4

 悲しそうな顔だった。

 紛れもなく、リザにはそう見えていた。

 例えなんど刃を向けられても、いつもの姉の影をそこに重ねた。

 死んでいたかもしれない苛烈な一撃を浴びせられようとも、咄嗟に光の膜に身を包むことで、難を逃れることはできた。

 いつも、虹の大樹の輝きのなかで、たくさんの妖精たちに手を伸ばしているときのように。

 そんなとき、いつもだれとも知れない声が聞こえる。

 さんざめく声――歌声のような、ときに嬌声じみたものが、そこかしこで起き始めた。

 慟哭どうこくが混じった。幾重いくえの絶叫が響き、せり上がった憤怒ふんぬの声が搔き乱す。かと思えば、一瞬だけ歓声に塗り替わり、すべてが、ぜになる。

 しっちゃかめっちゃかだった。

 吐き気がする。いつも、そうだった。

 あの力に頼るとき――使えと命じられるときは――いつも、多くの声に心を搔き乱されてしまう。

 高い闇空を真っ逆さまに落っこちながら、リザは一匹の妖精が飛んで行くのに気づいた。

 妖精が光の屑となって散った。

 それが命の成れの果てであることは、薄々わかっていた。

 ごめんね。

 許してもらえるかは、わからないけれど、そうつぶやく。

 


 目を開いたリザは、そこが明らかに見知らぬ場所だとわかった。

 今まで寝ていたベッドに腰掛け、警戒してじろりとその部屋に意識を向けた。

 少し埃っぽい、手狭な部屋だった。ベッドのそばに小棚があるくらいで――ほかには本が山積みにされた机があるだけ。乱雑な置き方が気になっていると、脇にある写真立てに目を引かれた。

 思わず立ち上がり、机に寄っていった。

 室内は薄暗かったが、窓から入る光で、机は夕暮れの色に染め上げられ、明かりに困らなかった。

 そこだけ埃を被っていない写真立てのなかには、少女と男の子の姿がある。少女にいじられ、はにかむ男の子といった様子に、リザの唇が少しだけ笑みのかたちになった。

 仲良しそう、と思ったとき、

「ああ。もう、起きてたのか」

 不意にドアが開き、アズランドが現れた。手には珈琲カップがあり、湯気とほろ苦い香りを漂わせている。

「ここ、アズの家だったんだ」

 びっくりして、リザは言った。

「まあ、やっすいアパートメントさ。一人暮らしするぶんには、快適かな」

 言うと数歩進み出て、珈琲カップをリザの前に差し出してきた。机の上に置いたのだ。どうぞ、と手と肩の仕草で示したあとで、やや気まずそうな顔をした。

「勝手に連れ込んでしまって、すまないね。起こしちゃ悪い気がしたし、かといって風も吹いてきて、冷え込んでもきたし。あそこからなら、ここが近くってさ」

「ううん、いいの。アタシこそ、居眠りしてごめんなさい」

 首を横に振り、リザは珈琲カップを手に取った。

 そして、リザは訊いてみたくなって、口を開いた。写真立てに目を当てながら。

「この男の子、アズなの?」

「ん、ああ――まあ、ね。たぶん、五歳かそこらの頃のはずだけど」

 アズランドが眩しそうな目で、写真を見ていた。

「……隣の人はだれなの?」

 部屋に静寂が満ちた。不安になってリザがアズランドの顔を覗き込む。アズランドは真顔になっていた。

「……アズ?」

 リザが呼ぶと、真顔を引っ込めるようにして、アズランドは微笑を寄こした。

「いや、どう説明するか考えててさ。俺は孤児院育ちでね。彼女はまあ――姉、みたいなものだったのかな。子供たちのなかでは、年長者だったし」

 リザは二つの意味で、ちょっと安心した。変なことを訊いてしまったかもという不安の解消と、アズランドが写真のなかの人物を姉と呼んだことに対して。

「そうなんだ」

 珈琲を一口だけ飲むと、

「会ってみたいな、アズのお姉さんにも」

 どんな人なんだろうと、写真からイメージを膨らませながら言っていた。

 ふと、その写真立てが浮いた。アズランドが持ち上げ、間近で見つめていた。

「もう、いないんだ」

「え?」

 リザが目を丸くしてアズランドを見上げたが、写真立てに隠れて表情が見えなくなっていた。

 アズランドが穏やかな声音で、語り始めた。

「彼女は――ミリアは、みんなに優しい人だったよ。俺がいた孤児院は、いっつも金に困っててさ。一つのパンだけが、その日の食事だったこともざらにあった。けど、ミリアは自分より小さな子に、自分のパンを分け与えたりしてた。丸ごと一つだったことも、あるな……」

 リザは胸騒ぎがした。さっき抱いた不安が、また浮き上がってきていた。

「彼女は勉強家でさ。魔術の才もあって、俺も教わったもんだよ。本当に教え上手でさ。あの孤児院では、食い扶持ぶちに困らないでどう生きるか……みんな探してたからさ」

 アズランドの口調に熱が帯びていた。誇らしげな響きを加えて、つづける。

「そしてついにミリアは、五年前、キミがいたという王宮入りを果たしたんだよ。第二錬金課だいにれんきんか……魔導師団まどうしだんの管轄だから軍属と言えばそうなるけど、兵隊になるわけでもない。開発や創造が主で、とても待遇がいいのさ。門兵にミリアの名前を告げるとさ、気安くなかに通してくれるんだ。ほんと、出世頭って感じだったな……」

 リザは口を開いたものの、なにも言えずにいた。じっと聞いているのも怖かったが、声を出す勇気を持てなかった。

「けど、三年前だ……あれは、今みたいな冬頃だった」

 そこでアズランドの声質が変調をきたした。不気味なくらい淡々として、静かなものに。

「あの日、孤児院に立ち寄ったミリアの忘れ物を届けに、俺は王宮にいた。中庭でミリアを待っていたんだ。遅いな、と思っていると揺れを感じた。どこかで、なにかが、吹き飛んだような揺れかただった。俺はみっともなく、右往左往するしかできないでいた……」

 固唾を呑む音が微かにした。リザが無意識にしたものだったのか、あるいはそれは、アズランドに必要なものだったのかもしれない。

「次第に強まる喧騒のなか――ミリアはやってきた。ひどく慌てて、逃げるように、俺に言うんだ。なにがあったのか、俺は尋ねようとした。その前に……ミリアの胸から綺麗なものが生えた・・・。背中から突き込まれていたんだ。まるっきり刃物でしかない結晶に」

「……アズ」

 やっとのことで、リザは声を出せた。そう、呼ぶのが精一杯だった。

「串刺しにされたミリアが、胸と口から鮮血をこぼしたとき……笑い声が聞こえた。ミリアの背後から。青髪の女の子だ。そいつは、大声でわらった。無我夢中むがむちゅうで、俺はその顔をぶん殴りに動いていたってのに……」

 ぶるっとアズランドの肩が震えた。

「そこで光が瞬いたのは、覚えている――虹色に。気づいたら、中庭の城壁に背中を預けていたよ。朦朧もうろうとしながら、それでもはっきりと、意識を失う前の赤い視界にそれが見えたんだ……」

 抑揚のない声に、確固とした響きが生まれ、こう告げた。

「稀代の錬金術師リーズィヒット・クノッヘンと、キミによく似た女の子が並んでいた。いや、もしかしたら、抱き合っていたんじゃないか、あれは……」

「アズ、それは――」

「そして、あの事件は見事に揉み消された。そんなことなんて、最初からなかったように、だ。ミリアがそこに所属していたことすら、なかったことにされていたよ。いったい、アイツ以外のだれが、そんなことをできると思う? 王ですら傀儡かいらいとするアイツ以外に」

 怒気を込めたアズランドの声とともに、パリンッ、と不吉な音が響き、リザがびくんとなった。

 アズランドの指先にある写真立てが、大きく亀裂を広げていた。ミリアの顔を潰すように。

「ミリアには、婚約者だっていた! これから幸せになる人だった……! なるべき人だったんだ!」

 アズランドが割れた写真立ての硝子を押し込み、切れた指先から血が滴った。

「ち、違うのアズ……」

 リザは頭を振った。そこで、アズランドはゆっくりとリザへ視線を移した。

「……あれは、キミだったのか?」

 殺伐とした声音だった。いつもの柔和にゅうわな顔はそこになく、冷徹な光を湛えた瞳で、リザを見据えていた。

「それとも――」

「知る必要はない」

 アズランドの長年の問いに、リザではない声が答えた。

 リザとアズランドが、はっとして、窓の外を見た。

 不気味な仮面を被った男がいた。飛んでいた。七色の輝きを漂わせて。

 カッと、虹の光が弾けた。



 一室が爆発したアパートメントの出入口から、数人が一目散に飛び出していった。

 そのなかで一人、妙齢の女性が振り返った。

 崩れた部屋を仰ぎ、息を呑む。火の手が上がっているのを、目に留めたからではなかった。

 宙で相対する、二人を目撃してしまったからだ。まるでその空間だけ、虹が掛かっているかのような、光で満ちていた。

「お姉ちゃんじゃなくて……あなただったの」

 光の翼を背に生やしたリザが、屹度きっとして相手を見た。

「役目を果たしてもらおうか。あのお方の悲願が叶うまでのあいだ、おとなしくしていろ。リザーヴ=ヴェッセル予備の器

 仮面に月を描いた男が、同様の光の翼を発しながら言った。先日、リザを襲撃していた者たちと、ほとんど同じ服装だった。

「イヤ、もどらない」

「予備という自覚を持つのだな。多少、傷つけるくらいのことは構わないのだぞ」

 月仮面の男が背から光を吹き出し動いた。右手をリザに鋭く、突き出す。尖った結晶を備えた手だ。ロウェルの両手にある杭によく似ていた。

「やめて」

 リザが強く拒んだ。月仮面の男の一切いっさいを。

 リザの周囲で虹の輝きがぐんと増し、杭が届く前に、男は大きく押し戻されていった。

「あなたにはアタシを捕まえられないわ。……ライト=ハンド右腕さん」

 リザも敢えて、正しい名称で相手を呼んだ。

 役割を示すためにしか、名を貰えなかった共感と同情――口ぶりが皮肉っぽくなったのは、一日そばにいたアズランドの影響を受けたのかもしれない。

「予備とはいえ、あのお方の大望を担うだけのことはあるか……」

 やや歯がゆそうに、月仮面の男が言った。

 そして、同じ声がリザの背後から飛んだ。

「それでも、我ら二人なら容易い」

 月仮面の男と、ほぼそっくりそのままの男だった。太陽を象徴にした仮面の男が、リザの背に、杭の形を成す左手を振りかざす。

 その男の首が、揺れた。静止し、仮面の表面を撫でた。頬のあたりで、めり込んだ弾丸に指が触れる。

 三者、眩い虹色の光を漂わせて――眼下に目を向けた。

「……ああ、この光だっ! まったく、明々あかあかとしやがって! 目障りったらありゃしない!」

 両手で銃を空に向けたアズランドが、アパートメントの屋根の上から吼えた。あちこちに擦り切れたような傷があった。

「アズ……」そのさまを目にし、リザの顔が悲痛に歪んだ。

「さあ、教えてくれ……化け物・・・ども。お前たちは、いったい、なんなんだ? あの引きこもりの錬金術師様はなにをした? どうして、あのとき、ああなってしまった⁉」

 ぶちまけるように叫び、アズランドが歯を食いしばって、リザを含む三人を睨んだ。

 まだ幼いおおかみが、獲物に執着して牙を剥くさまに、酷似こくじしていた。柔和な顔が憤怒に燃えて。

 化け物、という言葉にリザは凍り付いている。その隙を、太陽の仮面をした男が、見逃さなかった。

 一瞬でリザを引っつかみ、つばめも顔負けしそうな速さで飛び去った。


https://kakuyomu.jp/users/koedanohappa/news/16818093085070483339(挿絵ページのリンクとなります)


「やっと見つけたんだ! 邪魔をするなっ‼」

 アズランドが、虹の軌跡を宙に描いて飛んで行った先へ、怒鳴った。

「それはこちらの台詞だ……」

 横合いから声がした。月仮面の男が、虹をいて、降りて来ていた。

 アズランドは声より先に、その忌まわしい光に反応して、動いた。

 瞬間的に左手が、腰から片手剣ショートソードり、男の繰り出した杭と剣身が交わった。

 ジジッ。

 それは剣戟音けんげきおんではなく、それぞれの得物から発せられた魔力が、反発する音であった。

 片手剣を燐光りんこうさせる魔力が、杭が発する虹の波に、抗いつづける。

 優劣は一目瞭然いちもくりょうぜんだ。

 青白い光は見る間に押しやられ、侵食されるようにして剣身へ杭が達しようとする間際――月仮面の男が退いた。一拍いっぱく遅れて、銃声が響く。

 撃鉄げきてつを上げ、銃口の先に男の姿をとらえていたが、アズランドは撃たなかった。

「なんだ。さすがにあの距離からなら、無事じゃ済まないのか?」

 たっぷりと、あざけりを込めてアズランドは笑った。それで寄って来てくれればありがたいことだ。なにより、心から、そうしてやりたかった。

 月仮面の男は、そのままふわりと石畳に降り立った。

「なるほど。自身の魔力で剣を覆ったか。たしかに、それならば、いっときであれば、受けることも不可能ではあるまい。多少、魔術の心得があるようだ」

 口ぶりからは、男が仮面の下で冷や汗をかく気配はなかった。冷静、というよりも無情な感じがした。

 男を追って、隣家の屋根を足場に借り、アズランドは石畳へ移った。

 薄気味悪い、と内心で毒づき、右手の拳銃と左手の片手剣で男に狙い澄ましていった。

 銃口を額に。

 剣尖けんせんを胸に。

 それがもっとも、相手がどう動いても対処しやすい構えだった。いろいろ試した結果に、そう、行きついていた。

「十五年、この街でどう生きるか考えていた。そして、この三年間は、どう戦えばいいか考えてきた……!」

「多少、魔術の心得があったしても――少しばかり武器が扱えたとしても、無駄だ。その程度で、勝てると思うなど、あの方に対する侮蔑ぶべつに等しい……」

 月仮面の男の語気が、少しばかり強まった。

 呼応するように、男のまわりで虹の輝きが増した。

 それが口火となった。

 アズランドが引き金を引いたが、弾丸は男の前で散り散りになる。虹の光のまくが男をすっぽりと包み、守護していた。

 不意に男が眼前に迫り、アズランドは瞠目どうもくする。予備動作なしで、宙を進むのに、わかっていながら対応が遅れた。

 咄嗟に魔力を流し込んだ片手剣の切っ先で、突き込まれた杭結晶の軌道をかろうじて変えることができた。

 崩れかけた体勢で、後ろに跳ぶ。そうしながら、今の衝突で片手剣が無事であるのを確認し、手段を講じた。

よ――勇猛ゆうもうであれと謳う戦士よ……」

 剣に声を吹き込むように、アズランドは唱え始めた。

「魔術……何度も言わせるな。無意味だ。よほどの魔術でもない限り、打ち破れるものではない」

よほど・・・であれば?」

「愚かな。魔術式もなしで、大掛かりな魔術を扱えばどうなるか、知らないとでもいうのか?」

「にわか仕込みなのは認めるさ。知り合いに、教わったあとは、我流なんでね。……魔術式なしでの魔術は、その身に大きな負荷がかかる、って言いたいんだろう? 最悪の場合、肉体が弾け飛ぶんだったか」

 アズランドは薄ら笑った。

「知っていて、そうすると言うのか。なら、止めはせん」

 月仮面の男が、どこか訝しげに言った。

「魔術とは体内の魔力で大気にある魔粒子マナに働きかけ、組み立て、成立させる。媒介ばいかいは、声でも文字でも、構わない――って教わったさ」

 つぶやき、アズランドは片手剣を振るった。石畳すれすれを切っ先が通り過ぎた。そこに、青白い文字が浮かび上がる。

「それは……」

 月仮面の男が、初めて意外そうな声をこぼした。アズランドが口にした魔術の一節をそこに認めて。

 さらに口早にアズランドが唱えるのに、月仮面の男が仕掛けた。

 アズランドが片手剣を振り上げ、真っ向から受ける。青白い文字を浮かべた剣身は、激しく押されはすれど、虹にむしばまれることはなかった。

 詠唱分を上乗せした魔力の光の反発。虹の波と拮抗をみせ、杭をいなして男ごと素通りさせた。

 アズランドは、すかさず石畳にその文字を移した。

「そのような方法で……いや、しかし――」

 宙で反転し、アズランドに向き直った月仮面の男が、判断に迷う素振りをした。

 アズランドの行い――詠唱の分割化。

 多くの魔導士が、緻密ちみつに構築した魔術式の上で詠唱を行うのは、それが補助の役目を担うためだ。体内に凝縮ぎょうしゅくされた魔力によって、押しつぶされないための逃げ道が、魔術式でもあった。

 今度は、アズランドのほうから月仮面の男に迫った。男はきょを突かれたようで、動けないでいた。

 アズランドはすれ違いざま斬撃を繰り出していった。虹の膜を浅く裂いたが、すぐに閉じた。それでも、男に、まともに受けては危うい――と思わせることはできただろう。

 アズランドは攻めた。片手剣を間断なく振るい、合間を縫うように、石畳に文字を浮かび上がらせてゆく。牽制に弾丸をお見舞いしながら。

「くっ……! こざかしいマネを」

 月仮面の男が、強烈に虹の輝きを増した。

 瞬間、ころんと男の足元でなにかが転がった。金属でできた果実みたいなそれが、たちまち破裂する。

 もわもわと煙が立ち込め、あたり一面を白く染めていった。

「こっちは、ただの人間なんだ。小細工くらい、させてもらうさ」

 アズランドはほくそ笑んだ。

 仮面の下で、苛立つ男の顔を、思い浮かべた。どんな顔をしているかは、知りはしないが。さぞ、歪んでいるはず。

 そして、魔術の完成に、いっそう唇を吊り上げた。

 石畳に最後の一振りをしたのち、片手剣を鞘に収め、拳銃をホルスターに仕舞う。

 すっと、右手をかざした。その頃には、煙が完全に霧散していた。

 仮面越しに、男と目が合った。アズランドは目をいて、呪文スペルの最後の一節を唱えた。

「下れ……試練の雷フェアズーヘン・ブリッツェン

 石畳の七つの青白い文字が声に応えた。一度光を強め、立てつづけに、剥がれるようにして舞い散る。

 空気がざわめいた。魔術の発現に伴い、大気を漂う魔粒子マナの変動――それを手応えとして、アズランドは感じ取る。

 刹那――虚空を蒼雷が引き裂き、月仮面の男を襲った。

 これが成果だ。くそくらえ・・・・・とどろく雷鳴に、心が躍る。

 雷撃が、月仮面の男を守護する虹の膜を焼き崩していった。

 虫のまゆを火であぶったみたいに。



「離してっ!」

 リザが叫んだ。太陽を描いた仮面の男の腕で、虹色に光りが溢れて爆ぜた。

 リザは男の拘束から逃れ、空に出た。先に男のほうから、手を離したようだった。

「むやみやたらに、その力を使わぬことだな。我らより純度の高い妖精珠玉スプライトジェムを授かった器だ……毒もそのぶん強い」

 男が言っていることの意味を、リザは理解できなかった。

 とても気分が良くなって、それどころではなかった。はしゃぐような気持ちが、胸から湧き上がる。愉しくて、仕方がなかった。

 目の前に最愛の人物がいるかのような満面の笑みがリザの顔に浮かび――そして、はっとなって消えた。

 胸の内側から昇ってきた想いをぐっと堪え、様子を窺っている男の太陽の面に目をきつく細めた。

「本物の器ですら、ああなったのだ。お前では――」

 そのとき、異変を感じたように、男が振り返った。これまで、ずっと飛んできたのとは真逆のほうへ。

 そちらで蒼い光が、瞬いた。轟々とした音が、遅れて届く。

「さっき、アタシたちがいた……」

 男の視線の先を追って、リザもそれを見ていた。傷だらけのアズランドの姿が、脳裏を占めた。

「ライト……」

 仮面の奥で男が息を呑むのが、リザにもわかった。その理由はきっと、自分と同じに思えた。

 男が光の翼を翻す。先ほどのリザのように、虹の輝きをみなぎらせて、引き返した。急速に。

 リザが、それに負けない速さであとを追った。

 空に二つの虹の軌跡を残して。



 月仮面の男が、目が眩むほどの虹色をその身から発散させていた。

 それが、ふと、消え――よろめく。 

 男だけが、立っていた。

 そこの石畳だけ、妙にくぼんでいる。

 周辺の家屋にしても、奇妙にひしゃげた様相を露わにして、幾つかは完全に倒壊している。

 火薬庫の炸裂じみた光景の只中ただなかで、男が喋った。

「……こうまで力を使わされる、か。ただの人間の分際で……」

 あたりの荒れ果てたさまを一瞥し、

「しかし、これで――」

 言いかけたとき、ヒュッと空を切る音がした。

 男が音に気づき顔を向け、咄嗟に左腕が動く。そこに刺さったナイフに、かすかに呻いた。

 が、油断なく右手の結晶で迎え撃っていった。

 家屋の残骸から、飛び出てきたアズランドを。

 片手剣を大きく振りかぶったアズランドの頭から、血が流れた。

 渾身の一撃を叩き込もうという姿勢。決死の面構えでいる。

 それが男には如何にも、無謀に見えただろうか。

 アズランドはまっすぐ突き進んだ。男の攻撃態勢など、見ていなかった。月の面を凝視している。

 胸にひどく美しい杭の先端が触れかけたとき、

「――」

 アズランドが、ぼそりと囁いた。

 それに反応したものがあった。男の腕に刺さったナイフの刃に刻まれた呪文スペルが光を灯し――その身がびくんと跳ねた。

 刃から解放され、一瞬だけ全身を駆け巡った電流に。

 仰け反る男に、アズランドは容赦なく、片手剣を振り下ろした。

 仮面を裂く小気味良い音がした。刃はそのまま、男の肩口から脇下を抜けていった。

 遅れて、血が飛沫を上げ、男の黒衣を赤黒く変えてゆく。

 アズランドは、それを片膝をつきながら、見ていた。石畳に片手剣を突き立て、寄りかかりながら。少しでも気を抜けば、意識が持っていかれそうだった。

 二つに断たれて落ちた仮面を視界に捉えると、まだだ、と自らに言い聞かせる。仮面の下の顔を拝んでやる。  

 アズランドは、男の血に濡れた顔に目を凝らした。

 その目を強く疑った。おかげで、気を失わないでいられた。

「リーズィヒット・クノッヘン……」

 その顔を、そこに見た。



 満身創痍まんしんそういていでいる二人を、ほとんど同時に、虹がかっさらっっていった。

 アズランドは、宙に浮いているのに唖然とした。

 それでもまだ、目はクノッヘンの顔に向いている。同じく、宙にいる相手に。

 その身を抱く太陽の仮面を見た。ついで、自分を両手で持ち上げているのが、リザであることを悟る。

「本当に、なんなんだ……お前たちは」

 アズランドは、力ない声で疑問を投げる。全員に問い質すだけの余力はなく、リザと太陽面の男の会話をただ、聞いているしかなかった。

「一度、退くとしよう。我らとしても不本意ではあるが……そちらも異論はないだろう。リザーヴ=ヴェッセル予備の器

「ええ、そうして。そして帰ったらあの人に伝えて。“これ以上、お姉ちゃんに酷いことしないで”って」

「無意味なことだ。……だが、経過状況の一端として、報告はしておこう」

「……ありがとう。早く、ライトを連れて行ってあげて」

 男が太陽の面越しに、アズランドを見ていた。翼を燦然さんぜんとさせながら、

「今にも死にそうなのは、その男も同様だろう」

 捨て台詞を置いて、いずこかへ飛んで行った。

「待て。まだ、なにも……」

 アズランドが身をよじって声を振り絞ったときには、二人はすでに空の彼方に消えたあとだった。

「ダメ、動かないで。危ないよ。それに……すごく怪我してる」

 アズランドは首を曲げ、リザと視線を交わした。

 リザが悲しそうに眉をひそめた。

 なにがそんなに悲しいのかと思った。ああ、なるほど――彼女の瞳を覗き込んで理解できた。

 そこに映る、敵意を剝き出しにする自分自身の姿に、これ以上ないほど、馬鹿らしいものを見た気がした。

 なんで、そういう顔になるんだ。みっともない。大人げないだろ。

 ただ、知りたかっただけなんじゃないのか。

 訊けば答えてくれるとは限らない。ただ、試すことはできる。  

 そうするつもりでいたはずだ。そう、教わったはずだ。

 あとで、そうしてみよう。今はもう、無理だ。

 さっきから、抗い難い微睡まどろみが、まぶたを重くさせてきて、堪らない。

 暖かで居心地が、良いからか。……女の子に抱かれているというのに? 

 自嘲にしては穏やかな笑いをこぼし、アズランドは瞼を完全に閉ざした。

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