果てに花咲く色は プロローグ

     ※

 咄嗟にはなにが起きたのかまるで理解できなかった。

 彼女はジタバタもがきながら、沼地のなかへ沈んでいく。

 闇がチョコレートのように溶けて溜まったような昏い水底へ。彼女が吐き出した水泡ですら、すぐに見えなくなる。

 水は氷のように冷たく感じられた。水そのものがそうさせるのではない。沼地に蠢く死者たちの意思によるものであるとわかった。

 ここがそういう・・・・場所であるということだけは、耳にしていた。

 たまらず拒絶の悲鳴を上げようとした。けれどもそれは、彼女に薄汚い水を多量に肺に取り込ませただけでしかなかった。水と一緒に流れ込んできた穢れを内側で感じ取り、ゾッとした。

 激しくもがきつづけ、一際大きな水泡が闇に消えるのを見届けたのを最後に――彼女は抗うことをやめた。薄れつつあるものの、意識はまだある。が、それも間もなく完全に散ってしまうのだろう。

 もはや体がゆっくりと沈んでいくのに身を任せていた。

 不意に、真っ黒な視界に、白いものが見えて、目が自然とそちらに引き寄せられた。それが自分自身の長い髪であると、霧散しかけた意識で認識することは、まだ可能でいた。

 ――どうして?

 漠然とした疑問が、彼女の自我を呼び覚ました。

 “雪のように穢れない白髪”

 あのひとがそう、褒めそやしてくれた声だけがいっとき、脳裏で強烈に反響した。

 ――どうして? そう言ってくれたのに。彼女の白髪がわずかに黒ずんだ。

 ――どうして? 傍にいると誓ってくれたのに。彼女の白髪から灰色に変色していった。

 どうして? どうして? どうして? どうして?

 無数の問いが渦を巻いた。どうして? は尽きることはなく、いつしか彼女の髪は、沼地の色とそっくりになっていた。昏い黒色に。

 そして、次の疑問が泡のように大きく浮かび上がった。

 ――どうして? 私はまだ生きているの? 

 とっくに溺死できししているはずだというのに、彼女はまだ生存していた。息苦しくないばかりか、この沼地を沈んでいくことに、恐怖すら感じなくなっている。あるのは、ゆりかごに揺られるのにも似た安堵感だけで。

 そんなことさえもう、彼女にはどうでもよくなっていた。

 あのひとのことで脳裏はいっぱいだった。

 熱を帯びた眼で自分の右手を見つめた。あのひとが、誓いの口づけをしてくれた場所を。

 ――あなたに花を贈りましょう。

 彼女は右手に唇を押し付けた。あのひとがそうしてくれたのと、同じところに。

 祝福するように微笑んだ。そのくせそれは、妖艶でいて邪悪な面持ちでさえあった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る