第17話 鏡の恐怖

「二千七百五十円になります」


 スーパーで無作為に鏡を十一枚購入したオレは代金を支払った。この時代は百均なんて一般的じゃないから結構な出費だった。ビニール袋引っ提げて帰宅しながら考えているのは本日の稽古でのこと——




「恐怖がみんな足りないのよ」


 ひっつめ先輩が憤ったようにいった。コンテンポラリーの動きにはなってきた、でも表現されているのは悲哀であって恐怖ではない。悲しいという感情を表すことは出来ても怖いという感情を表すのは容易なことではないのだ。


「出来てないっすか」


 オレの問いにひっつめ先輩は迷わず答えた。


「うん、出来てない」


 メインキャスト以外のみんなで練習しているのはその他大勢の村人役。入部したばかりのオレだが幸い村人Hという配役をもらった。村人を演じる人間は舞台中央に配置された大きな鏡の周囲をぐるぐる踊りながら死の恐怖を煽り立てるという重要な役目を担っている。が、それが出来ていない。


「みんな鏡を怖いって見てる? ただ想像のままに考えて演じようとしてないかしら。ライフォールの鏡は死を映す鏡なのよ。もっと怖いはず」


 なるほど、もっともな意見だ。


「厳しすぎるんじゃないか、大崎」


 苦言を呈したのは部長だった。


「いや、厳しくないよ」


 口をはさんだのは脚本を書いた学生作家の岸本さんだった。


「その他大勢の村人なんていってるけれど、極めて大事な役目なんだ。ここをみんなに頑張って演じてもらわないとライフォールの舞台そのものが成立しない。想定している迫力なんて出ないからね」


 真っ当な意見だろう、たぶん彼の頭のなかにある完成像とオレたちの心で描いているものがつながっていないんだ。


「どうすればいいかな」


 ひっつめ先輩があごに手を当てて、考えたあとぽんと手を打つ。


「みんな、鏡買ってきてちょうだい」




 ひっつめ先輩の作戦はこうだった。鏡を出来るだけたくさん購入して自宅のあらゆるところに置いておく。キッチン、リビング、枕元、トイレ、洗面所。外出するときは常に持ち歩いてその存在を意識する。鏡に映れば自分の死にざまが見える。というより死ぬ。オレは死ぬんだという思い込み。


「よっし、これで終わり」


 オレは最後の鏡をリビングの座卓の上に置くと前に腰かけた。静かに視線を下ろすと厳つい月代が映る。ぷっと笑う。面白いよなあ、月代。なにを見てんだオレは。


 時計の音がコツコツ打つなかで静かに肘をついてあごを手に乗せて鏡を見つめていた。今日は授業もねえ、暇なのでちょっと変顔してみる。次は大げさに笑ってみる。なんも状況は変わらねえ。


——大事なのは想像力よ。鏡を見れば死ぬの、それを想像して。


 ひっつめ先輩がいっていた言葉を思い出す。なんだよ、想像力って。鏡を近づけたり遠ざけたりすんごい斜めから見たり。その日は一日中鏡を見つめていたが、思考も働かないままに劇的変化は起こらなかった。


 だが翌日、憑りつかれたように鏡を見つめてると、


「あれ、オレ……」


 なんだか頬がこけている気がした。右を向いて頬を映す、左。やっぱり痩せている。それからだんだん鏡を見るごとにオレの頬はこけていく。それもそのはずだ、オレは食事もろくにとらずに一日中鏡を見て演技のことばかり考えていた。食欲は減退し、学食の大盛りが食べられなくなって、ランチプレートも残すようになって胃は縮小し体力が落ちていく。


 するとどうだろう、映る顔にだんだんと死相が現れてきたような気がした。見れば見るほど生気を吸い取られる死の鏡、ポケットに入れていた小さなコンパクト鏡を開こうとするが開けられない。見ればどんどん生気を失ってゆく。それからオレは学校生活が怖くなった。


 トイレに入れば鏡がある。授業を普通に受けてても窓ガラスに反射した自分の姿さえ怖い。トイレでは鏡から目をそらし、窓際の席はあえて選ばず、登校時間をしのいでも自宅の洗面所には鏡がある。オレは洗面所にいくのを極力控えて顔を洗うのも歯を磨くのもやめた。心には一心がある。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない!

 

 A棟の端から端までを走り抜け全力で叫ぶ。


「ゔああああああああああああああああ」


 ガラスの壁にばんとぶつかって額を打ったところで疾走は止まった。ガラスに映ったオレは青白い顔をしていた。ガラスの向こうのオレがしゃべる。


『いい演技出来てるじゃないか、吉幸』


 ポケットからコンパクト鏡が落ちて開いた。音に気を引かれ覗き見ると鏡に映ったオレは自らの影におびえて切っていた。青白い顔がそれでいいんだよと笑う。狂気のなかにおいて死がはっきりと輪郭を持っていた。


 ライフォールの鏡、公演まであと二週間。

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