしがちになる中垣のペースを、常に北澤が半歩後ろの外側でコントロールした。中垣には気遣いなど微塵もなさそうだった。

 北澤はやれやれと思う。

 もう少し周りに合わせろよ―、と。

 一方で、中垣は別のことを考えていた。

 自分と北澤に平然とついてくるこいつは誰だ―。

 その疑問が自ずとペースを上げさせる。

 結局、最後は三分半を切るくらいまでペースは上がった。そして三人は一塊で二十四周を走りきった。残りの二人は完全に取り残されて周回遅れになった。片方は二周遅れ寸前だった。

 この日はこれで終わりだった。上級生たちはロードコースに出ている。二時半を過ぎても戻ってくる気配はない。

 北澤たちは早々にダウンを終えた。

 顧問の坂本清二がにこにこした顔で五人の前に立った。

「よーし、よくがんばったな」と坂本はうなずいた。

「疲れたろう」と言いながら左端に立つ男の両肩をつかむと、笑顔を交えてもみほぐした。パーマで頭が丸く爆発している男だった。早々に遅れた片割れ。そんな頭をしていても、坂本はまったく意に介していないようだった。

「今日はゆっくり休んで、明日からまたがんばろう。なぁ」

 そう言って、今度は中垣の肩を叩く。

 想像していたよりずっとあっけない―。

 北澤と中垣は肩すかしを食らった気分でいた。

 まだ練習の続く短距離・投てきグループを尻目に、グラウンドの端に沿って伸びる四段組みのコンクリート段で、中垣たちは制服に着替えた。

 グラウンドでは青井菜幹が上級生に混じって同じメニューをこなしていた。ふと、その視線が中垣と北澤に向けられて、小さく手を振るのが見えた。中垣は段の上で尻を突き出して、ジャージのパンツをちらりと下ろして見せた。片や北澤のほうは我関せずの風情でまるで気付いていないかのようだった。菜幹にしてみれば、どちらも気に障る。

 なぜ、普通にできないのよ―、と二人に向かって舌を出した。




   5


 新入生は全員自転車通学だった。

 練習で遅れた片方は早々にグラウンドを後にした。先生に肩をもまれたパーマ頭。制服のズボンは土管。靴はてかてかのエナメル製に履き替えた。派手目のおばさんパーマは全校生徒のなかに入っても目を惹く。陸上部内ではいっそう際立っていた。目つきが鋭く、なにかの拍子にふっとたばこの香りが匂い立つ。放課後の校庭にいる種類の人間には見えない。

「ありゃあ、時間の問題だな……」

 北澤と中垣に最後までついてきた男が、その後ろ姿を見送りながら呟いた。

「なんであんな野郎が入ってきたんだ?」と中垣はつばを吐いた。

 残った四人は着替えを済ませると、連れだって自転車置き場まで歩いてハンドルを握った。

「お前、速いな。中学は?」と中垣は訊いた。

「湘北の藤井だよな?」

 北澤が割って入る。

「知ってんのか?」と中垣はへぇーっと意外そうな表情で北澤を見た。

「何度も大会で顔合わせてるだろ」

「あ、お前がそういうこと言うか?」

 つまりそこそこ速いのだろうと中垣は思った。そうでなければ、いちいち名前を覚えるような男ではない。遅い選手には無関心。その部分では中垣も同じだった。ただ中垣の記憶に残るのは、直接競って負けた相手だけだった。たとえ同じレースを走っていても、はるか先にいる相手はどうでもよかった。一方の北澤は、たとえ一緒に走ったことがなくても、自分より速い選手は全部知っていた。一度の勝ち負けで優劣を決めつけることもない。負けて歯牙にもかけない相手もいれば、負かして覚えている相手もいた。

「お前らは富士見の北澤と中…なか……中山だっけ?」

「中垣だよ」

「そうそう中原中原」

「中垣だよ! 耳悪ぃのか、この野郎」

「富士見の北中(きたちゅう)コンビって言えば、市内で陸上やってる奴ならみんな知ってるからな」

「お前、いま忘れてたろ。おれの名前」

「まさか領南で一緒になるとはなぁ」

「無視すんなって……」

「去年の秋の県大会覚えてるか?」と藤井はかまわず続けた。

「知るか!」

 その大会は中垣にとって中学最後のトラックレースだった。そしてその年、決勝に残れなかった唯一の大会でもある。

「三千の決勝で北澤はおれよりはるか先にいたな」

「だから無視すんなよ……」

「そうだったか?」と北澤は記憶をたどるように答えた。

 北澤には苦い思い出しかないレースだった。ウォーミングアップに失敗して惨敗した。そのせいもあって後ろにいた選手のことはほとんど覚えていなかった。

「ま、結局平塚から三千の決勝に残ったのはおれたち二人きりだったもんな」

「自慢か? おい、それは自慢か?」

 中垣が藤井に食ってかかる。

 四人は校門で自転車にまたがると、坂道を下って夕方の影が伸びる方向にゆっくりペダルをこぎ出した。

「なぁ、お前は?」

 藤井は後ろを走るもう一人を振り返った。男はえっという感じで藤井の顔を見て、それから中垣と北澤を見た。

「おれは八百やってたから……」

「八百?」と藤井。

「短距離いったほうがいいんじゃねぇか?」と中垣は言った。

「いいんだ。短距離じゃ自分の限界見えてたし」

「長距離でも見えてたりしてな」と中垣がからかう。

 横から北澤がその後頭部をひっぱたいた。

「まぁ、中距離って高校レベルじゃ位置づけ曖昧だしな。よし、がんばってこうぜ。なぁ、中島!」と藤井は中垣の肩を叩いた。

「おれはカツオの友だちか? お前、わざと言ってるだろ?!」

 中垣はかみつくように怒鳴った。

 ただ、中垣もさほど不愉快を感じていなかった。この男には不思議と相手を不快にさせない空気がある。初対面でこんなふうにからかわれても、腹立たしい気分がわいてこない。どこか流れに乗せられてしまうようなところがある。

 調子狂うぜ―。

 中垣は苦々しげに顔をしかめた。

「そういえば、決勝に残った奴でもう一人うちに来た奴がいるらしいぜ」と藤井は思い出したように言った。

「へぇー」

「なんて奴だ?」と北澤は訊いた。

「なんてったかな。学区外から来た奴。今日は来なかったな」

「どーでもいいぜ。そんな野郎はよ。だいたい今日来てなかったってことは、陸上部に来るかどうかもわかんねぇだろ」と中垣は切り捨てた。

「それならわざわざ学区外の新設校なんかに来ないだろ」と藤井は切り返した。

「変わり者なんだろ。いや……、おれ様の存在を知って逃げたか」

「お前は何者だよ……」

「お前も今日はいやいやだったよな」と北澤が追い打ちをかけた。

「要らんこと言うんじぇねぇ!」

 藤井は冷ややかな視線を中垣に向けた。




   6


 翌日からは通常通りの授業が始まった。

 なんのために勉強するのか―。

 少なくとも、おれの未来にモノの質量や、古文の動詞活用、√やπといった記号は必要なさそうだ。いい成績を取るため。自己顕示欲のため。ひいては進学のため。

 どれもピンとこない。

 とにかくおもしろくなかった。なにひとつ意欲の沸く対象がない。

 幸いにして始業式からその週の終わりまでは平穏に過ぎ去った。おれはただ漫然と家と学校のあいだを往復した。凪いだ海は水平線の彼方まで続いているかに思えた。しかし時化(しけ)は週明けとともに突然やってきた。

 陸上競技に対する意欲はいっそう減退に向かっていた。

 いっそ斉藤共々帰宅部になるか―。

 受験前には考えもしなかった思いがよぎる。

 弁当を食ってしまえば、もう仕事は終わったも同然だった。昼休みの残り時間を机に突っ伏して寝ていると、いきなり頭をひっぱたかれて、おれは目を覚ました。

 ぼぉっとしたまま頭を上げると、もう一度殴られた。

 目の前に見覚えのある顔があった。痩身でひょろっとした印象だが、全身にまとっているがっしりした筋肉は学ランの上からでも見て取れる。切れ長の目が細い眉と相まって阿修羅のようだ。斉藤ではない。

「あれ……」とおれは久しぶりにその阿修羅顔を見た。

「やる気がないのか?」

 不気味なくらい口調が静かだ。

「えーと……」

「どうして来ない?」

「ちょっと風邪気味で……」

 見下ろしてくるその表情が明らかに険しい。そもそも冗談の通じる相手ではない。

「行きます。ちょうど今日から行こうと思ってました」

「本当だな」

「必ず。誓って。確実に」

 おれは早口になって答えた。その返事に先輩はやや懐疑的な表情を浮かべたが、それ以上は迫ってこなかった。おれは席に座ったまま、教室から出て行く先輩を見送った。ちょうどそこへ斉藤が戻ってきた。間の悪い奴だ。まともに鉢合わせした。一瞬、斉藤が表情を強ばらせる。でも、それだけだった。特にやりとりもないまま、先輩の姿は消えた。

「おい、いまの和泉先輩か?」

「恫喝された」

「へーえ、期待されてんなぁ。おれなんて完全無視だったぜ」

「期待とは別問題だろ」

「そんなわけねぇだろ……」

 斉藤はため息をついた。

 ため息をつきたいのはこっちだ。先輩とてどうでもよかったはずだ。おれの知っている先輩は、他人に干渉するような質ではない。きっと誰かに言われて渋々来たのだろう。

 ともかく練習に行かざるを得なくなった。ここで無視したら本当にそれっきりだ。わざわざこのへんぴな高校に進学した理由は永久に失われる。いまのおれにはそこまでの覚悟もなかった。とにかく今日は行くしかない。ハラは一瞬で決まった。

 放課後。

 みんなが帰ったあとの教室。

 おれはひとり体育着に着替えた。練習用のジャージは持ってきていなかった。靴は中学時代から使っているランニングシューズ。自転車通学だから革靴はいらない。一足も持っていなかった。

 グラウンドに出ると、見るからに一年っぽい奴らの姿が目に入った。数は五人。グラウンドの縁に沿って伸びるコンクリート段で着替えをしている。

 見覚えのある顔がひとつあった。たしかに知っている。

「なんだよ、お前」とそいつの隣で着替えている別の奴が、段からおれを見下ろしてくる。

 気にくわない態度だ。面も気にくわない。直感的にそう思った。向こうも不愉快そうだ。

「前に会ったことあるか?」とおれはその男を無視して、見覚えのあるほうの顔に向かって訊いた。

 その時、男は初めておれに気づいたようにまっすぐおれを見下ろした。

「よぉ。来たな」ともう片方の隣で別の男がにこやかに段から下りてきた。

「なんだよ、知り合いか?」

 さっきの気にくわない奴が、さらに不愉快そうな顔をした。

「この前、話したろ。決勝に残ったもう一人」

「あぁ」と唯一顔のわかる男がうなずいた。

「大村だったよな」と段を下りてきた男がおれの肩を叩く。馴れ馴れしい奴だ。

「お前は誰だよ」

「北澤を覚えてておれを覚えてないのか?」

 あぁ、北澤ってこいつか―、とおれは先週ゲームセンターで斉藤の言っていた名前を思い出した。すると、こいつが斉藤の言ってたもうひとり―。

「あいにくと」

 もうひとりの名前が思い出せない。

「藤井だ」

 藤井。そんな名前だったか―、とおれは自問した。完全に忘れている。

「中三の県大会でお前と最後まで争ったろ?」

「どっちが勝った?」

「お前」

「そうか」

 負けた相手の名前すらろくに覚えてないのに、負かした奴の名前なんて覚えていられるわけがない。

「お前、性格悪いな」と藤井は冗談めかしていった。ノリのいい奴。根っからの性格だろう。いやな奴ではなさそうだ。

「なにしにきたよ?」と北澤の隣でさっきの男が口を挟んできた。こいつはみるからにいやな奴だ。敵意に充ち満ちている。まず合いそうにない。他にも二人の一年が着替えていたが、その二人とは一言も交わさなかった。そのうちの片方はすごい頭をしている。まるで雷にでも打たれたようだ。中学でワルといわれていた奴らのなかにも、ここまでデカい頭の奴はいなかった。こんな奴がどうコジれれば陸上部に入ってくるのか想像もつかない。生涯、口をきかないかもしれない。

 この日の練習は部員全員で千メートルのアップをしたあと、一年だけで六千のジョグという内容だった。二、三年生はロードへ出かけていった。ともかく和泉先輩と一緒に走らずに済んだのは幸いだ。なにしろ昨年の駅伝以降、まったく走ってない。脚はもどかしいくらいに動かなかった。ただ、あの口の悪い奴に見くびられるのは癪に障る。その気持ちだけでどうにか食らいついた。とはいえ、終いのバテ方は情けないくらい無様だった。

 ゴールした後で、あの野郎がちらりとおれをみて太々しい笑みを浮かべた。言葉は必要ない。この種の感情はしばらく忘れていたが、一瞬で思い出していやな気分になった。

「あいつ、性格悪いだろ? でも、気にすんな。ただのバカだから」とこっちが肩で息をするほどバテている横で、藤井がすっかり整った息で囁いた。

「なんて名だ?」

「おいおい、もう忘れたのかよ。藤井だよ」

「お前じゃねぇ。あのバカだよ」

「わかってるよ」と藤井は笑った。

「あれは中垣だ。富士見中から来た中垣。北澤と同じ中学だ」

 なるほど。

 斉藤の言ってたもう一人―。

 おれはそのいけ好かない名前を頭に刻んだ。




   7


「それにしてもムカつく野郎だぜ」と自転車に乗って走る帰り道で、中垣は思い出したように口を開いた。

 始業式の放課後以来、パーマ頭をのぞく四人は一緒に帰っていた。あたかも赤と青が混ざるように、お互いの色を少しずつ吸収し合って紫色にうち解けるようになっていた。

「そうか?」

 藤井がさして気にしたふうもなく応じた。

「おうよ。だいたいなんだよ。速いっていうからどれほどのもんかと思ったら―。あのペースでついてくるのがやっとだったじゃねぇか」

「まったく練習してなかった感じだな」と北澤が笑いながら答えた。

「もともとあんなもんだろ」

「あるいはな」と藤井も合わせる。

「なーあ」と中垣は藤井を見て大きくうなずいた。

「でも、京都行くにはあいつにもがんばってもらわないとな」

「京都?」

「京都ってなんだよ?」

「全国高校駅伝の?」

 夜野亨が初めて自分から会話に入ってきた。

 北澤は夜野を振り返ってうなずいた。

「無茶言うな」と中垣。

「お前、そんなこと考えてんの?」

 呆れ返った藤井の顔に、北澤は大きくうなずいて見せた。微塵の迷いもない。

「おれ、去年の県大会見に行ったけど、三澤は強いぜ。大根や山城が一区級を七人集めてやっと互角くらいじゃないか?」

 領南高校では開校以来七年、全国レベルの選手は一人しかいない。すべての部を合わせてひとり。

「お前らはこの三年間でなにをしたいんだ?」

 珍しく北澤の口調が勢いを帯びる。

「怒るなって。そりゃ、インターハイなら自分の力だけでいい。でも、駅伝は七人揃わんとな」と藤井がやんわり反論する。

「三澤だってインターハイ級が七人揃ってるわけじゃない」

 そう言うと、北澤は大きくペダルを踏み込んだ。

 中垣と藤井はやれやれといった感じでもう一度顔を見合わせた。そして北澤のあとを追うようにギヤをチェンジしてペースをあげた。

 その中でひとり、夜野だけは「全国大会か―」とその響きに思いをはせていた。この時、夜野は全国を目標にする言葉を初めて身近に聞いた。

 北澤ならやるかもしれない。そう思う一方で、当事者としては漫画に近い感覚しか沸かなかった。




   8


 入学式から早二週間。新入部員の顔ぶれはおおむね揃った印象だ。ここからあとは抜ける奴はいても、入ってくるマヌケはそうそういない。陸上部の長距離という種目はそういうところだ。むしろ、おれ自身がそのマヌケの部類だ。おれ以上はたぶんいないだろう。いや、もしかすると一人くらいいるかもしれない。でも、可能性の見積もりは相当低い。ほとんどゼロ。

 男子は短距離が九人、長距離が六人。女子は短距離とフィールド競技併せて五人だった。短距離には青井菜幹がいる。もう一人は同じクラスの遠見了子。

 青井はおれでも知っているくらいの有名人だ。去年、女子の百と二百で神奈川県の中学記録を更新した。陸上競技マガジンの特集でも注目選手の一人に挙がったくらいだ。うちの高校で一番有名な生徒かもしれない。なぜ、こんな高校に来たのか不思議なくらいだ。

 入学式から三週目に入ると、長距離グループも一年を含めた全体練習に移行した。やはり甘くはない。

「今日は新コース」

 長距離グループの三年生は二人。その片方、興田先輩は部長でもある。一見、洗濯のりでパリッと仕上げたワイシャツみたいな印象だ。ただ、ガリ勉の生真面目さとはちょっと違う。プロレス好きで、よく後輩が技の餌食になっている。メリハリのあるタイプに見える。もちろん速い。

 もうひとりは原田先輩。この人は見た目が怖い。そり込みの入った短髪に、細くてつり上がった目は一度見たら忘れない。メイクなしで鬼の役が務まりそうだ。これで終始黙っていたら誰も近づかないだろうが、性格は外向的で見た目ほど怖くない。カラッとした直情型で、一度(ひとたび)怒りが爆発しても引きずらない。一度、練習前に後輩の一人を激しく怒っているのをみたが、練習が始まる頃にはもう笑い合っているのをみてひっくり返りそうになった。わずか一週間ほどで感じるくらいだから、この二人はかなりはっきりした性格だ。

 二年生は和泉、鹿沼、長倉、花岡という四人の先輩たちだ。二年と三年を合わせても六人しかいない。

「一年は旧コースだ。長倉、お前連れてけ」

「了解」

 練習メニューはその一言で確定した。

 グラウンドでのアップはなし。のっけからTシャツ、ランパンで準備を整え、一団となって校門をスタートした。

 校門からは右へ行っても左へ行っても下り坂だ。コースは左。二百メートルほどの急坂を駆け下りる。下りきって左折。一転、だらだら坂を上がってゆく。車の交通は皆無。すぐ先で道が狭くなる。中央線が消えて、いきなり足が止まるくらいの急坂が現れた。途中、ヘアピン状のカーブを回って、さらに少し上ったところが頂上。急坂自体は百メートルそこそこ。長くはないがかなり応える。その少し先で先頭の足が止まった。まっすぐ伸びる平坦路。周囲はのどかな田園風景だった。周囲には街路灯すら見あたらない。

 ここまでがウォーミングアップだったとみえる。半分ずつ両方の路肩に並んで準備運動をした。校門を出てからまだ一キロも走ってないだろう。にもかかわらず、早くも脚に張りを感じていた。入部から一週間。半年あまりのブランク。これを取り戻すのは容易ではない。筋肉痛が癒える前に、次の疲れが蓄積してゆく。

 土地勘なし。迷ったらまず地力では帰れない。絶対に遅れられない。早くもプレッシャーがのしかかってくる。

「遅れそうになったら声かけろよ」

 長倉先輩―。一年の引率役。ほかの上級生たちに比べるとやや力が足りないのかもしれない。あるいは故障持ち。先輩風を吹かせるようなところはないし、気のいい先輩に見える。遅れても放り出される心配はなさそうだ。でも、遅れるわけにはいかない。弱音を吐けばまたあのバカ野郎を調子づかせる。

 おれたちは長倉先輩のケツに続いて雛のように走り始めた。

 しばらくは緑の真ん中に伸びる単調な平坦路。舗装はされているが、砲丸を投げればヒビが入りそうなくらいぺらぺらのアスファルトだった。おれたち以外には人も車も見あたらない。傾きかけた陽射しを浴びながら、学校からはどんどん離れてゆく。

 やがて少し広い通りにぶつかった。真ん中に車線が一本あって、バスが楽々とすれ違える道幅がある。片側には歩道。ただ、やはり交通量は少ない。車は時々おれたちの前や後ろへ走り去ってゆくが、空をゆく鳥より少ないくらいだ。

 途中で大磯駅行きのバスとすれ違った。すでに平塚市の外かもしれない。そう思うと、さらに不安が増してくる。

 とにかく単調だった。ウォーミングアップの起伏を別にすれば、案外なほど変化を欠いている。新コースを目指す上級生たちもまだ前にいる。

 興田先輩がメニューを告げたとき、あからさまに顔をしかめた先輩が一人いた。花岡先輩だ。この先輩からは今のところ速さを感じない。片鱗すらも。ずんぐりした体型はトラック競技よりフィールド系に近い。とはいえ、こんな単調な道が何十キロも続くとしたら、顔をしかめたくなる気持ちもわかる。おれだって同じ顔をするかもしれない。そのしかめた顔を、この時点ではまだ好意的に受け取っていた。だが、程なくその本当の理由を知ることになった。

 バス通りをしばらく走ると、コースは再び細い道へ舵を切った。 景色が一変した。分け入る感じで突然緑が深くなり、背の高い樹木の密度が濃くなった。道の上に木々の枝葉が覆い被さり、傾きかけた陽射しが薄暗く遮られる。行く手にはわずかな傾斜が見て取れた。

 ペースを落とさず坂にかかった。その先に見える緩いカーブを曲がってゆくと、おもむろに道の先が鮮やかに開けた。

 そこは緑のなかを一本道がどこまでも続いてゆく山道だった。道の頂上に電波塔が見える。道幅は車一台分。舗装はされているが、細い分だけ傾斜が急に思える。ペースが若干上がった。

「電波塔の上で待っててやるから無理せず上がってこい」と長倉先輩の声が飛ぶ。しかし、当の先輩にも余裕はなさそうだ。

 脱落者はほどなく出始めた。

 最初に遅れたのは井上だった。ぐるぐるのでかいパーマ頭。時々たばこの匂いがする。タールで汚れた黒い肺ならさもありなん。なんで陸上部を選んだのか。しかも長距離。不思議でならない。最初に辞めるとすれば、たぶんこいつだ。

 いや、おれかも知れない―。

 ほぼ同時に頭をよぎったが、こいつより先には辞められない。そう思い返した。この時、このパーマ頭はそういう存在になった。

 引きずられる感じで夜野が遅れ始めた。隣のクラスだ。体育の授業が一緒だ。技術家庭の授業も。存在感はほとんどない。大人しい奴で、いまだ一度も話してない。いずれにしても、こういう遅れ方はいかにも性格通りに思えた。

 長倉先輩をぴったりマークする北澤、中垣と藤井はさすがに呼吸の乱れが小さい。坂はまだ半分手前だが、余力はありそうだ。

 一方、こっちはかなりきつい。上り坂自体は苦にならないが、呼吸の乱れは明らかだった。後悔しても始まらない。

 息が上がる。脚が前に出ない。腕が重い。それでも中垣のアホだけには遅れをとりたくない。その背中を見続けるのが不愉快でならない。

 集団は徐々に縦へ伸びてゆく。坂は一キロ強といったところか。長いというほどではない。ただ、なまじ見通しがきくせいで実際以上の距離を感じる。走れど走れど電波塔は近づいてこない。

「ここからフリー!」

 坂の半ばで興田先輩の声が飛んだ。

 フリーってなんだ?

 そう思った瞬間、弾けるように集団がバラけた。上級生がみるみる遠くなってゆく。その中から長倉先輩が遅れた。北澤と中垣と藤井はその後ろに張り付いている。おれはじりじりと離される。どうにもならない。

 やがて北澤たちが長倉先輩を追い抜いていった。こっちは完全にちぎられている。バテた先輩の背中を追うのがやっと。藤井たちを追いかける余力はない。実際のところ、意欲も折れていた。悔しい思いはあっても、気持ちが行動に結びつかない。

 結局、長倉先輩からも少し離された。中垣と藤井には五十メートル以上、北澤はさらに先。

 すでに他の先輩たちはコースの先に消えたあとだった。道の先には砂利引きの下り坂が続いている。すなわち山をひとつ越えたわけだ。

 北澤たちは脚を止めないように動き回っていた。息はもう戻っている。中垣はおれなど問題にしないといわんばかりだ。仕草の節々に態度がのぞく。癪に障るが無視を決め込んだ。

 やがて井上と夜野が牛のようなスピードで坂を上がってきた。へばっている。井上あたりは帰っても不思議ないと思ったが、意外としぶとい―、と一瞬思って我に返った。元値の評価が低いだけの話だ。こういう奴はちょっとしたことでイメージがプラスに振れる。勘違いしてはならない。肺に煙を入れて遅いのは自業自得だ。根性云々は関係ない。

 全員が揃ったところで、我々も先へ進み始めた。

 下りの砂利道はかなり走りづらい。道の左側に背丈のある生け垣が連なり、その奥には手入れの行き届いた芝生が広がっていた。どうやらゴルフ場らしい。しばらく進むと、道は狭い尾根伝いになった。緑のゴルフコースは遠ざかり、左右から木々が覆い被さってくる。光を遮られた周囲は薄暗くじめっとしている。右左にカーブした下り坂。必然とペースは落ち着いた。おかげで呼吸は徐々に整ってゆく。

 坂を下りきったところでやや広めの舗装路に出た。鬱蒼とした木々の密度が薄まり、周囲に光が戻ってくる。

 その先は再び分岐点だった。右に舵を切った直後から長さ三百メートルの急坂を一気に駆け上がる。ペースは長倉先輩がリードした。競争にはならなかった。

 坂を上りきると、眼前に広大なゴルフ場が姿を現した。芝と木立を人工的に組み合わせたコースがぐるりと視界を包み、コースを挟んだ正面の丘にはクラブハウスが見える。そんな場所をTシャツ、ランパンという出で立ちで走る自分たちの姿は、まるでスーツで海水浴場に迷い込んだサラリーマンのように滑稽だった。

 クラブハウスの前までスローペースで走って、二度目の休憩となった。さして疲れはなかったが、長倉先輩はルールだといわんばかりに脚を止めた。クラブハウスの前に広がる池では、噴水がのどかなしぶきを上げている。おれたち以外にそれを見る人の姿は見当たらない。

「新コースはここからゴルフ場のなかを迂回する分だけ距離が伸びるんだ」と長倉先輩が説明した。

 ゴルフ場のあいだを縫って走るコースは、相当タフに違いない。

「どれくらいあるんですか?」と北澤が訊く。

「三キロだ」

 もし先輩が行っていいと言えば、きっとこの男は走り出していただろう。

 五分ほど休憩をとって、おれたちは再び走り始めた。にわかにだらだらした下り坂が増えた。折り返し地点を過ぎたことを意識させる。ゴルフコースの外れからいったん細い農業道路に入って、数百メートル突っ切ると、コースは再び広い通りに出た。車の通りは少なく、路肩に歩道がある。バス通りに戻ってきた。そう感じた。間違っていなければ、もうなんとか学校までは帰れる。そう思ったら少し気が楽になった。

 わずかな下り傾斜の歩道を一列縦隊で走ってゆく。ペースは遅い。井上と夜野もどうにかついてくる。

 やがて電波塔へと曲がっていった坂の入口が見えてきた。陽はだいぶ傾いて、夕方の終わりが近づいていた。

 コースはその少し手前で左に折れた。白いコンクリートの急坂。坂自体は百メートルほどだ。ただ、路面には丸い輪っかの滑り止めが模様のようにスタンプされている。緩やかな下りがずっと続いたあとだけに、この急勾配は意外に応える。

 上りきったあとは同じ分だけ下って、少しゆくとコースの前半部分に突き当たった。準備体操をしたすぐそばだ。

 旧コースの距離は十二キロ程度らしい。校門までの最後の坂はことさら堪えた。なるほど、タフなコースだ。四時前にスタートして、帰ってきたときには五時を過ぎていた。十キロ以上をいっぺんに走ったのは初めてだった。校門をくぐって脚を止めた途端、どっと重い重力が体に絡みついてきた。

 新コースに行った先輩たちはおれたちよりも先にゴールしていた。ゴルフ場で休憩しているうちに追い抜かれたらしい。

 果たして、こんな練習について行けるだろうか―。

 どうやら中学時代にやってきた練習とは質も量も格段に違うようだ。不安は姿形を変えながら万華鏡のようにぐるぐる回る。もしかすると、おれはとんでもないところにきてしまったのかもしれない。

 グラウンドでクールダウンをして、ストレッチの整理体操でようやく練習が終わった。すべての部活動のなかで、グラウンドに残っている最後の集団が陸上部の長距離だった。これが三年間毎日続くのかと思うと憂鬱しかない。先週までとは異質の疲労感。ここからさらに自転車を漕いで帰るわけだ。絶望的な気分だった。




   9


 藤井たち四人はいつものようにサイクリングロードに自転車を走らせていた。ペダルは重い。全身が疲労と倦怠感に支配されていた。

「地獄だったな」と藤井は口を開いた。

「なにもかもまるで違うぜ」

「中学時代はロードっていっても、学校の周りをぐるぐる回ってただけだからな」と北澤が中垣の言葉を引き継いだ。

「おれんとこだってそうだ」

「まず先輩たちのレベルに追いつかないとな。全国なんて言ってられない」

「また言ってるよ……」

 藤井は中垣と渋い顔を見合わせた。

「こっちはそれ以前の問題だよ」と夜野が会話に入ってきた。

「中距離専門からあのコースはきついよな。よく走りきったよ」

 先頭をゆく北澤が、一番後ろの夜野を振り返って言った。

「そういえば、あのパーマもよく完走したな」

 珍しく中垣が褒めた。

「井上だよ。名前くらい覚えろよ」と藤井。

「パーマ野郎で上等だ」

「あいつ、一年のときに通信陸上に出てたらしいぜ。千五百で」と藤井は仕入れたばかりの情報を明かした。井上と同じ中学のクラスメイトに聞いたプロフィール。

「標準記録破ってたってことか」と北澤が振り返る。

「いくつだ?」

「さぁ。まぁ、四分台だろうけど」

「そんなのおれでも出せる」

「アホ。中一の話だぞ」

「わかってら! でも、あの伊勢原のイモといい、うちの部はそんなんばっかだな。昔の名前で出ています~じゃねぇっての」

「古い……、お前古いよ……。しかも音痴……」

 藤井はため息をついた。

「で、なんであんなドリフみたいな頭になっちまったんだ? その頃からあぁなのか?」

「さぁ。突然変わったらしいけどな。事情は知らね」

「でも、やっぱりあの伊勢原のバカはたいしたことなかったな」

「お前、意識しすぎ」と藤井。

「去年の県大会で決勝に出たかどうか知らねぇけどよ―」

「出たんだよ。お前、よほど悔しいんだな」

 藤井は中垣の言葉を遮って平然とへこませた。

「うるせぇ! とにかくいけ好かねぇんだよ」

「きっとあいつもそう思ってるさ」

「かまうか、上等だ!」

 北澤は呆れたようにため息をついて見せたが、その表情はおおよそ嫌悪とは対極にあるようだった。むしろ楽しんでいる。

 藤井は見透かしたように目を細めた。

「なんだ?」と北澤は藤井を見た。藤井はやれやれとばかりに夕暮れの空に視線を向けた。ちぎれた雲の間から星が瞬き始めていた。




   10


 細切れの雲が漂う群青色のなかに、ぽつりぽつりと星が瞬き始めていた。薄暗いグラウンドに動くものはなにもない。先輩たちはとっくに部室へ引き上げた。他の一年もちょっと前にグラウンドをあとにした。おれ一人が着替えにもたついていた。

 まずい―。 

 これはまずい。どうしようもない焦りが泥となって押し寄せてくる。

 おれは遅い。練習不足は関係ない。根本的な力が足りてない。はっきり自覚した。なにしろ、いまのおれは七キロ先まで自転車を漕ぐことすら億劫なのだ。

 別に速くならなくていい。中垣の挑発だって無視しておけばいい。

 何度かそう考えようと意識してみた。でも、本音は思い通りにならない。ましてや、二年半も維持するなんて到底不可能だ。

 いや―。

 おかしい。

 そもそもそう思えたら部活を続ける理由がない。

「帰ろ……」

 誰もいないグラウンドに独り言。

 ようやくおれは段から立ち上がった。早くも筋肉にきしんでいる。

 自転車置き場に行くと、すでにがらがらになった片隅に人影が見えた。

「よぉ」と影がおれのほうをみて手を挙げた。目を凝らすと斉藤だった。

「なんだ、お前か」

「なんだはないだろう」

「いま帰りか?」

 疲れて話す気力もない。でも、こんな時間に斉藤がいるのは明らかに妙だ。

「あぁ。おれも部活入ったんだ」

 斉藤はにこりともせずに答えた。

「いつ?」

「今日」

「今日?!」

 昼間、そんな話は口の端にものぼらなかった。

「おれだって部活くらいやるさ」

 問題はそこじゃなかったが、面倒なので訊かなかった。

「何部に入ったんだ?」

「軽音楽部」

「軽音? なんだそれ」

 いまひとつカテゴリーにピンとこない。

「ロック」

「ロック?」

「ストーンズとか、クィーンとか」

「聴くのか? 家で聴けよ」

「ばか。演奏するんだよ」

「お前、楽器なんてできたっけ?」

「去年の文化祭で演奏したろうが!」

「……そうだっけ?」

「いいよ、もう……」

 斉藤はがっかりした顔で答えた。

「楽器はなにやってんだ?」

「ギター」

「譜面読めるのか?」

「だから去年の文化祭で演奏したんだって」

「ふーん。お前にそんな隠れた才能がねぇ」

「隠してないっての」

「部員はいるのか?」

「おれ入れて五人。三年一人と二年が三人。一年はおれだけ」

「ずいぶん少ないな」

「五人いれば十分だ。それに女の先輩も一人いる」

「重要か?」

「当たり前だろ」

 おれは軽くため息をついた。女がどうとか、勉強がどうとか。さらには部活がどうとか。どうでもいいことばかりだった。意欲も欲望も沸かない。

 あるのは空っぽのコップひとつ。

 自転車のペダルを漕ぐように、毎日を先に送ってゆく。それだけだ。その過程に今日みたいなハードな時間は必要か。

 わからない。

 たしかにあのいけ好かない野郎には負けたくない。でも、勝ったところで、努力に見合う価値は見いだせるだろうか。充足感は得られるだろうか。京田と競った中学時代とは違う。

 そう、たぶんそこだ―。

 ふと、おれは思い至った。そこに葛藤がある。

 そもそも斉藤にしたってこの高校を選んだ本来の目的は陸上競技だった。おれが誘った。斉藤の練習嫌いは知っていた。部の連中はみんな知っていた。でも、進路を決めた時点では斉藤もその気だった。その意欲が吹っ飛んだ理由は明白。それもわかっていた。

 斉藤は中学最後の駅伝で選手の枠からこぼれた。直前になって一年生にアンカーを奪われた。斉藤は走りたくなくなったとしか言わないが、意味合いはちょっと違う。あの一件はそれくらい斉藤のプライドを傷つけた。

 中学駅伝の朝、斉藤から風邪をひいたと電話がかかってきた。そしてコースのある津久井湖に斉藤が姿を見せることはなかった。

「それがすごくかわいくてよー。かっこいいんだ。ちょっと中学にはいなかったな。あんな先輩(ひと)」

 自転車のペダルを漕ぐ斉藤の脚は軽快だった。口までタンゴのように軽やかだ。黒ネコのタンゴ。

 昨日まで知らなかった女に、いったいなにを期待しているのだろう。

 おれは重厚なバロック音楽に身体中を支配されていた。ペダルが重い。水を吸ったボロ雑巾みたいだ。

 なぜ斉藤はわざわざ待っていたのだろう。部活の報告をするためか―。それだけなら明日でもいいはずだ。少し引っかかったが、結局疲れに負けて訊きそびれてしまった。




   11


 翌日の放課後はいつもと違う雰囲気だった。練習前はいつも気怠そうな先輩たちの表情がやけに明るい。和泉先輩がいつまで経ってもグラウンドに姿を見せないことも、いつもと違って思える一因だった。

 おれはといえば、昨夜からの筋肉痛がいまだに引かない。今日もロードで新しいコースに連れて行かれたらおしまいだ。そんな鬱々とした気分に包まれていた。

「先輩、和泉先輩どうしたんすか?」

 練習前のグラウンドで、藤井が鹿沼先輩に訊いた。

 鹿沼先輩をざっくり表現すれば、走るお気楽者だ。他人に厳しいことはまず言わない。厳しさの権化みたいな和泉先輩の対極。その割に和泉先輩とはウマが合うようだ。もちろん合わせているのは鹿沼先輩だろう。あの先輩が自ら合わせにいく相手なんて、おそらく世界中どこを探したっていない。

「あぁ。あいつはいいんだ」

「休みですか?」

「いや、別メニューだ」

「別メニュー? 怪我でもしたんですか?」

 そんなわけないだろ、と言わんばかりに鹿沼先輩は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「お前、今日がなんの日か知ってるか?」

「今日? 何かありましたっけ?」

 すぐ横で聞いていたおれも考えた。ごく普通の火曜日。朝からなにひとつ変わらない昨日と同じ今日。空だって快晴だ。いつもと同じ退屈な日常。

「今日は月に一度の職員会議だ」と鹿沼先輩は藤井の目の前で握り拳を作った。

「なんか関係あるんすか?」

「バカだな。職員会議には坂本(さかもっ)ちゃんだって出るだろ」

「坂本(さかもっ)ちゃん?」

「つまり今日のおれたちは自由だ! フリーダぁーム!!」と鹿沼先輩は両拳を天に突き上げた。その脇から原田先輩の平手が飛んできて、先輩の頭を叩(はた)いた。お調子者の気もある。

「調子に乗るな」と興田先輩も努めて低い声で戒める。

「はい……」と鹿沼先輩は条件反射でうなだれた。

「よーし、じゃ今日は五領ヶ台コース」

 口調からしていつもと様子が違う。

「やべぇ、ロードか」と後ろのほうで中垣の呟く声が聞こえた。アホでも不安を感じる感覚はあるらしい。どうやら筋肉痛はおれだけの問題ではなさそうだ。

「ま、今日はなんとかなるだろ」

 藤井が他の一年を見回して言った。爆弾頭の姿もまだ残っている。いついなくなってもおかしくない頃合い。あるいは来週からのゴールデンウィークあたりか。

 おれも同意見だった。鹿沼先輩の様子からしてほぼ確信に近い。ロードと聞いて緊張したのはあの野郎だけかもしれない。

 昨日同様、グラウンドでのアップはカット。ジャージは着たままだ。校門を出めると、昨日とは逆に右の坂を下る。

「そういえば今日は和泉先輩いないな」といまさら中垣が間の抜けたことを言う。

「花岡先輩もな」と藤井がそれに答えた。言われてみればそうだ。花岡先輩の姿もない。

「花岡なら帰ったぜ。風邪気味らしいや」

 鹿沼先輩が答えた。まるで仮病といわんばかりの口ぶりに聞こえた。

 目的地は気が抜けるほど近い場所だった。校門から一キロと走ってない。ゴールは公園だった。五領ヶ台公園。貝塚がそのまま公園になっているささやかな空間だった。生涯訪れることはなかろうと思っていたが、まさかコースのひとつになっているは思ってもみなかった。

 広さは入口から全体をぐるりと見渡せる程度。人の姿はどこにもない。すっかり花びらの落ちた葉桜が、夕方の陽で長い影を作っている。そこへ汗臭い男が十人、ぞろぞろと入り込んで柔軟体操となった。端からはちょっと近づきたくない集団に見えるだろう。

 柔軟体操のあとは、二人一組でマッサージ。どうやら今日の練習にこの先はなさそうだ。昨日とはあまりにかけ離れた内容に興ざめするくらいだった。

 コンビはまず北澤と中垣が組み、藤井は夜野と組んだ。すでに先輩たちはそれぞれ組んでいるから選択肢はない。おれの相手は爆弾頭の井上だった。

 井上はなにも言わず、アゴでおれに寝そべるように指示した。別に拒む理由はなかったが、態度が気にくわない。おれは同じようにアゴで促した。

 井上は小さく舌打ちした。だが、そんな意地の張り合いに興味はないのだろう。素直に寝そべった。なんだか妙に自分が子供っぽく思えた。

 そしてそこからが問題だった。寝そべらせたはいいものの、マッサージなんてしたこともされたこともない。先輩たちの動きを真似してみたが、力の加減がわからない。井上は一言も口をきかず、目を閉じて寝ているかのようだった。

 ともかく一通りの手順を二十分ほどでこなして交代した。

「痛たたたたたた……」

 不意を突かれて思わず声が出た。

 井上はいきなりふくらはぎの痛いところにぐっと力を込めてきた。ただでさえ筋肉痛の脚に、唐辛子を擦り込まれるような痛みが襲ってきた。

「ぐぐぐぐ……」

 悔しいので必死にこらえるが、井上も容赦がない。

「おい! ちょっと待て!!」

 ついに我慢しきれなくなった。

「もっとやっていいぞー、爆弾頭」

 中垣の声がした。その瞬間、井上の手が止まった。

「爆弾頭か……。うめぇこと言うな」と原田先輩が感心したように同意した。みんなの頭に同じイメージがあった。陸上部の長距離でこんな頭をよしとする奴は一人もいない。そもそも走っている姿を見るだけで鬱陶しい。誰も文句を言わないのは、なぜか顧問が放任しているからだ。

「おれはドリフの雷様かと思ってたんだけどな」

 藤井がかき回して全体に笑いが広がった。井上本人だけが険しい表情だった。その感情が指先に掛かる。

「痛たたたたたたたたた……」

 復讐だと言わんばかりにぐいぐい体重を載せてくる。おれはさらなる苦痛を数十分にわたって受け続ける羽目になった。

 そのあとはだらだらと学校まで戻って終わりだった。坂本(さかもっ)ちゃんと顔を合わせることなく解散した。

 こんなもんでいいのか―。

 練習のきつさにずっと憂鬱を募らせてきたのに、いざ鬼の目を盗んでみると、逆に不安を覚える。

 速くなりたいのに練習を怠ける。進学の意思はあるのに勉強しない。痩せたいのに食べてしまうデブ。

 おれの頭は矛盾でいっぱいだった。この日のことをきっとおれは二年半後にも覚えているだろう。なぜかそんな気がした。でも、その一方でこうも思う。来月も再来月も職員会議の日にはこんなふうに練習が終わり、やがて当たり前になる。おそらく、先輩たちがそうであったように。和泉先輩が練習にこない理由がわかった。きっと一人で左の坂を下ったに違いない。

 この日を境にして、井上はバクダンと呼ばれるようになった。




   12


「今日の練習、どう思う?」

 帰り道のペダルを漕ぎながら、北澤が憮然とした表情で切り出した。明らかな不機嫌が見て取れる。珍しいことだった。

「昨日と同じコースに連れて行かれたら、たぶんついて行けなかったろうな」と藤井が返した。

「遅れるのは問題じゃない」

「おれにとっては問題だよ。大問題だ」とプライドを覗かせる。

「ひ弱いなー。藤井ー」と中垣は自転車の上から藤井の肩を叩く。

 藤井は舌打ちした。

「お前、ロード行くって聞いてビビってたろ」とぼそっと返す。

「でも、マッサージなんて初めてやったけどよ。あんなに痛いもんか? お前、下手くそだろ」と中垣は北澤に言った。

「初めてだからな」

 北澤も否定はしない。善し悪しの判断すらできていなかった。

「それにしてもあのくそったれの痛がってる顔ったらなかったぜ。井上(バクダン)も怨念こもってたしな」

「バクダンか」と藤井。

「そう。バクダン」

「どっちだっていい」と北澤はあきれ返った声で言った。

「夜野はどうだ?」と北澤は相手を変えた。

「おれは……いいあだ名だと思うけど」

「そうじゃない。今日みたいな練習で速くなれると思うか?」

「……そうだね」

 北澤はその曖昧な返事にもう一度大きなため息をついた。




   13


 幸いなことに、うちの陸上部には朝練がない。中学時代は朝練のほうがきついことさえあったくらいだ。それがまったくないのだ。なんとありがたいことか。おかげで通学時間は倍以上に増えたが、家を出る時間は中学時代とほとんど変わらない。

 筋肉痛は一晩のうちにずいぶん軽くなっていた。痛みはもうほとんど残ってない。まさか昨日の激痛マッサージの効果とは思えないが、今朝は苦もなく自転車に乗れた。

 今週末からはいよいよインターハイの予選が始まる。神奈川県は全国屈指の生徒数の多さから、県大会の前に地区予選があって、そこを突破しないと県大会にすら出場できない。横浜、川崎、中地区、西地区と四分割された地区のうち、領南は西地区に入っている。レベルは他の地区より若干落ちるが、それでも名の通った強豪校がいくつかある。今年、長距離の一年からはただ一人、北澤が千五百で出場する。正直、興味の薄い大会だ。これで三度しかないひとつ目のチャンスを失ったわけだ。ドンキーコングのようにポイントを稼いでワンナップという特典はない。自業自得だから仕方がない。そもそも、もし半年前に戻れたとしても、やっぱりおれは同じ半年を過ごしただろう。北澤にチャンスが与えられるのは、ごく当然の結果だった。奴がこの半年を無駄なく過ごしてきたのは明白だ。誰からも文句は出なかった。あの中垣でさえ反論の余地なく納得した。

「今日はトラック一万メートルと千五百のトライアル二本」

 いつものように興田先輩の口調は淡々としていた。ただ、響いてくる言葉の色は昨日とまるで違う。緊張感の違いなのかもしれない。

 トラック一万メートル。周回数にして四十周。そしてスピード系のトライアル二本。ロードに出るときとはまた違うプレッシャーに、ぎゅうっと胸を掴まれる気分だった。

 最初の一万メートルは二列縦隊の形で粛々と進んだ。五千を過ぎたあたりから夜野と井上が遅れはじめたが、残りの十人はゴールまでペースを守って走りきった。

 問題はこのあとだ。

 スタートラインには十二人が二列でびっしりひしめくように並んだ。おれは意志に反して前列の内から三番目にいた。大会直前ということもあるのか、今日はスタートの位置取りからどこか牽制しあう雰囲気がある。

 久しぶりに味わう緊張感はレースに臨むそれとほとんど変わらない。ピストルこそ鳴らないが、そこには勝ち負けだけが優劣を決するあのぴりぴりした空気がみなぎっている。レースから遠ざかって半年以上が経っているのに、あの緊張感はスタートラインに脚を乗せた瞬間に戻ってきた。

 心臓の鼓動がわずかに高まる。手のひらにじわっと汗がにじむ。

 スタート間際に思い浮かぶことはいつも違う。相手が弱いとき。強いとき。目標タイムがあるとき。設定着順内でゴールすればいいとき。それぞれレースの仕方が違うし、思考も緊張の度合いも異なる。

 今日は実力的に上位が望み薄の設定。ただし練習であること、二本目があること、そしてスタート前のこの雰囲気。意外とチャンスの目はあるかもしれない。

 野口先輩という二年生の女子マネージャーが、スタートラインの脇でストップウォッチを構えた。興田先輩とつきあっているらしい。藤井から聞いたネタ。真相はわからない。いったいあいつはどこからそんな話を聞いてくるんだろう?

「位置について」

 その声にすっと集中力が高まる。

「スタート!」

 声と同時に飛び出した。

 千五百。

 決して得意な距離ではないが、練習不足の分だけ腹は括りやすい。二本目はハナから捨てる覚悟で飛ばした。

 トラック六周。一周目を四十秒で入った。明らかに速い。このペースで六周走るとジャスト四分。そんな時計で走れるわけがない。二年後だって無理かもしれない。案の定、後続の足音は聞こえてこない。ハナから相手にされてない。目視はしない。耳だけで判断する。コーナー出口でわずかに目の端で確かめた。予期したとおり、牽制し合っているようだ。おれがバテる前提で流れができている。距離はコーナーまるまるふたつ分まで広がっていた。

 二周目の通過でまだ一分半を切っている。三周目通過で二分二十秒。さすがに後続のエンジンも掛かり始める頃。四周目の千メートル通過は三分五秒。一周に四十五秒を要したことになる。ここが正念場だった。最後の一周は気力で乗り切れる。

 ピッチを上げて五周目は三分四十八秒で通過した。背中に迫ってくる足音を感じる。誰かはわからないが、誰でも同じだ。ここまで来たら欲が出る。せめて一本目は取りたい。

 足音がぐんぐん迫ってくる。それでも後ろは振り返らない。見れば弱気を見透かされる。ひたすらゴールを目指した。

 最後の直線に入ってもまだ背後まで来ていない。

 逃げ切れる。

 結局、六周目は五十秒かかったが、タイムは四分四十秒を切った。自己ベスト。後続は前半に牽制し合ったツケが後半のペースを狂わせた。最後の一周にもそれほど余力は残っていなかったようだ。おれは千五百メートルをまんまと逃げ切った。

 二秒遅れでゴールしたのは和泉先輩だった。

「歩くな」

 インターバルはトラック四周。この間も歩かないルール。和泉先輩の後ろはばらばらのゴールだった。興田先輩、原田先輩の順で二人の三年生がゴールして、そのあとに北澤。その後ろはもうどうでもよかった。二本目の準備をする。

 そして二本目はボロボロだった。

 ビリ四。

 ビリから四番目。一本目より四十秒以上もかかった。後ろにいたのは夜野と井上(バクダン)、それに長倉先輩の三人だけ。

 二本目はのっけからハイペースになった。一周目はなんとか流れについて行けたが、二周目以降はずるずる後退。あとは周回遅れを免れるのに精一杯だった。一本目とっても、二本目で周回遅れなら差し引きゼロを通り越してマイナスだ。実際、合計タイムを並べれば、順当な並びに落ち着く。ひとつ前の背中ははるか先。覚悟はしていたが、想像以上に無惨だった。




   14


「むっかつくぜ! おい!!」

 いつものように自転車を漕ぎながら、中垣は吐き捨てた。

「理由はわかってる」と藤井。

「相手もな……」

 北澤もふうっとため息をついて応じた。

「あのくそったれ、ばかみたいなペースで飛ばしやがって飛ばしやがって飛ばしやがって飛ばしやがって飛ばしやがって!!」

「ありゃ、ハナっから二本目は捨ててたな」と藤井が受けた。

「だろ! 一本だけならおれだってあれくらい走れるっての」

「二本目はばたばただったもんなぁ」

「トータルタイムならおれが勝ってるぜ」と中垣は藤井と一緒になって盛り上がる。

「あいつは速いよ」と北澤が静かに割り込んだ。

「なんだよ。肩持つ気か?」

「事実だ。たとえ一本でも先輩たち全員に勝ったんだからな」

「そりゃ、買いかぶりだろ」と藤井。

「先輩たちが油断しただけだぜ!」

 中垣もかぶせる。

「関係ない。先輩ならたとえ油断しても負けちゃいけない」

「でも、二本目であんなにバテちゃ意味ねぇだろ」

「意味はあるさ。これでもう先輩たちは絶対あいつを楽に行かせない。能力を評価したってことさ」

「単にばかを見抜いただけじゃねぇか……」

「おれは二本目も負けちゃったよ」と夜野が口を開いた。

「夜野は元中距離専門なんだから、もっと積極的にいかなきゃな。あいつくらい前向きに出ていいと思う。潰れたっていいんだ。どうせ練習なんだから」と北澤は言った。

「……そうだね」

 夜野の口調にはいつもながら力がない。

「でも、和泉先輩はやっぱり速いな」と藤井は話題を変えた。

「あの人はホンモノだよ」と北澤は言った。

「あの先輩厳しいんだよな。昨日だって一人で別のコース行ってたんだろ?」

「おれだって知ってたらそっちに行った」

「協調性がねぇなぁ」

「危険因子だ」

 中垣と藤井はぼそぼそと意見を交わした。北澤はちらりと後ろの二人を睨んだが、言い返しはしなかった。

「一年がもう一人ほしいな」と北澤は言った。

「なんでだよ?」

「再来年の駅伝で最強メンバーを組むためさ」

「またそれか……」

「お前、本気で京都いけると思ってんのか?」

「あきらめたらそれまでだ。挑戦する決意が可能性になる。夜野も数に入ってるんだからな。チャレンジしていこう」

「あ……うん」と夜野は曖昧な表情で答えた。

 それは夜野にとって初めての経験だった。

 誰かに期待される気分。

 この時、夜野は初めてそれを知った。そして自分にやれるだろうか―、と思う。

「おい、北澤って他人にもこんなに熱い奴なのか?」

 藤井が囁くように訊いた。

「知るかよ。駅伝の話になると目の色変えやがる」と中垣は返した。

 中垣と藤井は鏡のように苦い顔を見合わせた。




   15


 週の真ん中は天皇誕生日だった。

 全国的に祝日。

 朝九時に学校へ行く。いつもより少し遅い。もちろん部活だ。日曜日は休みだが、祝日は適用外とみえる。ちっともゴールデンじゃない。あの入学式からの数日間はどうやら幻だったらしい。日常は部活という土色に塗りつぶされた。

 今日は新コースだった。初めてのコース。電波塔にはもう何度も行っている。コースは覚えた。ゴルフ場内の延長部分は三キロほど。「すげぇ坂があるらしいぜ」とは藤井の情報。鹿沼先輩経由のネタ。いずれにしてもそのすごさの程度は行ってみるまでわからない。

 実はつい三十分前までは今日も旧コースだった。その予定を北澤がひっくり返した。北澤の進言で引っ張られるように中垣と藤井が同調。おれは我関せずで黙っていた。

「大村もいくよな」

 校門前で興田先輩が確認したとき、手を挙げないおれを見て、すぐさま北澤がそう訊いた。普段はべらべらしゃべらないくせに、言うとなったらいっさい遠慮がない。

「いや、おれは―」

「やめとけって、遅い奴が混じると返って疲れる」

 あたかも北澤を戒めるように中垣が遮った。

「いきます」

 反射的に答えていた。プライド云々ではない。本能が勝った。

 新緑の季節に山の緑がまぶしい。だが、それを楽しむゆとりはない。初夏を感じさせるじりじりした暑さが厳しい坂をいっそうハードにさせた。

 新コースはこの前休憩した噴水の手前を左に折れる。そこからゴルフ場内の舗装路に分け入ってゆく。最初のうちはなだらかでほぼ平坦。走りやすいコースだった。そのまま一キロほど進むと行く手に上り坂が見えてきた。

 あれか―、と思った刹那に、コースは右に切られた。そこは急な下り坂だった。やや後傾姿勢になりながら下ってゆく。下るということは上るということだ。案の定、下りきった先に急な上り坂が現れた。道幅が広いうえに微妙なカーブで先が見えない。電波塔とは違う印象だが、きつさは同等かそれ以上だった。坂の長さもゆうに一キロを超えている。

 ここでついて行けなくなった。なぜか坂でペースが上がる。どんどん速くなって、最後はトライアルのような感じで先輩たちの背中が遠ざかっていった。もちろん北澤にも藤井にも。忌々しくもあの中垣にさえ突き放された。坂の先は旧コースにつながっている。教えられていたから不安はなかったが、敗北感から免れる術はなかった。おれは劣等感にまみれるために陸上部に入ったようなものだ。

 学校に戻ってきたのはおれが最後だった。旧コースにいった夜野や井上も今日は休憩せずに走ったものと見える。だいぶ前に帰ってきていた。

 こうして祝日の練習は終わった。

 そして週末がやってくる。先輩たちには宴を前にしたそわそわした雰囲気が漂っている。

 ただひたすら退屈な春が過ぎてゆく。

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