2・1%未満とはいえ

 ──なんてことが、許されるはずもなく。

 結局いつもよりも2本遅い電車で、俺は学校に向かうことになった。

 駅を出てすぐに走ったので、遅刻はなんとか免れた。

 とはいえ朝から体力をゴリゴリ消費した。これも悪魔なあの人のせい、と舌打ちしたくなるのは、果たしていけないことだろうか。

 息を切らしながら教室に入ると「おつかれー」と気怠げに声をかけられた。わざわざ確かめるまでもない、隣の席の星井ナナセだ。


「ナツさん、どうだった?」

「お母さんにめちゃくちゃ怒られて、ふてくされてた。『ただのお泊まりじゃん』『突然だとあちら様にご迷惑でしょ』『そんなことない! おばちゃん、喜んでくれたもん!』──とかなんとか」

「はぁ……」


 たしかに母さんは喜んでいたな、と昨夜のナツさんの人たらしぶりを思いだす。

 それにしても、帰宅してすぐに親子げんかか。あの人も大変だな。

 なんて考えていたら、星井から「はい」と紙袋を渡された。


「なに?」

「うちのお母さんから。なっちゃんが迷惑かけたお詫びだって」

「いいよ、迷惑なんてかかってないし」

「そう言わずに。これも大人同士のお付き合いってやつらしいからさ」


 なるほど、そういうことなら──と四角い紙袋を受け取る。ちらっと覗いた感じだと、どうやら菓子折りのようだ。「あらあら、べつによかったのに」なんて言いつつも、ちょっと嬉しそうな母さんの横顔が目に浮かぶ。


「で、どうだったの?」

「なにが?」

「昨日の夜。私が電話したとき、なーんか様子がおかしかったじゃん?」


 鋭い。たしかに、あのときの俺は危機的状況に陥っていた。


「べつに。何もなかったから」

「本当に? お兄ちゃんそっくりの『なっちゃん』と一晩過ごしたわけでしょ? ムラッとしなかったの?」

「するわけない」


 嘘だ。少しだけした。

 でも、ナツさんがいなくなった今朝のほうがよっぽど興奮した。

 ベッドで彼の残り香を吸い込んだときの、なんともいえない高揚感がよみがえる。もちろん、そんな変態じみた行為、女子に言うわけないけれど。


「まあ、お兄ちゃんとなっちゃん、似てるのは外見だけだもんね」


 星井は、ため息まじりに頬杖をついた。


「なんかさぁ、なっちゃんって『お兄ちゃん』っていうより『お姉ちゃん』って感じがするんだよねぇ」

「そう? どのあたりが?」

「仕草とか喋り方とか。なーんか、いちいちあざと可愛いじゃん? どうすれば相手を揺さぶることができるのか、ちゃんとわかってそうな感じ」

「……なるほど」


 昨夜、危うく泣き落としに引っかかりそうになった身としては、大いに頷くしかない。


「まあ、とりあえずさ、私もお兄ちゃんが戻ってくるまでは『お姉ちゃんができた』と思って楽しむから。青野もちょっとはオイシイ思いをしちゃいなよ」


 意味ありげなその言葉に、俺は本気で首を傾げた。

 オイシイ思い? どういうことだ?

 そんな俺に、星井は「察しが悪いなぁ」と耳打ちしてきた。


「キスくらいしちゃえば、ってこと」


 ──はぁっ!?


「いや──ないから、それは!」

「そのわりに、今ちょっと間が空かなかった?」

「それは単に驚いたせい」


 そう、ただそれだけ。

 頼むから、そういうことにしておいてほしい。


「でもさぁ、こんなチャンス、たぶんもう二度とないよ? それこそ、お兄ちゃんが戻ってきたら絶対に無理じゃん」


 星井は、容赦ない現実を俺に突き付けてくる。


「だからさ、もし、あんたがうっかり誘惑に負けても、お兄ちゃんには秘密にしておくから」


 ねっ、と勢いよく背中を叩かれたところで、担任が教室に入ってきた。日直のゆるめな「きりーつ」の声に、皆ガタガタと立ち上がる。

 けれど、俺の頭のなかは、さっきの星井の言葉でいっぱいだ。


 ──「キスくらいしちゃえば」

 ──「こんなチャンス、たぶんもう二度とないよ?」


 なかなか心を抉ってくれたその指摘は、残念ながら真実だ。夏樹さんが、昨日のナツさん並みに俺を求めてくれる確率は、おそらく1%にも達しない。


(でも、だからといって「今のうちに」というのは……)


 キスもそれ以上の行為も、夏樹さんが俺を求めてくれてはじめて成立するものだ。なのに、夏樹さんではない人の誘惑に流されてしまうのは、どう考えたって大問題だろう。


(そうだ、俺は間違っていない)


 どんなにラッキーチャンスだとしても、俺はナツさんの誘惑にはのらない。キスもそれ以上も絶対にしない。

 ひとり大きくうなずいたところで、隣の席の星井と目が合った。俺の恋愛事情をよく知る彼女は、意味ありげな笑みを浮かべたままだった。

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