廃滅のヴァンパイア
るるはら さなぎ
第一話 紅く赤く焦がれるほどに
①
穏やかに降る雨は瓦礫に塗れたこの世界をゆっくりと黒く染めていた。
空と地面の区別もつかないような黒の中、僕は息を切らして走っている。
頬を伝って口に流れ込んだのが雨なのか、汗なのか、それとも涙なのか。
それすらもわからなかったが、泥の味がした。
「おい、待ちやがれ!!!」
背後から聞こえた怒号に振り返ることはしなかった。
逃げなければ死ぬ、逃げても追いつかれれば死ぬ、そして追いつかれないことなどない。
決まりきったことだった。
友人の静止も聞かずに、道端で少女をレイプしようとするガーズには立ち向かった。
武器を持っている人間に素手で向かっていった。
あの子は逃げられたかもしれないけれど、俺は逃げられない。
逃げられるはずがない。
銃声がする。
いつ当たるのかもわからない弾丸が、地面を抉っていった。
「いつまでも逃げてんじゃねぇぞ!!」
あのとき、確かに僕は自分のことを勇者か何かだと思っていたのだろう。
或いはそうなれるかもと、幻想を抱いていたのだ。
「走って!!」
男を突き飛ばして女の子にそう叫んだとき、何者になることもなく消える命だと思っていた命に意味ができ多様な気がした。
生きることも悪くないと思えた。
だが。意味を見つけた矢先に死ぬなんて笑い話にもならない。
また銃声が響いた、と同時に足首に感じたことのない衝撃が走る。
「ぐぁっ!?」
足を前に出すことなどできるはずもなく、気づけば僕の体は地面に転がっていた。
転んだ痛みなど感じないほどに、足首が熱い。血が止まらない。穴が空いていた。
傷口を抑えながら声にならない声を漏らすのが精一杯でまともに動くことも叶わない。
「やっと当たったか、手間かけさせんなよ」
ゆっくりとガーズが歩いてくる。
逃げなきゃ。
必死で地面を這って前に進もうとする。
目からはとめどなく涙が溢れていた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
まだ何かできるかもしれないのに、やっと何かを成すことができたのに。
「どこ行くんだ……よっ!!」
長銃の持ち手部分が背中に振り下ろされる。
「ぐぇっ!」
まともに吸えていなかった空気が全て搾り出され情けない声に変わった。
「簡単には殺さねーぞ。けんど、俺は男を犯す趣味はねーからな」
脇腹を殴られ、頭を殴られ、太ももを殴られ、何度も何度も殴打される。
「最後は銃弾に犯してもらえよ。その足りねぇ脳みそをよぉ」
頭を庇って縮こまった僕をガーズは殴り続けた。
痛みで何が何だかわからない。
ただ死が迫ってくる実感だけがリアリティを帯びていった。
死にたくない。
頭の中ではその言葉だけがずっと繰り返されていた。
「そろそろお開きにするか」
撲殺できるのではないかと思えるほど僕を殴っていた男の手が止まる。
銃弾を込め始めたのだ。
逃げようにも体が動かない。
骨折か、酷い打撲か。どこの傷がどうなっているのかもわからない。
全身の痛みはとっくに極限を迎えていて、むしろ遠くのものに感じていた。
このまま放っておかれても僕は死ぬ、理解していた。
だが、きっとそうはならないだろう。
銃口が頭部に向けられるのが見える。
「馬鹿がでしゃばりやがって。さっさとくたばれや」
意識がはっきりとしない中、雨が皮膚を打つ感覚だけがやけに鮮明だった。
諦めたくない。諦められない。
この後に及んでもそんなことを考えている僕は、どうやらこいつの言うとおり脳みそが足りていないのだろう。
瞼をあげているのも億劫になり、目を閉じてしまいそうになる。
必死にそうしまいとしているのが何故か、今の僕にはわからなかった。
「やぁ、人間。良い夜だね」
突然、頭の上から声がする。
誰だ。
ガーズのいる方ではない。
どこか幼さを感じる子どもの声だった。
「だ、誰だテメェ!?どっから湧いてでやがった!?」
どうやら、幻聴ではないらしい。
声のした方向になんとか目をやると、今まで一度も目にしたことがないほど深紅な瞳をした少年が立っていた。
その目は血よりもずっと赤い宝石のようだった。
「湧いてでやがったとは、ご挨拶だな。それに僕は、お前に話しかけた覚えはない」
少年がしゃがみ込むと、僕の顔を覗き込んだ
端正な顔を伝う雨水が、僕の額へと落ちてくる。
この世のものとは思えないほどに、全てが美しい。
あまりにこんな汚い世界とは不釣り合いな存在がそこにはいた。
「ねぇ、君の願いはなに?」
何を言っているんだろう。
僕の願い?
僕の願いなんてそんなもの。
「諦めを受け入れず、死に抗ってまで、何を成したい?」
成したいこと、いつだってこの心にあるものは一つだけだった。
この悪夢のような世界に生まれて、何者かになりたい。
誰かの記憶に残れような、誰かの希望になれるような、そんな。
「君が望むこと。その道程は地獄かもしれない。道すがら艱難辛苦が待ち構えているかもしれない。無限の苦しみがあったとしても、それでも望み続けられる?」
今までだって地獄みたいなものだった。
すでに終わった世界で、決められた破滅の道を歩かされる、そんなどうしようもない人生だった。
どんな不幸だって今更だろう。
この思いは変わらない。
「そうか。なら、僕と契約をしよう。君が君であり続けることを誓えるのなら」
これは悪魔との取引か。神の救済か。
もしくは夢か幻か。
知る由もない。
だが、今もし死なずに済むのなら。
この先も何者かになることを望めるなら。
それでいい、それだけでいい。
少女の背中を見送ったとき刹那、心に生まれたあの気持ちを忘れずに済むなら。
全てを賭けてやる。
何もかもを投げ出してやる。
そう思い声にならない声が喉元を過ぎたとき。
一つの銃声が目の前の頭を吹き飛ばした。
「気色の悪いガキだぜ、なんだってんだ全くよぉ」
鮮血を巻き上げ、少年は倒れる。即死だった。
「人様のことを無視して、意味のわからねぇことをグズグズ抜かしやがって」
二発、三発。動かなくなった少年に弾丸が撃ち込まれる。
血がゆっくりと広がっていった。
「だが、こんないいツラしたガキはなかなかいねぇな。まだ下は使えっかな」
男は少年のそばに近づくと衣服に手をかける。
止めようにも、体が動くはずもなく手を伸ばすことすらできなかった。
「結果オーライだな。楽しませてもらうか」
男が銃を置き、自身のズボンに手をかける。
その、一瞬だった。
目の前で男の腕がちぎれ飛んだ。
「……!?うぎゃああああああ!?!?」
叫び声を上げ、のたうち回る男。
きっと状況が理解できていないのは僕だけではないだろう。
「無作法も大概にしなよ、獣風情が」
死んだはずの少年がゆっくりと立ち上がる。
彼がやったのか、何が起きたのか。
思考が追いつかない。
ただわかっている事実は、この世のものとは思えない端正な顔立ちに傷など一つもついていないということだけだ。
「ぐぉっ、な、なんだってんだ、この、化け物めぇ!!」
ガーズが腰のベルトについている小銃を闇雲に撃つ。
弾丸の何発かは確かに命中した。
血飛沫が上がり、辺りを赤く染めた。
けれどそれ以上でもそれ以下でもない。
少年は軽蔑した眼差しで、男を見つめつづけていたのだから。
「殺し甲斐もないけれど、敵意を向けてくるなら仕方ない。値する価値がなくともやってくるのが死だから」
不釣り合いな長銃を持ち上げると、片手でそれを簡単に扱い彼は引き金を引いた。
迷いも戸惑いも造作すらもなく、命を終わらせる。
命乞いの暇はなかった。
「さて」
出血のせいか意識が朦朧としてき始めた、目が霞む。
そんな僕の近くに再び少年はしゃがみ込んだ。
「契約成立だ、君の願いを叶える手伝いをしよう」
顔を近づけてきた少年が目を細めて小さく笑う。
「先に僕の願いは叶えてもらうけどね」
その言葉を最後に、意識は闇の中へと落ちていった。
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