第1話 まどろみの淵から



「ミールダ」



 背後から声がする。


 夢とうつつの狭間で偶然捉えたこの呼びかけを、ミルダは無視した。


 騒がしい教室で何度も何度も寝ようとして、ようやく眠くなってきたのだ。

 できればこのまま、窓際の暖かな陽気に埋もれて寝てしまいたい。



「ミルダ、おーい」



 いや状況に気づけバカ。

 どう見たってこっちは腕を枕に寝てるだろうが。



「おーきろって、ほら」



 いや、ない。

 ほんっとありえない。


 こいつは寝てる人の背中を揺すったあげく、長いおさげの片っぽを掴んで引っ張ってきた。


 それでも、ミルダはがんばって寝たフリを続けた。

 がんばって、がんばって——ついに耐えきれず顔をあげた。



「あーもう!! しっつこいなあクヴェン!」



 見なくても、こんな失礼なやつが誰かわかる。


 振り向くと案の定、おさげを掴んでいるのは後ろの席のクヴェンだった。

 クヴェンは悪びれない笑顔のまま、口先だけで悪い悪いと言うと、人懐っこい青の瞳をこちらに向けてくる。


 この憎めない感じが、本当にずるいんだよなあ。



「で、なに?」


「いやー、お疲れなんじゃないかって心配でさ」


「それ普通寝かしとくよね?」


「ま、それはいいとして。どーしたんだ? 人気者のミルダさんがおしゃべりもせず寝てるなんてさ。しかも、あんな事件があったってのに」



 むっとしたようにミルダの眉があがる。



「まだ事件って決まったわけじゃないじゃん」


「そうかぁ? でも誰かが倒れてたってのは間違いないんだろ? 何人も見たって話だし。お前だって見たんだろ?」


「……」



 たしかに見た。

 移動教室の帰り、偶然通りかかった魔法薬学保管庫の扉が開いていて、その奥で誰かが倒れていたのを。


 でもそれ以上のことは知らない。

 すぐに中にいた先生たちに気づかれて教室に戻されてしまったし、担任も、次の授業が始まるなり自習とだけ伝えてどこかへ行ってしまった。


 それでも、教室はさっきからこの魔法薬学保管庫の話で持ちきりになっている。


 ミルダはクラスメイトたちを遠巻きに眺めると、小さく息を吐いた。



「みんなよく飽きないよねぇ」


「こんな機会滅多にないし、魔法使いってやつは生来せいらいの噂好きだからな」


「ぼくらはその卵を名乗ってまだ半年だけどね」



 ミルダもクヴェンも、昨年の秋にプリエール魔法学校に入学したばかりの1年生だ。


 ミルダの胸元のリボンタイにもクヴェンのネクタイにも、臙脂えんじの布に金の刺繍ししゅうで1本線が引かれている。

 この線は学年が上がるたびに増えていき、最後には6本になる。


 魔法学校には特別な事情がない限り16の年に入るから、卒業の頃には21歳になっているわけだ。


 ま、16歳じゃこの騒ぎは仕方ないかとミルダは納得すると、うーんと伸びをしてから再び寝る体勢にはいった。



「じゃ、ぼくもう寝るから。先生戻ったら教えてー」


「おい待った、俺の本題はこっからだって! お前に紹介したい、いードリンクがあるんだよ! 疲れも取れるし勉強もはかどるし、今なら友情価格で安く斡旋あっせんしてやるから」


「はいはいおやすみー」



 ミルダはひらひらと手を振ってクヴェンをあしらう。そして、そのまま目を閉じかけて。



「あ、ねえ」


「ん?」 


「まだ誰も出れてないよね?」



 事情を知らない人が聞けば首を傾げるような言い方だったが、クヴェンにはすぐにわかったらしく、なんとも言えない笑み浮かべて言った。



「心配しなくても、きれーに全滅だ。ま、精霊相手じゃな」



 クヴェンの視線を追うように、ミルダも教室の後ろに顔を向ける。


 机に寄りかかってしゃべるクラスメイトの奥に見える、1枚の扉。

 その少し手前に、精霊と呼ばれる存在がいた。


 等身大の女性を飴で練り上げたかような、透明度のある滑らかな身体。

 一見氷で作った彫像のようにも思えるが、波打つ髪が彼女が生きていることを伝えてくる。


 この精霊がミルダの、そしてクラスメイトたちの悩みの種だった。



「精霊が見張ってさえいなきゃなー。寮に戻ったりできたのに」


「窓からホウキで出ようとしたやつも捕まってたし、俺たちじゃどうがんばっても太刀打ちできないからな」


「だよねー」



 先生がいなくなって早々、このクラスでは様々な方法で脱出が試みられていた。


 目くらましに高速移動。はては魔法による直接攻撃まで。

 習った魔法をかたっぱしから使ってみたが、それでも精霊の守りを突破することはできなかった。


 扉の前にいる精霊は先生が戻ってくるまで、生徒が出ていかないよう見張れという命令を忠実に実行し続けるのだろう。

 クラスメイトたちが延々えんえんとおしゃべりを続けているのも、それぐらいしか暇つぶしがないからだ。


 外に出れない以上、先生が戻ってくるまでここで待つしかない。

 そう結論に達したとたんに。



(——退屈だな)



 ふっと。心に影が差すように、そんなことを思ったときだった。


 音もなく、視界の端で誰かが席を立ちあがる。

 ミルダの大きな瞳が、自然とそっちを向く。



 入学して半年。

 彼を認識したのは、このときが初めてだった。

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