国を追放された魔導士の俺。他国の王女から軍師になってくれと頼まれたから、伝説級の女暗殺者と女騎士を仲間にして国を救います。
グミ食べたい
第1話 王女と女騎士
「キッド様、どうかそのお力で我が国を救ってください!」
澄んだ声が、ひんやりとした山の空気に溶けていく。
扉の前に立つ少女は、朝焼けを映した湖面のような赤茶色の瞳をこちらに向けていた。大きく、丸みを帯びた瞳は、焦燥の色を湛えながら、すがるように揺れている。かすかに上気した頬が、幼さを残す顔立ちを際立たせていた。
彼女の髪は淡い茶色で、ふわりとした質感を持つ。肩より少し長めのおさげに編み込まれているものの、ここまでの長い道のりの疲れを隠せず、細い髪の束が頬にかかっていた。前髪は軽くカールし、額の上で無造作に揺れる。
華奢な身体は紺色の上質なワンピースに包まれ、細い肩は寒さと疲れでわずかに震えていた。スカートの裾は泥や葉で汚れ、小さな靴には湿った土がこびりついている。
その姿は、少女がどれほどの決意を胸にここへたどり着いたのかを物語っていた。
しかし、目の前の男は、そんな彼女を一瞥しただけだった。
「いや、ごめん、無理」
ばたん。
少女が懇願の言葉を紡ぐ間もなく、扉は無情にも閉ざされた。
「あっ、待って……」
か細い声が扉越しに聞こえたが、部屋の主は気に留めることなく、静かに部屋の奥へと歩を進める。壁際の古びた椅子にどさりと腰を下ろし、疲れたように天井を仰いだ。
彼の名はキッド。
かつて緑の公国に仕えた若き宮廷魔導士。しかし、今やその名声は見る影もない。ほころびた黒のローブを羽織った姿は、宮廷にいた頃の威厳とは程遠く、無精髭の生えた顎が、年月の流れを静かに語っていた。伸びた黒髪は乱れ、頬はこけている。それでも、鋭利な目元と通った鼻筋は、彼がかつて持っていた知性と冷静さを滲ませていた。
「ったく……」
指で前髪をかき上げ、低く嘆息する。
先ほどの少女の名はルルー。病床の父王に代わり、十五歳の若さで国の政務を担う、紺の王国の王女だ。その王女が自ら、こんな山奥まで助けを求めてやって来た。
紺の王国は小国であり、隣国・黒の帝国の脅威にさらされている。その状況を、キッドはかつて仕えた公国で耳にしていた。
だが、それがどうしたというか。
彼はもう、何かを救う立場にはない。
椅子の背もたれに身を預けると、黒の瞳が静かに揺れた。
ルルーがこの山奥の家を訪ねてくるのは、これが初めてではない。紺の王国から離れたこの地まで、彼女は何度も足を運んでいた。初めてのときは、キッドも彼女を家の中に招き、じっくりと話を聞いたものだった。
彼女の願いは一貫していた――紺の王国のために力を貸してほしい。
請われるたびにキッドは断った。断っても、断っても、彼女は諦めなかった。
だからこそ、今ではもうまともに話を聞くことすらしない。
彼女の懸命さを理解していないわけではない。むしろ、そこまでして助けを求める姿には、どこか心を打たれるものがあった。
しかし――
「……もう王族や貴族の権力争いに巻き込まれるのは、こりごりだ」
固く閉じた扉を見つめながら、キッドは誰にともなくつぶやいた。
かつてキッドは、ミュウとジャンという二人の友とともに緑の公国に仕えていた。三人は「緑の公国の三英雄」と称され、若き宮廷魔導士として名を馳せたキッド、疾風のごとき速さと気高き美貌を兼ね備えた女騎士ミュウ、そして勇猛果敢な騎士でありながら若き貴族の旗頭として将来を嘱望されていたジャン――それぞれが、公国の未来を担う存在として期待されていた。
だが、権力の渦は彼らの輝かしい未来を無残にも呑み込んでいった。
ある時、ジャンを失脚させるための策謀が仕掛けられた。キッドとジャンが地方への視察に赴いている最中、ジャンの領地内の集落が突如として武装勢力の襲撃を受けたのだ。
急報を受け、二人はすぐに救援に向かおうとした。だが、その矢先、王都から至急の召集命令が届く。
もし命令に従い王都に戻れば、領民を見捨てたと非難され、ジャンの名声は地に落ちる。だが、命令を無視して救援に向かえば、命令無視の罪に問われることになる。どちらを選んでも、ジャンの政治的な力は失われることが確実だった。
その時、キッドは迷いなく決断した。
「ジャン、お前は王都へ行け」
「だが、それでは――」
「集落へは俺が行く。すべて、俺の独断での行動――そういうことにすればいい」
「…………」
ジャンは躊躇った。キッドがどのような代償を払うことになるか、理解していたからだ。
しかし、キッドは自らの意志を貫き、ジャンもまたその想いを汲み取った。
結果、キッドによって集落は救われた。ジャンもまた、中央での立場を維持し、権力争いから脱落することなく生き残った。
だが、その代償として――キッドはすべての責任を負わされ、宮廷魔導士としての地位だけでなく、爵位までも剥奪された。かつて「三英雄」と讃えられた男は、裏切り者として国を追われることとなったのだ。
――そして、彼はこの山奥へと流れ着いた。
「……ここでは、人間の醜い部分を見なくて済む。……俺のことは放っておいてくれ」
扉の向こうには、もうルルー王女がいるはずはないだろう。それでもキッドは、そうつぶやかずにはいられなかった。
しかし、キッドが冷たく追い返してからちょうど一週間後――
吹雪の中、ルルーは再び現れた。まるで彼の拒絶などなかったかのように。相変わらず、ほんのわずかな護衛を伴って。
「キッド様、お願いします。我が国をお救いください」
凍てつく風の中で、彼女は凛とした瞳をまっすぐに向ける。
「今日は、首を縦に振っていただけるまで帰りません」
「……いくら頼まれても無理なものは無理です」
キッドはため息まじりに答えた。
「こんな雪の中、わざわざ来ていただいて申し訳ありませんが、身体を悪くする前にお帰りください」
それだけ言い残し、彼は今回も冷たく扉を閉めた。
静寂が戻る。
キッドはそのまま奥へと引き返し、昼食の準備を始めた。外は深い雪。この天候では出歩くこともできない。ならば、食後は魔法体系の考察や新たな戦術の構築に没頭するのが最適だった。
そうして時間は流れ――
不意に、外の微かな物音に気づいたのは、それから三時間が過ぎた頃だった。
風の音に紛れて、小さな気配がする。
(……何だ?)
わずかな不安を覚えたキッドは、念のため扉を開けた。そして、その場に凍りつく。
「――――!」
雪の降りしきる扉の前。
そこに、頭や肩に白く積もった雪を纏いながら、じっと佇む少女がいた。
「ルルー王女……!?」
思わず声を上げる。
彼女は、降り積もる雪の中でまったく動かず、ただ微笑んでいた。
「何をやっているんですか!?」
怒気さえ滲んだ叫びに、ルルーは穏やかに答える。
「今日は首を縦に振っていただけるまで帰りません、と申しましたでしょう?」
その顔には、怒りも、恨みもなかった。ただ凍えるような寒さの中、それでも彼女は静かに微笑んでいた。
「あっ、従者は来る途中の休憩小屋に戻らせましたので、ご心配なく」
「俺が心配しているのは、あなたの身体ですよ!」
こらえきれず、キッドは彼女の手を掴む。――冷たい。まるで氷のように。
(この人は……!)
言葉にならない想いを飲み込みながら、彼は雪を払う暇もなくルルーを家の中へと引きずり込んだ。
戸を閉め、ルルーの肩に積もった雪を払い落とす。冷え切った髪が頬に張りつき、唇は青みがかってかすかに震えていた。
「暖炉の前へ!」
思わず語気が強くなる。
ルルーは抵抗するそぶりも見せず、素直に足を動かした。キッドは奥へと彼女を導き、座らせると、乱暴に毛布を頭からすっぽりとかけた。
「温かい飲み物を用意します」
「……お気遣いなく」
「気遣いさせたくないなら、言うことを聞いて身体を温めてください!」
強く言い放つと、ルルーは小さく肩をすくめ、しかられた子犬のようにしゅんとした。
「……すみません、わかりました」
キッドはため息をつきながら、湯を沸かしに行く。
ほどなくして、湯気の立つカップをルルーの前に差し出した。
「ありがとうございます」
毛布に包まれ、熱そうにお茶をすするルルーは、とても一国の王女には見えなかった。今ここにいるのは、ただの寒さに震える少女だ。
しばらくの沈黙の後、キッドは静かに口を開いた。
「なぜ、そこまでして俺に助けを求めるんですか? 魔導士が一人いたところで、国なんて変わりませんよ」
ルルーはカップを両手で包み込みながら、真っすぐに彼を見つめる。
「……公国の三英雄の一人として、数々の難敵を打ち破られたキッド様の活躍は、私も何度も耳にしております」
その目は、迷いなく真摯だった。
「それに、キッド様は覚えていらっしゃらないでしょうが……幼き頃、お姿を拝見したことがあります。そのとき、私は確信したのです。この人は、私の英雄になってくださるかただと」
キッドは眉をひそめる。冒険者時代は各地を巡っていた。紺の王国にも足を運んだことはあったが、王女と謁見したような記憶はない。だが、会っていようといまいと、英雄というのはさすがに大げさすぎる。
「そんなふうに思われても、俺には荷が重すぎますよ」
キッドの言葉に、ルルーはわずかに視線を落としながら、静かに続けた。
「……キッド様もご承知のこととは思いますが、我が紺の王国は小国です。強大な黒の帝国の脅威には常に晒され、その影響を受けた隣国の紫の王国が、我が国との戦争の準備に入ったという噂も耳にしております。……正直、今の我が国では、黒の帝国どころか、紫の王国とでさえ、まともに戦って勝てる見込みがありません。この窮地を乗り切るには、今の我が国自体を大きく変える必要があります」
そして、ルルーはキッドを見据え、はっきりと言った。
「私はただの魔導士としてあなたに助力をお願いしているのではありません。――キッド様、軍師として、私に力を貸してください」
少女の顔が、王女としての決意に満ちた表情に変わった。高貴な身分を忘れぬまま、彼女は深く頭を下げる。一国の王女が、国を追放され、何の肩書も持たないただのはぐれ魔導士に対して。
キッドは無言のまま、カップの縁を指でなぞりながら思考を巡らせた。これまでの人生で、自分をここまで必要としてくれた人がいただろうか、と。
ふと、ミュウとジャン――二人の友の顔が脳裏に浮かぶ。
(……お前らと同じだな)
あの二人も、かつては自分の力を必要とし、ともに戦った仲間だった。
だが、彼らと別れて今日でちょうど二年。
あの日から、キッドの時間は止まっていた。
(お前らと違って、この子は……戦う力すらない。だけど、それでも前に進もうとしている)
その姿が、かつての友たちと重なる。
二人は今も緑の公国で、それぞれの戦いを続けているはずだ。キッドが二年間、足を止めていた間に、彼らはさらなる成長を遂げていることだろう。
再び同じ場所で戦うことはないかもしれない。だが、離れていても、彼らと友であり続けるためには、キッド自身も止まっていてはいけない。
凍りついた時間を、再び動かす時が来たのだ。
目の前の王女の懸命な願いが、その氷を溶かすきっかけとなった。
キッドは、王女のため、そしてかつての友に恥じない自分であるため、再び戦場に立つことを決意した。
「……ルルー王女、わかりました。微力ながら、俺の力、あなたのために使いましょう」
「ほ、本当ですか!?」
王女の顔が、再びただの少女の顔に戻る。
キッドは内心で思った。この顔の方が彼女には合っている、と。
「あなたの前で嘘はつきませんよ」
「……ありがとうございます!」
これまで張りつめていた緊張が一気に解けたのだろう。少女のような表情に戻った彼女は涙を流し、嗚咽をもらした。たった十五歳の女の子が、国を守るため懸命に考え、必死で行動してきたその姿が、キッドの胸に強く響いた。彼はただ、少女を優しく見つめた。
キッドは、準備もあるので、三日後に紺の王国の王城へと赴くことを約束し、その日はルルーを城に戻らせた。
そして約束の三日後。
キッドは身支度を終え、二年間過ごした小さな家の扉を静かに閉める。
(もうここに戻ることはないだろうな)
心に去来するものを振り払うように、キッドは振り返り、目の前に広がる山の景色を目に焼き付けた。
伸ばし放題だった黒髪は適度に整えられ、今や耳元をすっきりと露わにしている。朝の光が差し込み、深い漆黒の髪が柔らかく輝いた。無精髭も綺麗に剃られ、引き締まった顎のラインが際立つ。頬のこけた痩せた顔つきは変わらないが、鋭い目元と整った鼻筋が端正な印象を与えていた。
身に纏うのは、洗いたての黒いローブ。細身の身体にぴったりと沿うその姿は、無駄な脂肪のない引き締まった体躯を際立たせていた。長くしなやかな指がローブの裾をわずかに整え、優雅な動作の中に魔導士らしい繊細さを感じさせる。
「この景色も、今日で見納めか……」
静かにつぶやいたその時だった。遠くの山道を駆ける馬の蹄の音が、冷たい朝の空気を震わせた。
「……ん?」
キッドは目を細める。やがて、その馬に跨る人物をはっきりと捉えた瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。懐かしいその姿は、忘れようにも忘れられない。
互いの姿がはっきり見える距離に入るや否や、その人物は嬉しそうに手を振る。
馬がキッドの家の前に到着すると、彼女は躊躇いなく馬から飛び降りた。
緑の公国の軍服を身に纏った彼女こそ、緑の公国の三英雄の一人であり、公国最強と称される女騎士、そしてキッドの無二の友でもあるミュウだった。
陽の光を受けたその髪は、金糸のように輝き、風にたなびくたびに柔らかく光を反射する。長すぎず短すぎず、動きやすいように肩のあたりでゆるやかに流れる髪は、前髪が程よく額にかかり、快活な雰囲気を醸し出していた。
青空のように澄んだ瞳は、見る者を射抜くほどの鋭さと、どこか幼さを残した愛嬌を併せ持つ。その表情は凛々しくも、どこか人懐っこさが漂っていた。
彼女の纏う緑色の軍服は、緑の公国の象徴であり、端正な仕立ての上着にスカートを合わせた独特の装い。軍服の地の色は深い緑で、襟や袖口には白と金の意匠が施され、格式と洗練を感じさせる。腰回りはすっきりと絞られており、彼女のしなやかな身体のラインを引き立てるデザインだ。スカートは軽やかに揺れる丈で、機能性と可憐さを兼ね備えている。その下には黒のタイツがすらりと伸び、足元を引き締めるように見せていた。
さらに、戦場でも動きやすいように作られた黒のブーツが、彼女の足を包み込む。無駄のないデザインながら、しっかりとした作りで、歴戦の騎士にふさわしい頼もしさを感じさせた。
美しさと強さ、清廉さと激しさを備えた彼女は、まさに戦場を舞う戦乙女。
だが、その堂々たる風格とは裏腹に、彼女の笑顔はまぶしいほどに無邪気で、人懐っこさすら感じさせる。まるで子供のように無防備に感情を表に出し、喜びを表現するその姿は、剣士としての鋭さとはまた違った、人としての魅力に満ちていた。
「キッド、待たせてごめんね!」
弾むような足取りでミュウはキッドに駆け寄り、まぶしいほどの笑顔を向けてくる。
「やっとジャンが公王に就く準備が整ったの! キッドの爵位も回復されたんだよ! 一緒に緑の公国に戻ろう!」
ミュウはキッドの手をぎゅっと握る。その眼差しには、喜びと期待が溢れていた。
(よりにもよってこのタイミングでか……)
キッドは苦虫を噛み潰したような顔で、そっとミュウから顔を背ける。
ジャンならば、いずれ公王の座に就くだろうとは思っていた。だが、まさかその吉報が届くのが、再び立ち上がると決めた直後だとは――キッドはその運命のいたずらに、思わずため息を漏らす。
「……キッド、どうしたの?」
ミュウが不安げに問いかけた。
ミュウはキッドの微細な変化を見逃さない。彼女はキッドの最も親しい仲間であり、命を預け合ってきた友だ。
だから、彼女には嘘も誤魔化しも通用しないことを、キッドは誰よりも理解していた。
「……すまない、ミュウ。……俺は紺の王国に仕えると決めたんだ」
「えっ……どういうこと?」
ミュウは大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。彼女の表情には、理解できないものを前にした困惑だけが浮かんでいた。
「助けたいと思った人がいるんだ。……緑の公国には、直接仕えるのとは違う形で力を尽くすつもりだ」
「……言ってる意味がわからないよ」
ミュウは小さく首を振る。
「……すまない。俺の勝手を許してくれ」
「どうして……」
その時の彼女の表情を、キッドは一生忘れないだろうと思った。
怒るでも泣くでもない、感情が壊れてしまったかのような、見ているこっちの胸が痛くなるような顔。
ミュウにそんな顔をさせてしまった自分の罪を、キッドは胸に刻み付ける。しかし、ここで感情に流されてミュウと共に行く道を選べば、今度はルルー王女に同じ顔をさせることになってしまう。
「ジャンにおめでとうと伝えてくれ。……たとえ離れていても、俺たち三人の心は一つだ」
肩を震わせ、動けないでいるミュウを残し、キッドは用意していた馬に跨る。
「待って……」
かすれた声が、冷たい空気に溶けていく。こんなにも弱々しいミュウの声を聞くのは、初めてだった。
ここで振り返れば、間違いなく決意が揺らいでしまう。――だからキッドは、決して後ろを振り向かなかった。
「俺は紺の王国を、緑の公国と同盟を結んで共に戦えるような強国にしてみせる。それができたら、また二人に会いに行く。……今度は二人が待っていてくれ!」
涙も流さず、声も出さず、魂で泣いているミュウを背中に感じながら、キッドは馬を走らせた。
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