居酒屋伊三次 闇稼業

三田久弘

第1話 序

浅草寺門前に繁盛している飯屋があった。

めしや大虎。

昼前から開けているが、暮れ六つの鐘が鳴ってからも客足が絶えない。

安酒ではあるが、アテの美味いのが評判である。

ナスの田楽、里芋の煮っころがし、その日に仕入れた雑魚の煮付けなど。

その美味さに客が絶えないのであった。


その日も大工や居職の職人やらで一杯であった。


「おーい、大将、酒が足らねーぞ、まだかよ」

「おめーら飲み過ぎだ。そろそろ閉めるぜ」

「もうちょっと飲ませてくれや」

「駄目だ。帰れ帰れ。またかみさんに叱られるぜ」

「なんだよ、仕方ねーな、また来らー」


やっと店仕舞と暖簾を下げるよう下女のおきぬへ言い、茶碗皿の片付けを小僧の三吉に言付け、竈の火を落とした時、暖簾をかき分けて入って来た侍が声をかけた。


「大将はいるかい」

「もう店仕舞なんだが」

と顔を出すと

「店の亭主が伊三次って聞いたから来たんだが、やっぱりあんたか」

怪訝そうな顔で侍を見た亭主は

「ん、おまえさん大久保さんかえ」

「覚えていたか、いつのまにか道場を辞めて消えちまったが、こんなところで飯屋をやってるとは、考え付きもしなかったぜ」

手ぬぐいで顔を拭きながら店に出てきた伊三次は懐かしい顔に

「何年ぶりかねー、その成りは親の代を継いで八丁堀になったようやな」


「去年親父が隠居してな。ところで何でまた飯屋をやってるんだ」

小上りに腰を掛け、出された茶を啜りながら聞いてきた。


「話せば長いが、五年前に養子先の両親が流行り病で次々と亡くなっちまってね。知っての通り貧乏御家人だし、嫁も取ってなかった、家を継いだところで先は見えてる。」

「貧乏御家人はお互い様だな、それで御家人株を売ったのかい」

「ああ、丁度大店で御家人株を欲しがってるって話を聞いてたんで、これ幸いと売っちまった」

「それでここを」

「まぁ、元々料理好きやから飯屋でもやるかって始めたのさ」


八丁堀と大将との話を不思議そうに聞いてた下女のおきぬが

「大将って、元はお侍だったの」

と聞いてきた。

「伊三次はな、神田三崎町の横山道場で師範代になる寸前で辞めちまった元は侍だよ」

「あれまー、そんなに強い人なんですか」

「道場じゃ、俺も敵わなかったほどだ」

「そんな昔の話はどうでもいいや、わざわざ訪ねて来たほどだから、何か用事があるんだろ」


茶で喉を潤して姿勢を正した大久保は

「頼みがあってな」

「なんだい頼みって、事と次第によっちゃ相談にも乗るが」

「ここいらを縄張りにしていた弥七って言う岡っ引きを知ってるかい」

「何度か店に出入りしてたな、そう言えば、最近見ないが」

「七日前の晩、卒中でポックリ逝っちまったんだよ」

「そりゃまた気の毒な。それで」

「代わりの岡っ引きを見つけなきゃ手が回らねぇんだ」

「その代わりの岡っ引きを探せばいいのかい」

「いや、おめぇさんにやってもらえねぇかと」


飲みかけた茶を吹き出した伊三次は

「おいおい、冗談じゃねぇぜ。こうして店を構えているんだ、そんな暇はねぇよ」

「ここ一帯の町役人にも聞いたんだが、弥七の跡を継いで岡っ引きに相応しい奴は、腕っ節が強よくて正義感の塊のような、お前さんしかいねぇって言われたんだよ。なんとかならねぇか」


「そう言われてもねぇ。俺が店を空けると商売できねぇ」

「そこの小僧と下女の二人でやれねぇのか」

「無茶言わんでくれ、おきぬには仕込みを教えちゃいるが、客に出せる料理はまだだ」

「店が忙しくない時だけ、やってもらう訳にはいかねぇか」

「難しいこというね、暫く考えさせてくれ」

その言葉を潮にまた来ると言って出ていった。


「旦那さん、私と三吉でお店を回せるよう頑張りますから、明日から色々教えてください」

「そう簡単にはいかねぇが、やってみるか」

小僧の三吉も目を輝かせながら頷いた。


翌日のこと

珍しい御仁が続くものか、浪人姿の二人組が暖簾を開いて入って来た。

「伊三次はいるかえ」

「どちらさんで、こりゃまた珍しい奴が来たな」

顔を綻ばせながら伊三次が顔を出した。

二人の浪人は小上りに腰掛け、酒と肴を注文した。

「何年ぶりだ」

浪人の一人が呟いた

「五年ぶりかの。この店を出した時以来だ、二人とも元気そうや、顔艶はよさそうだ」

「そこそこ仕事があるからの」

「まだ忍び仕事をやってるのか」

周りに聞こえぬよう声を落とした。

「俺達にはそれしかないからの」

「今日はまたどうした、二人揃って」

出された酒をちびちびと飲みながら

「ちと大きな仕事が回って来てな、二人じゃ手が足らぬ。加勢を頼もうと思っての」

「加勢だと。そりゃ無理な話だ。店をほっぽり出す訳にはいかぬよ。おまんまの食い上げだ。他の連中にはツナギは取れねぇのか」

「郷に行ったが使える奴がおらなんだわ」

「加勢する訳には行かぬから、仕事の中身は聞かぬが、あまり無理をしちゃならねぇぜ」

相談が成らなかった二人は肩を落としながら帰って行った。


三人の話に聞き耳を立てていたのが、下女のおきぬだった。

「大将は前はお侍だったんでしょ。しのびの仕事ってなんですか」

「おめぇ、盗み聞きしたな。その話は忘れろ。でないと仕込みや料理は教えねぇぜ」

おきぬは肩を窄めながら

「すみません、分かりました」

と応えて調理場へ戻った。


伊三次こと木村伊三次は、先祖は相模国の風魔の忍びで戦国の頃は北条氏に仕えていた忍びの末裔であった。

戦乱が終わり、徳川の世となり、幕府に仕えられるのは伊賀甲賀の忍びのみ。風魔忍びは北条氏との繋がりが強かったことで幕府からは避けられていた。だが、密かに河内狭山藩主、北条氏朝には細々とながらも繋がりを持っていたものの、上忍から下忍まで食うに困る日々を送っていた。


上忍の中でも剣の腕、忍びの才能高かった伊三次は、早々と忍び世界に見切りをつけ、江戸に出て剣術道場を見て廻り、道場主の評判を探り、名を木村伊三次と変えて、質実剛健で名高い横山道場の門を叩いた。


小野派一刀流の横山道場には、幕閣の子弟から御家人の子弟、浪人まで二百を超える弟子がいた。

弟子の末席から始まった伊三次の稽古は真面目一筋。元々風魔流の剣術では右に出る者はなく、下地はできていたが一刀流とは型が違うこともあり、最初は慣れるのに苦労した。

日々の鍛錬を見ていた道場主の横山忠介は、伊三次の人柄も重視し、後継ぎのいない山本権兵衛という御家人からの相談もあって、伊三次に御家人への養子縁組を持ち掛けた。

伊三次としては、初めからどこかの養子縁組があればと、虎視眈々と狙って日々の精進を続けていたため、願ったり叶ったりの話であり、即答で決めてしまった。


アテが外れたことは、養子縁組と聞いて娘の婿養子と思っていたのが、子無しの養子と言われ、落胆したことであった。

しかし、養親山本権兵衛は伊三次の人柄を気に入り、嫁探しに手を尽くしたが、夫婦共々流行り病にかかり、養子に入って僅か一年足らずで二人とも亡くなってしまった。


養父が存命中に家督を譲ってくれたのが幸いし、御家人株を売ることができた。

世話になった道場主の横山忠介には養父母が亡くなったこと、御家人でいることに悩み町人へ身を落とすと伝え道場を辞した。

師範代へとの推挙も頂いたが、武士という身分への執着が消えてしまっていた。


程なく御家人株を欲しがってる大店がいるとの噂を聞き、株を売る代わりに飯屋を営める表店を探してもらったのが、大虎の始まりであった。


飯屋の朝は早い。明け六つ前に野菜、魚を仕入れ仕込みに入る。

下女のおきぬには少しずつ仕込みを教えていたが、大久保同心からの話が気になり、仕入れから仕込みまで細かく教え込んでいた。

小僧の三吉も同様に酒の仕入れを教え、料理の仕込みもおきぬへ教えながら見て覚えるよう教えて込んでいた。


めしやを始めて一年を過ぎた頃のこと。

浅草寺への参詣が済んだ後、出店を冷やかしながら帰る途中、ヤクザ者に絡まれていた子供がいた。伊三次は見て見ぬ振りもできず止めに入った。

「おいおい、子供相手になにやってる」

「邪魔するんじゃねー、こいつら俺の懐を狙って来やがったんだ。ガキの躾だ」

「そうか、そりゃ悪いことだが、そろそろ勘弁してやれ」

「馬鹿言うな、まだ俺の気が済まねぇ」

そう言われた刹那、伊三次はヤクザ者の腕を掴み投げ飛ばした。

「その辺でよかろう」

投げ飛ばされたヤクザ者は、ほうほうの体で逃げて行った。


「おい、大丈夫か」

「あ、ありがとうございます」

「しかし、何でまた人の財布を狙ったんだ」

「お金が無くて、三日食べてないんです」

「親はどうした」

「二人共病で死んでしまった」

「家はどこだ」

「練馬の方」

伊三次はこのまま放っても置けず、浅草の大虎へ連れて帰った


「腹が減ってるんだろ、飯はあるから好きなだけ食いな」

と丼に飯を盛り、味噌汁と漬物を出した。

よほど空腹だったのか丼飯を三杯食べ、落ち着いたのか姉弟とも寝てしまった。


翌朝、目覚めた姉弟は伊三次へ昨日のお礼を言い暫くここへ置いてもらえないかと縋った。

独り身の伊三次にとっては面倒だなと思ったが、丁稚を取ったと思う事にし働いてもらう代わりに住まわせることとした。


八丁堀の大久保は見廻りの途中でちょくちょく顔を出すようになり、それとなく様子を伺っているようだった。


風魔時代の同輩が訪ねてきてから半年たったある日、一人の女が店を訪ねて来た。

「伊三次さんはいますか」

「大将、お客さんだよ」

「どちらさんで」

手拭いで顔を拭きながら出てきた伊三次は、女の顔を見て首を傾げた。

「どっかで見たような」

「伊三次兄さん、楓です」

「ん?楓?あの楓か?」

「はい、お久しゅうございました」

まだ風魔の里にいた頃、伊三次を兄のように慕っていた下忍の娘であつた。


「見違えたな。小娘が綺麗に育ったか」

と笑い出した。

「いやですよ、もう十九になるんですから」

「そうか、いやしかし良くここが分かったな」

「半年ほど前に、喜三郎さんと与一郎さんが、伊三次さんを訪ねるって言ってたので」

「そうか、あいつら元気にしてるか」

「それが、二人共亡くなりました」

「え、そりゃどういうこった」


奥の小上がりより二階がいいかと、おきぬに暫く店を任せ、楓を二階に上げ詳しい話を聞くことにした。


「死んだとはまことか」

「はい」

「いつの話だ」

「骸が見つかったのが三日前、二人とも忍び仕事に向かうと言い残して、郷を出たのが四月前で」

「それで」

「二人とも何の仕事で、どこに行くのか誰も知らぬまま三月が過ぎましてね」

「俺も手伝えぬ故、中身は聞かなかった」

「一人だけ行った先を聞いてた人がいまして、長老の小太郎さんです」


風魔の小太郎。風魔一族を束ねる長であるが、徳川幕府も五代目の世となり、風魔一族も衰退し、名ばかりの長であった。


「それで、あいつらどこに向かったのだ」

「甲府へ」

「甲府なんぞへ何をしに行ったものか」

「五代様のご嫡男が亡くなり、次の将軍に誰を据えるのか揉めていますでしょう」

「何やらそんな噂も聞くな」

「二人は尾張がどうとかと言っていたらしく、その筋かと思いますが」

「尾張な」

「尾張藩の仕事かもしれませぬ」

「それはなかろう」

「どうしてですか」

「尾張藩との繋がりがない。待て待て、将軍家の世継ぎ問題に首を突っ込んだのか」

「そのようで」

「馬鹿な。将軍家の世継ぎに誰がなろうと儂らには関係あるまいが、金に釣られたか」

「何かを探るとか、毒を盛るかの仕事ではなかったかと」

「それで、誰かに抹殺されたか。ん、亡骸はどこにあった」

「甲府街道は鶴瀬宿の手前の間道で、近くに住む百性が見つけました。二人とも前から袈裟がけでバッサリと。宿場役人が身元を周辺の宿や江戸にまで問い合わせていたらしく、郷の者も気になり身体風体を確認したようで、あの二人に間違いないと」

「それで、長老は何と言ってる」

「仕事の上での死亡であるから、とやかく詮索するなと」

「なんとも気弱なことよ。残った家族は」

「幸いというか、二人とも独り身でした」

「左様か、しかし仇は打ちたいと思う者もいるであろう」

「小太郎さまがなんと言おうと、私は仇を打ちたいと思っております」

「お主一人では無理じゃ」

「ですが、このままでは二人が浮かばれませぬ」

「はて、如何したものかの」

「伊三次さまは何とも思わぬので」

「そうではない。そもそも二人が誰に頼まれたか」

「幕府に恨みを持つ風魔としては、尾張側ではないでしょうか」

「いや、分からぬが綱吉公に近い者が尾張の策謀に気付き風魔に近寄ったと考えられなくもない」

「しかし、幕府側なら伊賀者や甲賀者を使うのでは」

「確かに、御庭番を使うのが本来の筋ではあるが」

「ならば、やはり尾張」

「尾張藩ならば、御土居下の忍びがおる」

「他の筋からの依頼とか」

「風魔一族との繋がりが残っているのは河内狭山藩主 北条氏朝。徳川家にも近い」

「では幕府側で動いたと」

「そう考えた方が腑に落ちるな」

「どうなされます」

「加勢を断った経緯もあるしな、探りを入れられるかのう」


二人が小声で話している最中に、下から声がかかった

「大将、大久保さまがお見えです」

「大久保さまって?」

「ああ、南町奉行所の同心でな、横山道場の頃の知り合いだ。手先になってくれって頼まれてはいるんだが、店を空ける訳にもいかねぇから、暫く待ってくれと言っているんだが」


それを聞いた楓は少し考え込んだ。

「伊三次さま、その話受けてもらえませんか」

「受けてどうする。店は開けられねぇ、稼ぎがなくなるわ」

「店は私が切り盛りすることでなんとか。伊三次さまは御上の十手持ちで探索も大手を振ってできます」

「御上の御威光で二人をやった奴等を探せと」

「はい。できませんか」

暫し考えたが

「楓、おぬしの料理の腕は」

「伊三次さまにも劣らぬかと」

「言いおったな。では一緒に会おうか」


店に降りてきた二人を見た大久保同心は驚いた顔で

「伊三次よ、嫁をもらったのか」

「馬鹿を言うな、幼馴染だ。俺んとこを訪ねてきたんだよ」

「そうか、しかし似合いの夫婦に見えるぜ」

顔を赤くした楓を余所に

「そんなことより、十手持ちの件だが受けることにしたぜ」

「そりゃまことか。ありがたい。しかし店は大丈夫か」

「頼んだ方が店の心配かよ。俺がいない間、この楓が店を仕切ることにした」

「そりゃいい。ムサイ男がいるより、別嬪さんがいた方が客も喜ぶってもんだ」

「憎まれ口きくんじゃねぇよ。それより段取りはどうするんだい、八丁堀の旦那」

「明日にでも筆頭与力の立花さまにお願いして、明後日には正式に親分さんだ。よろしく頼むぜ」

と言い捨てて店を出ていった大久保の足取りは軽かった。


二日後、大久保同心に連れられ南町奉行所の門を潜った伊三次は、筆頭与力の立花と面会した。

「そなたが伊三次か、大久保からの願いにより十手を授ける。心して励むようにな」

「ははっ」

「大久保、早速だが弥七の縄張りに顔見せをしてこい、主だった大店以外に旗本、大名宅もな」

「畏まりてございます」


奉行所を後にした二人は、手始めに浅草の番所から大店を回り、伊三次を紹介したあと神田へ進み、四谷麹町まで足を伸ばした。

「大久保さんよ、縄張りは浅草、神田あたりまでじゃないのかい」

「それがな、四谷の十手持ちが老体でな、伊三次に加勢を頼みたいのさ」

「代わりになる奴はいないのかい」

「弥七の代わりがやっと決まったぐらいだ。そうそう見つかるもんじゃねぇんだ」

「四谷まで面倒みなきゃならねぇのか」

「そう言うな。四谷はな大名屋敷も多くて半端な奴じゃ勤まらねえ。元武士のおめぇさんなら上手くやってくれるだろうと、立花様も言うておった」

「なんだい、鼻から俺に面倒見させる了見だったのか」

「まぁ、そう怒るな。大名屋敷といっても中屋敷までしか入れねぇ。それに、大店からの付け届けもあるが、大名屋敷からの付け届けは小判が出される。旨味は多いぜ。特に尾張藩の中屋敷を筆頭に大大名の屋敷があるからな。その御老体の与一に会わせなきゃな」

尾張藩と聞いて、伊三次の目が光った。


一軒の蕎麦屋に入った大久保は

「御免よ、与一はいるかい」

奥から出てきた、ふくよかな女将が驚いた顔で

「おやまぁ、大久保さま。亭主は二階で臥せっております」

「風邪でも引いたのかい」

「一昨日から熱と咳が出まして、先程宗庵先生に見てもらったところでして、四五日横になってりゃ良くなるって」

「そうか、少しばかり二階に上がらせてもらうよ」

トントンと二階に上がったところが老夫婦の住まいらしい

「与一、風邪を引いたって」

「こりゃ大久保さま、お見苦しいところをお見せしまして」

「なぁに、誰でも風邪は引くわな。薬はちゃんと飲んでるかい」

「はい、宗庵先生の薬で少し良くなっておりやす」

「ところで、後ろにいるのが弥七の後を勤めてくれる伊三次だ。与一が良くなるまで四谷も面倒見てもらうことにしたよ」

「伊三次でございます。暫くの間加勢という形で四谷に入らせて頂きますんで、お見知り置きを願います。」

「おお、そうですか、そりゃ助かる。何しろ六十の坂を通り過ぎちまってるんで、体が追いつかねぇ。悪党をふん縛るにも遅れをとって迷惑をかける始末でね」

「なぁに、風邪も治りゃバリバリ働けるでしょ。暫くは休んでおくんなさい」


与一に幾ばくかの見舞金を渡し店を出た大久保は

「さて、大名屋敷に顔を出すとするか」

「十手持ちが大名屋敷に顔を出すって、どんな訳だい」

「我らは死人を扱うから不浄役人って蔑まれるが、大名家にも外に出したくない話があってな。秘密裏に町方へ処分を頼むのさ」

「へぇー、そんなことがあるんか」

「まぁ、それほど頻繁じゃねぇけど、内容によっちゃ切餅一つってぇこともある」

「二十五両。そんな大金積むってこたぁ相当な話だろうな」

「今日、大店を回っただけで、懐が重くなっただろが、大名屋敷はそんなもんじゃないからな。大名という奴らは外聞を気にする。些細なことでも幕府に露見したら減封やら、悪くすりゃ改易になるやもしれねぇからさ」

「なるほどねぇ。で、手始めはどこに」

「丁度、文が届いていてな、尾張藩の中屋敷に行く」

「文には何て書いてあったんで」

「詳しいことは屋敷に着いてからだが、藩邸内で切り合いがあったようだ」

「切り合いとは物騒な」

「小野派一刀流の免許持ちが良く言うよ。さて着いたぜ」


門番に訪いを告げ、門外で待っていると屋敷内から藩士が出て来て屋敷内へ案内された。

広い書院に通され、暫し待つこと四半刻

恰幅の良い侍が藩士を従えやってきた。

従者が一言

「待たせたの。江戸家老の水巻様じゃ」

「お呼びによりまかり出ました。南町奉行所同心 大久保でございます」

「遠路すまぬの」

「いえ、御府内は我らの管轄でありますれば」

「左様か、では早速だが本題に入る」

「はい」

「先だって藩士同士の諍いがあっての。言い争いで済めば良かったのだが、刀を抜き合う仕儀になった」

「それはまた剣呑な」

「一人は深手ながら生きておるが、もう一人は刀傷が元で死んでしもうたのよ」

「なるほど、それで我ら町方への用向きは」

「亡骸を人知れず供養したいが、藩内の揉め事だけに表立ってできない」

「町方で秘密裏に供養をとのことですね」

「費えは弾むゆえ、どこぞの寺で尾張藩ゆかりの者とはせずにな。頼まれてくれるか」

「承知しました」

袱紗を乗せた盆が出された

「永代供養料として十両用意した。他はそなたらのご苦労賃だ」

数十両にしては嵩がある

「亡骸はどちらに」

「内藤新宿の番屋にある。藩邸内には置けぬのでな、そのままにしてある」

「内藤新宿ですか、また遠いところで果たし合いをされましたな」

「二人とも公用で旅の途中であった。新陰流の達者であったゆえ、剣技のことで諍いにでもなったのであろう」

「もう一人は藩邸にお戻りで」

「いや、深手を負ったのでな、内藤新宿の医者宅で治療を受けている」

「なるほど、寺で供養するには名を聞いておく必要がありますが」

「無名で良い」

「無名、無縁仏にされるので」

「本来なら藩士同士の切り合いはご法度。だが重要な公用旅の途中でもあったので、永代供養をしてやろうと尾張公のお情けじゃ。公儀にも病死で届けてある」

「承知しました」

「宜しく頼む」

と言って席を立った。


尾張藩中屋敷を出た二人は無言のまま四谷の飯屋に入った。

「伊三次よ、どう思う」

「気に食わねぇな」

「どう気に食わぬ」

「まず、公用旅といえば藩の重要な役目だ。そんな中で切り合いを犯すかね」

「だよな。藩邸に帰ってから道場ででも決着をつければ良いことだ」

「それに永代供養料まで出すにも関わらず無縁仏とはな」

蕎麦をかき込むように食べた大久保は

「伊三次、すまぬが先に内藤新宿へ向かってくれぬか。このまま内藤新宿に行く訳にも行かぬから立花様に許しを得てくる。それと」

と懐から袱紗包を出して中を改めると切餅二つに十両が入っていた。

「五十両か、苦労賃にしちゃ馬鹿高いな、切餅一つはお前さんの分だ」

「こりゃ、後が怖いが先に番屋で亡骸を見とく」

二人は飯屋を出て左右に別れた。


内藤新宿へ向かいながら伊三次は考えた。二人とも番屋へ担ぎ込まれたのか、誰かが手助けしたのか。

藩士がそのような不始末を犯したことを誰が藩邸に告げたのか。

分からぬ事が多すぎる。

四谷から内藤新宿までは二里ほど。伊三次の足では半刻ほどで着いた。

十手をかざしながら番屋へ入ると棺桶が一つ置いてあった。

「南町奉行所の手の者だが、棺桶の引き取りに来た」

「おお、助かりました。どうすべきか悩んでおりましたので」

「追って同心の旦那も駆けつけるんで、その前に中身を確認していいかい」

「どうぞ」

棺桶を開けると、切り合いと言われたが、切り傷らしきものが見当たらない。

「ちょっと尋ねるが、この者はどうやってここに運ばれたんだい」

「突然侍が三人やって来まして、うち二人は相当ふらついた足取りでしてね。一旦ここで休ませてくれと。一刻もしないうちに、この人が息を引き取りましたんで」

「三人だったのか、そのうちの一人がこいつで、もう一人医者のとこにいるって話だったが」

「この先に玄庵という町医者いましてね、そこに担ぎ込みましたが危ういらしいです」

「ちょっと玄庵とこに行ってくる」

一丁ほど先に玄庵の住まいがあった。

訪いを告げ十手を見せ、担ぎ込まれた侍の話を聞いた。

「まず、どんな具合だい」

「良く分からんのですが、ずっとうなされておりまして、意識もございません」

「切り傷はどうや」

「それが、切り傷というより刺し傷のような跡があります」

「刺し傷。見せてもらうことはできるか」

「はぁ、何しろ意識もござませんが、こちらへどうぞ」

と案内された場所には布団に寝かされ唸り続ける侍がいた。

「すまぬが傷を改めさせてもらうよ。傷はどこだい」

「首と左足の付け根の方で」

まず首を見た。確かに刺し傷である。伊三次は嫌な予感がした。

まさかとは思うが、風魔が使う薄手の苦無が刺さった跡に似ている。

傷の周りに薄っすらと皮膚が変色していた。毒を塗った苦無やもしれぬ。

「こりゃなんだろうな。刀傷とも思えぬが」

疑念を隠し呟いた。

「番屋で死んだ侍とここにいる侍の他に、あと一人いたそうだが」

「この者をここに運んだ侍ですね」

「そいつは何か言ってなかったか」

「いえ、治療費と言って三両置いて、いずれ戻ると言って出て行きました」

「この傷のことは何も喋らずにかい」

「はい。投薬が何も効きませぬゆえ、どうしたものかと困っております」

それはそうだろう、もし風魔の毒を塗った苦無であれば解毒剤は無い。

刺さった場所に太い血の道があれば即死するほどの毒を使っている。


もしや、こ奴らと喜三郎と与一郎が戦ったのか。

柳生新陰流の達者な侍三人が相手なら、いかな風魔とはいえ二人では太刀打ちできまい。

大久保を待たねばならぬが、鶴瀬宿まで足を伸ばしたい気持ちで一杯になっていた。


一刻ほど立ったか、大久保同心が番屋に顔を出し、玄庵のところまで来た。

「伊三次、もう一人はどんな具合だ」

「意識もなく、唸っているだけだ。そう持たないやもしれぬな」

「永代供養が二人分か。傷口は見たか」

「見るかい。刀傷とは思えぬが」

傷口を見た大久保も首を傾げた。

「こりゃ何だ。刀の身幅ではなさそうだが、匕首でもないな」

「さて、何を使えばこのような傷口にるのやら」

とぼけた伊三次だったが、尾張藩江戸家老に頼まれたことをどうするか悩んだ。

「大久保の旦那、寺に埋葬する話だが、こ奴も差して持つまい。死ぬまで待つかい」

「玄庵そうなのか」

「はい、どんな薬も効かず手の施しようがございません。死を待つだけかと」

「参ったな。立花様には埋葬しだい戻りますと言って来たからなぁ」

「玄庵よ、近くに埋葬できそうな寺はあるかい」

「はぁ、北へ五丁ほど行ったところに法岸寺という寺があります。住職とは懇意にしておりますので、埋葬できるかと」

「ならば、そこにするか。しかし、こう言っゃなんだが、いつおっ死ぬかだな。何時までも待つ訳にはいかぬが」

その言葉に伊三次はある考えが浮かんだ。

「旦那、埋葬はわしと番屋の者でやっちますよ。旦那は奉行所へ戻った方がいいでしょう」

「そうか、悪いがそうしてくれるか。供養料の十両は預ける。頼んだぜ」

そう言って帰って行った。


そうと決まればやることは一つ。

「玄庵よ、こ奴も今日明日の命でもあるまい、二日ほど探索に出るゆえ、暫し頼んだぜ」

「どちらへ行かれるので」

「三人の侍に何が起こったのか、探ってみる。判明するかどうかだがな」

「承知しました」

玄庵宅を出た伊三次は、甲州街道を北へ走った。

内藤新宿から鶴瀬宿まで凡そ八里。伊三次の健脚で夜通し走れば一日で着く。

腹が減れば茶店で握り飯を頼み。食べながら向かった。

喜三郎と与一郎の亡骸が見つかった鶴瀬宿の手前の間道あたりに着いたのが翌朝であった。

畑仕事に向う百姓を見つけては、二人の亡骸が見つかったという場所を尋ねた。

そうした噂を聞いたが場所までは知らぬという者ばかりで、中々見つからない。

鶴瀬宿まで足を伸ばし番屋を訪ねた。

「ごめんよ。江戸の南町奉行所の者だが、数日前に先の間道で切られた者を探索しているんだが、知ってる者はいないかい」

「江戸から来なすったか。あの亡骸のことなら知ってますよ」

「そりゃ助かる。場所を見たいんだが案内してくれねぇか」

「お安いご用で、では私が案内しましょう」

先程の間道から三丁ほど奥に入った場所だった。

「このあたりか」

「右手の杉林へ少し入った所に一人、その奥に一人倒れていました」

「そうか、案内感謝する。戻って良いぞ」

暫し佇んだ後、杉林の中を虱潰しに見て回った。

少なくとも五本か六本は投げていると思われる。また侍に刺さった苦無もすぐに抜いて捨てたはずと、一刻ほど探した時草むらの中に光るものが見えた。

「やはり」

拾った苦無を懐に入れ急ぎ内藤新宿へ戻った伊三次は、二人目の侍が死んだことを知る。

番屋の役人の手助けをもらい、法岸寺へ棺桶を運び込み住職に永代供養を頼み浅草へ足を向けた。


丸二晩留守にした店に帰ると客で一杯になっていた。

「お、大将。いや伊三次親分か、大将いなくたって女将の料理が美味くてよ」

「そうや、大将の料理より美味いで」

「そりゃ良かったな。だが女将じゃねぇからな」

「かみさんじゃねぇのか」

「幼馴染だ。勘違いするなよ」

と調理場へ入っていった。

「楓の料理の方が美味いって言いやがる。まぁ商売繁盛はありがたいがね」

「遅くまで飲んでるんで、追い出すのに大変です。おきぬちゃんが店仕舞って追い出してくれるんですよ。助かってます。ところで二晩も留守でしたが、何がありましたか」

「ああ、店が終わったら詳しく話す」

と忙しい調理場をこなしていった。


暮六つの鐘が鳴り、店仕舞に入るころ大久保同心が顔を出した。

「伊三次、無事供養は済んだかい」

「ああ、あれから二日後に亡くなったよ。番屋の手伝いをもらって法岸寺に埋葬してきた」

「あれから二日もったのか、あの侍」

「相当苦しみながらね」

「しかし、大名ってぇのは冷たいもんだな。せめて名前だけでも教えてくれりゃぁ戒名ぐらい付けられたのにな」

「法岸寺の坊さんが十両の永代供養料に驚いて、名無しでは可哀想と戒名を卒塔婆に書いてくれたよ」

「そりゃ良い坊さんだ。二人とも成仏できるやろ。明日でも尾張藩邸に行って報告してくるよ」

と言い残して店を出ていった。


「伊三次兄さん、尾張藩って聞こえたんだけど」

店仕舞をしながら楓が聞いてきた。

「楓は俺がいない間は二階に寝泊まりしてたのか」

「おきぬちゃんと、三吉ちゃんはまだ子供だから二人にしとくのは不用心だから、あたしも泊まったけど、これから先もここに住んでいいよね」

「そうやな。そうしてもらうか。おきぬと三吉、早いうちに湯屋に行って来い」

「はーい」

と返事があって、二人とも湯屋へ向かって出ていった。

「楓、俺は大久保さんに連れられて縄張り外の四谷まで行ったのさ」

「縄張り外なのに」

「四谷の岡っ引きが老体のうえ、風邪を引いちまって、俺に加勢を頼んだんだ」

「へぇー、加勢もしなきゃならないなんて大変ですね」

「そこでな、挨拶済ませて帰るんだろうと思ったら、尾張藩の中屋敷に連れて行かれた」

「先程の尾張藩の話」

「そう、尾張藩から南町奉行所に文が届いたらしく、呼ばれて行ったわけだ」

「何の話でした」

「藩士同士が諍いから刀を抜くことになったらしく、二人とも刀傷を負って一人は亡くなり、片方は重症だと」

「藩士同士の刃傷沙汰ですか」

「そこまでは良くある話だ。その亡骸はどこにあるかと聞くと内藤新宿の番屋というのさ」

「遠いですね。まさかその亡骸を埋葬してくれと」

「そのまさかだったが、続きがある」

「埋葬だけでは終わらなかったのですね」

「埋葬するなら名前が必要だが、無縁仏にしてくれと」

「藩士であるのに無縁仏とは」

「おかしいであろうが、それ以上聞くことは憚れたから、大久保さんは一旦奉行所に戻り、俺が先に内藤新宿の番屋に行って亡骸を見たのだか、切り傷がない。棺桶に入っていたから隅々まで見れなかったのもあるが」

「えっ」

「もう一人、医者のところにいる重症の侍のところで傷口を見せてもらったら、刀傷ではなかった」

「どういうことです」

「刺し傷だったのよ」

「刺し傷」

「嫌な予感がしてな。その侍も二日と持たないって医者が言うから、大久保さんもそこまで待てぬと、ならばその侍が亡くなるのを待って俺が埋葬するって言って大久保さんを帰した」

「嫌な予感ってどういうことです」

「喜三郎と与一郎が死んでいた場所を確認したくてな」

「あ、もしかして相手がその侍たちと」

「そう思って鶴瀬宿まで走った。番屋で二人が死んでいた場所に案内してもらい、辺りを隈なく探してみたらあったよ」

と懐から苦無を出して見せた。

「これは、我らが使う苦無」

「そうだ、風魔独特の薄刃苦無だ。喜三郎と与一郎は侍三人と戦い、敢え無く斬り殺されてしもうた。だがこの苦無で一死報いた訳だ」

「二人は身の危険も考え苦無に毒を塗っていたのですね」

「そういうことだな」

「あ、あのいま三人と言われましたよね」

「相手は三人、一人は生きておる」

「その者が藩邸に戻ったから一人は死に、もう一人は医者にかかっていると分かったのですね」

「ああ、相手が尾張藩は当たっていたな」

「これからどうします」

「相手は尾張藩だ、下手に動けぬが、まずは中屋敷周辺を当たってみるか」

「周辺を当たるとは」

「賭場があれば尾張藩の中間やら下級武士も紛れ込んでいるやも知れぬ」

「飲み屋があれば、尚のことですね」

「楓、暫くは店を頼むぜ」

「いざというときは私も動きます」

「そん時や頼むぜ。あいつらも帰ってきたようだ。湯屋に行こうか」

二人連れ立って湯屋へ向かった。


一晩徹夜したせいか、その夜は泥のように寝てしまった。

翌朝、仕込みの時刻にも起きれず、気が付いたら昼前であった。

慌てて店に降りると既に客が一杯になっていた。

「すまねぇ、寝過ごしちまった」

「御用で徹夜されたのですから、もう少し休んでも良いのですよ」

と楓に言われたが、昔とは違い体も鈍って来たようだ。

「いかんな、少しばかり鈍ってしまっている。道場に顔を出してみるかな」

「その方が良いでしょう。店の心配はいりませんから、横山先生のお許しを受けて見られたら如何です」

「そうするか、大久保さんが顔を出したら横山道場に行ったと伝えてくれ」


久々に道場へ向かう足取りは少しばかり重かった。

道場の門を潜り、玄関で訪いを告げた。

出てきたのは見知らぬ若い侍であった。

「何用かの」

「某、以前こちらの道場で稽古を付けて頂いていた木村伊三次と申します。横山先生はご在宅でありましょうや」

若侍は怪訝そうな顔で奥へ消えて行った。さもありなん、町人髷に着流しの格好では、道場に通っていただの信じれる訳がないと我ながら苦笑した。

暫くして先程の若侍が来て案内すると告げてきた。

緊張の面持ちで道場に入る。懐かしい臭いがした。

見所の横山先生の前まで行き挨拶をした。

「先生、お久しぶりでございます」

「元気そうで何より、町人姿も板に付いてきたな。本日は如何いたした」

「はい、実は南町奉行所の大久保さんに請われて十手持ちになりまして」

「ほう、大久保の手下に」

「はい、店もありますので断ったのですが、店の手伝いが見つかり、十手を受けることにしました」

「ふむ、それで」

「捕物もございますので、昔取った杵柄と安易に考えておりましたが、剣を捨てて六年目ともなりますと、中々体も鈍ってしまいました」

「さもあろう、ならば再び稽古をしたいとのことか」

「はい、お許しを頂けますれば」

「分かった、稽古は許すが、どの程度腕が落ちているか見極める必要がある。まず若手と立ち会ってみよ」

と、先程の若侍を呼び立ち会うよう告げた。

若侍は町人と立ち会うのを訝しんだ。

久々の木刀の感触が心地良い。間合い一間半、互いに中段の構えだが町人を舐めてかかったか、直ぐに上段から打ち込んで来た。

伊三次は左手にかわし小手から腰を打った。

若侍は何が起こった分からぬようで、

「油断した、もう一手」

と木刀を握り直したが、打たれた腕が言うことを聞かぬようで、横山が止めた。

「伊三次、次は師範代の佐々木だ」

佐々木は伊三次が道場を辞してから入門したのか知らぬ顔であった。

やはり間合い一間半にとり、中段から右へ引いて来た。

一刀流突きの構え。一気に勝負をかけようとしていた。

伊三次は中段から変えず受けの形を取った。

鋭い踏み込みから、決死の突きが喉元に来たが、紙一重で避け胴を撃ち抜いた。

「それまで」

横山の声で道場が静まり返った。

「伊三次、まだ鈍らにはなっておらぬな、明日から毎日でなくとも良い、できる限り顔を見せよ」

伊三次はその言葉に平伏した。

敗れた佐々木が寄ってきた。

「貴方何者ですか。渾身の突きをかわされたのは初めてです」

「いや、凄まじい突きを見ました。紙一重です」

佐々木は横山に聞いた。

「木村さんは何者ですか」

「もう六年になるか、免許皆伝を与え師範代にしょうとした矢先に道場を辞めてしまったのよ。お主には荷が重すぎたか」

「それほどの人物が今は町人とは」

「御家人へ養子に入ったのだがな、養親が亡くなり武家への思いが無くなったそうな」

「木村殿、侍への気持ちが無くなったとは如何に」

「養子に入った頃は、御家人として勤めようと勇んでおりましたが、養親が二人とも亡くなりましてね。嫁もおらぬなか子を成すことも叶わずですから、潔く見切りを付け料理屋を営んでいます」

「そのようなことが」

「人生なにがあるか分かりませんね。こうしてまた道場の門を潜ることになったのですから」

隣で聞いていた横山が笑いを堪えながら

「伊三次よ、わしも生半なことで免許皆伝など与えぬよ。お主は町人になっても芯はしっかりしておる。町人姿に油断をした慎之介、お主は全く修行が足らぬ。そして佐々木、師範代としてはまだまだ。伊三次に教えを請うが良かろう」

伊三次は師の温情に深々と頭を下げた。

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