猫と精神病
小鳩夏生
猫と精神病
僕の幻覚は常に猫の形をして現れる。
にゃあという声で眩暈。その数秒後に音もなく横切る黒猫を目撃し、まただと呟く。この幻覚は時と場合を選ばない。節操なく、気ままに僕の視線を奪ってはたちまちに消えてしまう。
それは家のキッチンだったり、リビングの片隅だったりする。あっと思った時には既に猫はいない。あるいは通勤快速の中、すし詰めにされた乗客たちの足元を縫うように歩いていることもある。勤め先の上司の机の上を駆けていくこともあれば、道端に不意に現れることもある。
全てに共通するのは、猫は決して僕に近寄らないということで、あの幻覚が僕にすり寄ってきたことはただの一度もない。
猫が僕に思い起こさせるものはいくつかある。柔らかな身勝手、愛憎の同居、徒然なる旅路。だから、あれを追おうという気は早々に失せた。勝手にさせておくのが良いのだと思う。経験上、猫とはそうやって付き合うのが最善の作法なのだ。
近頃愛猫を亡くした恋人は、僕の病気が羨ましいという。
「あの子は私よりあなたに懐いていたから。きっと憑いたのね」
この奇妙な幻覚が現れ始めたのは確かに彼女の愛猫が死んでからだった。その言葉に苦笑いを返しながらも、はたして目の前の女は死後、僕に憑くだろうかなどとひっそりと無意味な思案をしてしまう。
恋人は前にも増して部屋に籠りがちになった。服も、以前着ていたものはすべて捨ててしまったようで、いつも表情には悲しみが滲んでいた。
猫がいた頃の自分を塗り替えようとしているようで、彼女は彼女なりに自身の人生が続いていくことを自覚していることが側から見ていて分かった。それは前向きだし悪い兆候ではないのだが、まだ彼女には時間が必要だ。あんなに熱心に取り組んでいた翻訳の仕事も、以前よりはさすがに手についていないようだった。机に向かって辞書を引き勇猛果敢にペンを走らせる後ろ姿はなりを潜め、代わりに疲れたように肘をついて異国の言葉を呟きながら仕事をするようになった彼女は見ていて痛々しいものがあった。
気持ちが落ち着くまで仕事は減らしていいし家事も出来る限り自分がやると申し出ると、恋人は申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい、もう一ヶ月経つのに気を遣わせてしまって」
猫は、両親を早くに亡くした恋人にとって唯一の家族だった。僕にとっては、猫は猫以上でも以下でも無かったが。
「ねぇ、あの子まだここにいる?」
ソファに腰掛けて本を読んでいた恋人が、不意に顔を上げて僕の方を見た。
おそらく無意識なのだろう、膝に乗せた本の背表紙を撫でる手つきはあの黒猫を撫でていた時のそれとまったく同じだ。僕は少しだけ目を細め、それから恋人の手をとって答えた。
「僕が見ているのは幽霊じゃなくて幻覚なんだよ。猫はもうここにはいない」
「どうしてそう言い切れるの」
「猫は一緒に火葬してやっただろう。今頃猫専用の天国で他の子たちと楽しくやってるよ」
慰めになるとは思えなかったが、とにかく僕はそう言って彼女の肩を抱いた。
「そうだといいけど。気が強いけど優しい子だったから」
沈んだ声色とは裏腹に、彼女の肩はじんわりと熱くなっていく。新しい猫を飼えとは言えなかった。肉親が死んだからと言ってそれを新調しろと簡単に言う人間はいない。彼女の猫は失われたのだ。
猫は家の浴槽で溺れ死んだ。
お湯の様子を見に行った恋人がなかなか帰ってこないので風呂場へ向かうと、彼女は茫然と立ち尽くして浴槽の中を見下ろしていた。
水の底に沈んだ黒猫は影のように揺れていた。僕は一瞬息を呑んだが、すぐに両腕を浴槽に突っ込んで猫を引き揚げ狭い背中を叩いた。小さな口に指を突っ込んでこじあけ、何度も叩くと大量に飲んだのであろう水が少し出てきたが、両手に抱いた猫はもうぴくりとも動かなかった。それでもしばらく僕は猫の背中を叩き続けていて、そんな僕を彼女はただ黙って見つめていた。
猫の体はあっという間に冷たくなっていき、エメラルドのように緑がかった目からは魂が抜けて、すっかり濁ってしまっていた。
猫の瞼を閉じさせながら、僕はただ「死んだ」と呟いた。風呂場の換気扇の音だけが耳に響いて、僕は濡れた猫の死体を手の中で持て余したまま、だけど身動きは取れずにじっと恋人の言葉を待った。
恋人は無言のままだった。無言のまま、妙に確かな足取りでゆっくりと風呂場を出ていって、白いバスタオルを持って戻ってきた。屈み込み、僕の手からそっと猫を抱き上げると、そのままリビングのソファに座って濡れた体を優しく拭いてやった。涙一つ流さず、ただ酷く疲れたような眼差しを膝へ落としながら、いつもそうしているかのような手つきで猫を抱いた。
僕はそんな恋人に近づくことさえできなかった。少し離れた場所から阿呆のように突っ立って、猫の死骸を抱く彼女を見守るふりを続けていた。そして僕は、今も彼女にかけるべき言葉を探しあぐねて沈黙している。
猫がにゃあと鳴く。何かに激しく揺さぶられたかのように視界がぶれる。ぴんと立った黒猫の尻尾が、家の壁の中へと吸い込まれていくのを目撃する。
「旅行にでも行くかい」
「旅行?」
黒猫の去り際に、僕は呟いた。壁から手元へと視線を戻すと、親指の先がほんの少しだけ切れて血が滲んでいた。包丁を置いて、水で傷口を洗い流しながら言葉を続けた。
「こんなこと言うのはちょっと無神経なのかもしれないけど、僕たちには気分転換が必要だと思う」
傷口は本当に浅かった。水に血が混じって排水口へと流れていく数秒の間、彼女からの返事はなかった。それでも根気強く待っていると、リビングのほうから微かな返事が聞こえてきた。
「どこにいくの?」
迷子の少女を想起させるような不安げな声だった。そういえば僕たちは二人で旅行というものに行ったことがなかったなと思い出したが、とにかく思いついたことを適当に言葉にしてみた。
「海外のビーチも今なら安く行けそうだし、近場の温泉でも……」
「猫がたくさんいるところがいい」
突き刺すように恋人が言った。しばらく、野菜を切る音だけが家に響いた。
この家は未だどこもかしこも猫だらけであって、つまるところ、彼女は何処にも行きたくないのだった。
白状すれば、猫に対してそれ以上の価値を見出すことは、結局僕にはできなかった。それどころか、どうして世の中には猫料理を出す店がないんだろうとか、そんなことすら考えていた。日本を出れば犬を食べる文化がある国があるというのは有名だが、猫料理で有名な国は聞いたことがない。探せばあるのかもしれないが。
猫のサラダ。猫のスープ。猫のステーキ。猫のプディング。そんなコース料理があってもいいと本気で考えていたが、それを恋人の前で言葉にしたことはなかった。恋人はきっと、僕も彼女と同じように猫を愛していると思っていただろう。だけどそれは間違いだ。
夕飯は、恋人の好物のカレーにした。
猫が死んでから、元々その手の家事が好きだったのもあり料理の類は全て僕が引き受けるようになった。小さな口で咀嚼がしやすいように野菜を小さく切ったり、彼女の好みに合わせて薄めの味付けにしたり、肉を多めに彼女の皿によそってやったりしていると、それだけで満たされるものがあった。
「昔、旅行好きの友だちが言っていたんだけど。ギリシャのアテネなんかは、そこらかしこに猫がいるらしい」
「アテネ?アテネオリンピックの?」
「そう。遺跡が沢山あるところ。レストランのテラス席で食べていたりすると、猫が必ず足元に寄ってくるってさ。慣れたもんで、人に近付くのを全然怖がらないんだと」
「アテネ、アテネね」
「地中海に面しているから海も綺麗だし。ほら、この前テレビでやってて、君も行ってみたいって言っていた……青と白が綺麗なホテル……あそこも確か、そんなに遠くないはずだ。ついでに泊まっていけたら素敵だと思わない?」
彼女はスプーンでカレーをいたずらにかき混ぜるばかりで、一向に食べようとしない。あの日からずっと、考え事をしているような表情を浮かべて、猫、猫とぼやくだけだ。
死んでもなおあの猫は彼女を家に縛り付けている。僕はだんだん腹立たしくなってきたが、その怒りはもはやどこにもぶつけることができないことも知っていた。これは仕方がないことなのだ。どうしようもなく煩雑で、必然的な問題。だから、時間をかけて解いていくしかない。そういう問題は、この世界には腐るほどある。できることと言えば、彼女を変わらず愛し続けることくらいだ。
僕はゆっくりとカレーを咀嚼して飲み下した。もうとっくに、飯の味なんか分からないほど僕の精神病は悪化していた。恋人を起こさないよう、寝たふりをして天井を見つめて朝を迎えることも少なくない。医者には一種のノイローゼだと言われたが、原因という原因も思い当たらず薬だけが増えていく日々だ。
猫には何の思い入れもない。なのに、猫が死んだ日から。
椅子の下から、またにゃあという鳴き声。尻尾がくるぶしに巻きつく不快な感触が確かにあった、その瞬間僕は小さく叫んで椅子から立ち上がった。あまりに勢いづいたので、テーブルから皿が転げ落ちた、床一面にカレーがぶち撒けられる。
無意識のうちに息が上がっていることに気付き、慌てて恋人のほうを見ると彼女は、まだうつろな顔をして自分の皿を見つめていた。僕の叫び声も、床の惨状もまるで気付きすらしていないような様子で、ただぼんやりと考え事の続きをしている。
僕は猫を探した。しかし、猫はどこにもいない。
「猫はいないよ」
見たままの事実を口にしただけだ。
「もういない」
気づけば僕は彼女の両肩に掴みかかっていた。枯れ木のように瘦せ細ったその身体に思わず息をのむと、彼女が視線をゆっくりと上げてようやく僕を見た。そしてその顔が、みるみるうちに苦悶に歪む。
家中に金切声が響き渡った。その細い体からは想像もできないような勢いで彼女は僕の手を振り払い、猛然と走り出した。悲痛な叫び声はまるで人間のそれではなく、僕はしばらく呆気にとられていたが、数秒の後に慌てて彼女の後を追った。
どたどたと廊下を駆け抜け、彼女は風呂場のドア開けた。夕食の後に入れるようにと溜めておいた湯舟に、踊るように身を投げる。飛沫がゆっくりと、本当にゆっくりと僕の足元へと散っていく。
彼女の黒髪が、猫の前足が、白い四肢が、猫の尾が、身にまとった麻色のワンピースが、猫の瞳が、彼女の瞳が、湯の中で揺れていた。
今度は僕が悲鳴を上げる番だった。急いで両腕を浴槽に突っ込み、彼女を抱き上げる。湯を吸った洋服は重く、彼女はぴくりとも動かない。薄っすらと開いた目が、僕を見ているのかなんて分かるわけがない。
「明日は僕と公園に行こう。美しいものだけを眺めて歩こう。猫が必要ならいくらでも、僕の見ている猫について話してやるから、だから頼む、頼む」
自分でも驚くほどの震え声で僕はまくし立てた。彼女を抱きしめる腕の力がだんだんと緩む。
やがて彼女が口を開いた。かすれた声が、僕の耳にやんわりと入り込む。
「もういいの。もう全部受け入れることにしたの。あの子はあなたに憑いたの、私じゃなくてあなた」
それは求めて止まなかった言葉だったはずだ。甘すぎる理想の実現は、胸やけのような苦しさを僕にもたらした。僕は浴槽から彼女を抱き上げ、タオルを何枚かかけた。
憑いた、というのはあながち間違っていないのかもしれない。そして多分、彼女はどんな死に方をしたとしても僕の幻覚にはなり得ないだろう。
濡れた恋人の艶やかな黒髪は、溺れる猫の姿を思い出させる。束ねるように片手で掬うと、柔らかく細い首元に触れた感覚が蘇ってきた。それを躊躇もなく、力一杯に締め上げれば、耳元でまたにゃあという声がする。
耳元だけじゃない。その声はテーブルの上から、キッチンの方から、扉の隙間から、ソファの下から、鉢植えの陰から、カーテンの裏から、一斉に僕を責め立てる。
「綺麗に乾かしてね。明日は久しぶりのデートなんだから」
ドライヤーの音と猫の鳴き声の間から、恋人がすすり泣き交じりで言う。分かった、と僕は返事をする。彼女がまた何かを呟く。今度は、猫の鳴き声のほうが大きくて聞こえない。
「ねぇ、聞いてる?」
これが僕への罰ならば、早く狂ってしまいたい。そう願わずにはいられない。
まだ少し赤い目でこちらを僕を見上げる可愛い恋人に、僕は努めて正常に微笑みかけた。
猫と精神病 小鳩夏生 @kobato_natsuki
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